記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】7月18日

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7月18日の太宰治

  1948年(昭和23年)7月18日。
 太宰治 39歳。

 三鷹下連雀二百九十六番地、黄檗宗(おうばくしゅう)霊泉山禅林寺に葬られ、五七日の法要が営まれた。禅林寺に残る過去帳に記された法名は「文綵院大猷治通居士(ぶんさんいんだいゆうじつうこじ)」である。

太宰、三鷹禅林寺」に葬られる

 1948年(昭和23年)7月18日、太宰は、三鷹下連雀296番地(現在の、東京都三鷹市下連雀4-18-20)にある黄檗宗(おうばくしゅう)霊泉山禅林寺に葬られました。

 太宰が、玉川上水で、愛人・山崎富栄と心中するまでについては、6月6日6月12日6月13日6月14日6月17日の記事で紹介しました。

 太宰は生前、小説花吹雪に、次のように書いています。

(前略)うなだれて、そのすぐ近くの禅林寺に行ってみる。この寺の裏には、森鷗外の墓がある。どういうわけで、鷗外の墓が、こんな東京府下の三鷹町にあるのか、私にはわからない。けれども、ここの墓地は清潔で、鷗外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかも知れないと、ひそかに甘い空想をした日も無いではなかったが、今はもう、気持が畏縮してしまって、そんな空想など雲散霧消した。私には、そんな資格が無い。立派な口髭を生やしながら、酔漢を相手に敢然と格闘して縁先から墜落したほどの豪傑と、同じ墓地に眠る資格は私に無い。お前なんかは、墓地の択り好みなんて出来る身分ではないのだ。はっきりと、身の程を知らなければならぬ。私はその日、鴎外の端然たる黒い墓碑をちらと横目で見ただけで、あわてて帰宅したのである。

 太宰は、「どういうわけで、鴎外の墓が、こんな東京府下の三鷹町にあるのか、私にはわからない」と言っていますが、実は、森鷗外の墓は元々、東京都の向島にある弘福寺にありました。向島は、鷗外が上京した際に住んでいた場所で、ここに最初の鴎外の墓が建てられました。
 しかし、1923年(大正12年)の関東大震災により、東京は壊滅的な被害に遭い、弘福寺も全焼してしまいました。寺の全焼により、鴎外の墓を改葬する必要が出てきたのですが、弘福寺と同じ禅宗の一派・黄檗宗(おうばくしゅう)の寺院という理由で選ばれたのが、「こんな東京府下の三鷹町にある」禅林寺でした。

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 2020年6月20日。雨が続いていた中の、晴れた土曜日。
 太宰のお墓参りと、生誕111周年記念で日めくり太宰治を更新している報告を兼ねて、禅林寺へ行って来ました。

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 お寺の門を抜け、斜め左手方向に歩いて行き…

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 スロープを下って行くと、「寺の裏」の墓地があります。

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 真ん中に建っているのが、森鷗外(本名、森林太郎)のお墓です。
 そして、鷗外のお墓の斜め向かいに建っているのが、太宰のお墓です。

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 「津島家之墓」太宰治、2つの墓石が並んで建っています。

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 「津島家之墓」には、右から順番に、太宰、長男・津島正樹、妻・石原美知子、2020年4月20日に亡くなった長女・津島園子の名前が刻まれています。

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 墓石に刻まれた太宰の戒名は、文綵院大猷治通居士(ぶんさんいんだいゆうじつうこじ)
 しかし、太宰は、富栄と玉川上水で心中する前に、自身の戒名を書き遺していました。この、太宰自身が書き遺した戒名について、長篠康一郎『太宰治の死と白百合忌』から引用して紹介します。

(前略)昭和二十三年六月十三日夜半、太宰治は山崎富栄(二十八歳)を伴って玉川上水に入水した。ふたりが生活を共にしていた三鷹市下連雀野川家二階の富栄の部屋には、正面に太宰治自筆の「諦生院法道慈善施先祖」という総戒名が貼ってあり、その前に太宰と富栄の写真を飾り、お花と水が供えられていた。

 

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■野川家二階の富栄の部屋

 

(中略)太宰治が死に臨んで書きのこした「諦生院法道慈善施先祖」という総戒名は、ある高僧によると”死”を決意した太宰が自分の生涯を振り返り、これまで自分を愛し、支え、慰めてくれた優しい女性たちを供養して欲しいという、太宰治の最後の願いがこの総戒名には込められているのだという。(中略)
 山崎富栄は太宰治と出会った最初の夜、太宰の「聖書ではどんな言葉を覚えていらっしゃいますか?」の問いに「吾子(あこ)よ我ら言葉もて相愛することなく、行為(おこない)真実(まこと)とを以てすべし」と答えている。太宰治にとって大切なのは、紙に書いただけのものではなくて、人生を如何に生きたかという実際の行為(おこない)(生きざま)にこそあったのではないか。

 太宰の遺した総戒名「諦生院法道慈善施先祖」
 その真意は、如何に。

 【了】

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【参考文献】
・「月刊カレント八月号」(潮流社、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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