記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】一歩前進二歩退却

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今週のエッセイ

◆『一歩前進二歩退却』
 1938年(昭和13年)、太宰治 29歳。
 1938年(昭和13年)7月上旬に脱稿。
 『一歩前進二歩退却』は、1938年(昭和13年)8月1日発行の「文筆」の「随想」欄に発表された。この欄には、ほかに「作家の手帖」(渋川驍)、「ジイドの旅行記」(丸岡明)、「山歩き」(田畑修一郎)、「戸を叩く」(長見義三)、「農民小説の方向」(佐藤民宝)、「雨降りつゞき」(庫田重義)、「北京だより」(秋沢三郎)、「金さんのあそび」(中村俊定)、「島へ来た友人」(浅沼悦)、「井之頭」(山崎剛平)、「憂鬱な話」(井上友一郎)、「子供の作文」(中谷孝雄)が掲載された。

「一歩前進二歩退却

 日本だけではないようである。また、文学だけではないようである。作品の面白さよりも、その作家の態度が、まず気がかりになる。その作家の人間を、弱さを、嗅ぎつけなければ承知できない。作品を、作家から離れた署名なしの一個の生き物として独立させては()れない。三人姉妹を読みながらも、その三人の若い女の陰に、ほろにがく笑っているチェホフの顔を意識している。この鑑賞の仕方は、頭のよさであり、鋭さである。眼力(がんりき)紙背(しはい)を貫くというのだから、たいへんである。いい気なものである。鋭さとか、青白さとか、どんなに甘い通俗的な概念であるか、知らなければならぬ。
 可哀そうなのは、作家である。うっかり高笑いもできなくなった。作品を、精神修養の教科書として取り扱われたのでは、たまったものじゃない。猥雑なことを語っていても、その話手がまじめな顔をしていると、まじめな顔をしているから、それは、まじめな話である。笑いながら厳粛のことを語っていても、それは、笑いながら語っているから、ばかばかしい嘘言である。おかしい。私が夜おそく通りがかりの交番に呼びとめられ、いろいろうるさく聞かれるから、すこし高めの声で、自分は、自分は、何々であります、というあの軍隊式の言葉で答えたら、態度がいいとほめられた。
 作家は、いよいよ窮屈である。何せ、眼光紙背(がんこうしはい)に徹する読者ばかりを相手にしているのだから、うっかりできない。あんまり緊張して、ついには机のまえに端座したまま、そのまま、沈黙は金、という格言を底知れず肯定している、そんなあわれな作家さえ出て来ぬともかぎらない。
 謙譲を、作家のみに要求し、作家は大いに恐縮し、卑屈なほどへりくだって、そうして読者は旦那である。作家の私生活、底の底まで()ごうとする。失敬である。安売りしているのは作品である。作家の人間までを売ってはいない。謙譲は、読者にこそ之を要求したい。
 作家と読者は、もういちど全然あたらしく地割りの協定をやり直す必要がある。
 いちばん高級な読書の仕方は、鷗外でもジッドでも尾崎一雄でも、素直に読んで、そうして分相応にたのしみ、読み終えたら涼しげに古本屋へ持って行き、こんどは涙香の死美人と交換してきて、また、心ときめかせて読みふける。何を読むかは、読者の権利である。義務ではない。それは、自由にやって(しか)るべきである。

 

太宰の研究者・長篠康一郎(ながしのこういちろう)

 私が、今回紹介したエッセイの冒頭「作品を、作家から離れた署名なしの一個の生き物として独立させては()れない。」という部分を読んで、脳裏に浮かんだ人物がいます。それは、その半生を敬愛した作家・太宰治の研究に捧げた長篠康一郎(ながしのこういちろう)(本名・康煕(やすひろ))です(敬称略でお名前書かせて頂くこと、はじめにお詫び申し上げます)。

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長篠康一郎(ながしのこういちろう)(1926~2007)

 昨年、更新していた日めくり太宰治でも、多くの記事を執筆する際に、その研究成果を引用、参考にさせて頂きました。

 長篠は、自ら標榜する「実証的研究」によって、世間一般に定着する太宰のマイナスイメージを全面的に否定しました。全国各地の太宰ゆかりの地を徹底的に取材、時には自ら人体実験を行い、麻薬中毒や左翼運動への関与、数度にわたって行われた自殺・心中未遂など、太宰の死の直後から伝えられてきた「虚像」をひっくり返しました。「太宰文学研究会」も主催し、会員の研究成果を発表する場としていました。
 1948年(昭和23年)6月13日山崎富栄との心中事件も、富栄の主導による他殺説(無理心中説)が「定説」と言われる中、真っ向から否定し、2人は合意の下で玉川上水に入水したと明言しました。
 また、私小説作家だと思われていた太宰の小説が「実は虚構の物語ではないか」という観点から、実証研究を行いました。それまでの『太宰治全集』などに収録されていた「太宰治の年譜」は、太宰の作品の記述をそのまま年譜内にも取り込んだものでしたが、先達の研究成果や自分の調査結果を示しながら、すみやかな年譜の訂正を求めました。
 この年譜の訂正にかかわる活動が、エッセイの冒頭「作品を、作家から離れた署名なしの一個の生き物として独立させては()れない。」という部分を読んで、氏を連想した所以です。

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■長篠の著書 左から山崎富栄の生涯 ー太宰治その死と真実ー(大光社、1967年)、太宰治七里ケ浜心中(広論社、1981年)、太宰治水上心中(広論社、1982年)、太宰治武蔵野心中(広論社、1982年)。

 この「虚像」「定説」を作り上げて来たのは、中央文壇の実力者や太宰研究の権威者とその取り巻き連中でした。自分たちの作り上げたイメージを「実証的研究」により否定する長篠を、彼らは忌み嫌い、研究活動を妨害したり、脅迫したりしました。職場で勤務中にも電話がかかってきたり、家族や太宰文学研究会の会員にも被害が及んだため、長篠は会社を退職し、研究会は解散となりました。
 素晴らしい研究成果を残しているにもかかわらず、インターネット検索で長篠に関する情報をあまり得ることが出来ないのは、こういった経緯があったためでしょうか。

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太宰治研究会の機関誌「太宰治の人と芸術」

 しかし、長篠は、これで太宰研究を諦めるようなことはせず、再び研究会を立ち上げ、雑誌などで執筆活動を再開させました。

 また、長篠は、太宰を愛し支えた女性の地位向上にも努め、1966年(昭和41年)から2002年(平成14年)まで、太宰と、彼を愛し支えた4人の女性(山崎富栄、田部あつみ、小山初代、太田静子)を供養する「白百合忌」も行います。「白百合忌」は、太宰と富栄の意志を汲み、6月13日に行われていました。

 長篠は、2002年(平成14年)、難病・パーキンソン病に侵されました。病気は急激に進行し、容赦なく体力を奪っていったそうです。自らの回復を信じ、社会復帰を目指していたといいます。しかし、それが叶うことはありませんでした。

 氏が遺した研究成果は、決して真似できるものではなく、今後の太宰研究にも大いに活用されていくことでしょう。

 

【長篠康一郎の著書一覧】
・『山崎富栄の生涯 ー太宰治その死と真実ー』(大光社、1967年)
・『 愛は死と共に ー太宰治との愛の遺稿集ー』(虎見書房、1968年)
・『人間太宰治の研究Ⅰ』(虎見書房、1968年)
・『人間太宰治の研究Ⅱ』(虎見書房、1969年)
・『人間太宰治の研究Ⅲ』(虎見書房、1970年)
・『雨の玉川心中 ー太宰治との愛と死のノートー』(真善美研究所、1977年)
・『太宰治七里ケ浜心中』(広論社、1981年)
・『太宰治文学アルバム』(広論社、1981年)
・『太宰治武蔵野心中』(広論社、1982年)
・『太宰治文学アルバム ー女性篇ー』(広論社、1982年)
・『太宰治水上心中』(広論社、1982年)
・『太宰治との愛と死のノート ー雨の玉川心中とその真実ー』(学陽書房女性文庫、1995年)

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■長篠直筆の原稿(複写)

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・太宰文学研究会 編『 追悼 長篠康一郎 ー太宰治に捧げた生涯ー』(彩流社、2009年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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