記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】9月18日

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9月18日の太宰治

  1938年(昭和13年)9月18日。
 太宰治 29歳。

 井伏鱒二の付添い、斎藤せいの案内で、甲府駅の北約五分位の距離にあった、甲府市水門町二十九番地の石原家を訪問。結婚話の相手石原美知子と見合いをした。

太宰、石原美知子とのお見合い

 1938年(昭和13年)9月18日、日曜日の午後。太宰は、師匠・井伏鱒二の付添い、斎藤せいの案内で、甲府駅から北に5分位の距離にあった、甲府市水門町29番地の石原家を訪問。結婚話の相手・石原美知子とお見合いをしました。

 太宰は、この5日前の9月13日から、井伏の勧めで、荒んだ20代を清算し、「思いを新たにする覚悟で」、山梨県南都留郡河口村御坂峠の天下茶屋に滞在していました。
 この天下茶屋滞在には、井伏たちが「太宰をいつまでも独り身にしておくのは危険である」という配慮から、太宰の結婚相手探しをはじめ、候補に浮上したのが「甲府の女性」だった、という背景もありました。

 太宰を石原家まで案内した斎藤せいは、井伏の依頼で太宰の結婚相手探しをした高田英之助の許嫁・斎藤須美子の母親で、夫・斎藤文二郎は、甲府の交通網を担っている御嶽自動車の社長でした。高田から話を聞いた須美子は、甲府高等女学校で2年後輩の石原愛子に、適齢の姉・美知子がいると紹介し、太宰の結婚話がはじまりました。

 この日のお見合いの様子を、太宰は富嶽百景で、次のように書いています。

 井伏氏は、御坂峠を引きあげることになって、私も甲府までおともした。甲府で私は、或る娘さんと見合することになっていた。井伏氏に連れられて甲府のまちはずれの、その娘さんのお家へお伺いした。井伏氏は、無雑作な登山服姿である。私は、角帯に、夏羽織を着ていた。娘さんの家のお庭には、薔薇がたくさん植えられていた。母堂に迎えられて客間に通され、挨拶して、そのうちに娘さんも出て来て、私は、娘さんの顔を見なかった。井伏氏と母堂とは、おとな同士の、よもやまの話をして、ふと、井伏氏が、
「おや、富士」と呟いて、私の背後の長押(なげし)を見あげた。私も、からだを()じ曲げて、うしろの長押を見上げた。富士山頂大噴火口の鳥瞰写真が、額縁にいれられて、かけられていた。まっしろい睡蓮の花に似ていた。私は、それを見とどけ、また、ゆっくりからだを捻じ戻すとき、娘さんを、ちらと見た。きめた。多少の困難があっても、このひとと結婚したいものだと思った。あの富士は、ありがたかった。

 また、美知子は同じくこの日の様子について、回想の太宰治で、次のように書いています。

 井伏先生に太宰のための嫁探しを懇願したのは、北、中畑両氏である。
 井伏先生と同郷で愛弟子の高田英之助氏が新聞社の甲府支局に在勤中、斎藤家のご長女須美子さんと知り合い、婚約中の間柄で、北さんと中畑さんに懇願された井伏さんは高田氏を通じて近づきになった斎藤氏に書面を送って、一件を依頼された。斎藤家では、愛婿となるべき人の、敬愛してやまぬ先輩からの依頼とあって周囲を物色し、この書面を私の母のもとに持参し、紹介してくださったのである。
 斎藤夫人が井伏先生と太宰とを、水門町の私の実家に案内してくださった九月十八日午後、甲府盆地の残暑は大変きびしかった。井伏先生は登山服姿で、和服の太宰はハンカチで顔を拭いてばかりいた。黒っぽいひとえに夏羽織をはおり、白メリンスの長襦袢の袖が見えた。私はデシンのワンピースで、服装の点でまことにちぐはぐな会合であった。
 縁先に青葡萄の房が垂れ下がり、床の間には、放庵の西湖の富士と短歌数首の賛の軸が掛かっていた。太宰の背後の鴨居には富士山噴火口の大鳥瞰(ちょうかん)写真の額が掲げてあった。太宰は御坂の天下茶屋で毎日いやというほど富士と向かい合い、ここでまた富士の軸や写真に囲まれたわけである。

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■石原美知子

 美知子は、石原初太郎石原くらの四女として、1912年(明治45年)1月31日に生まれました。石原初太郎は、第一高等中学校、東京帝国大学理科大学卒で、山口県立豊浦中学校、島根県立第一中学校、島根県立第二中学校、山形県立米沢中学校などの校長、広島高等師範学校地質学教室講師、山形県嘱託などを歴任。『自然地理学概論』(宝文館、1923年)をはじめ、多くの著書を残しています。太宰は、富嶽百景を執筆する際、冒頭の富士山に関する記述を、石原初太郎の著書『富士山の自然界』山梨県、1925年)を参考にしています。

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■美知子の父・石原初太郎

 美知子は、1929年(昭和4年)3月、山梨県甲府高等女学校を卒業し、同年、東京女子高等師範学校文科に進学。1933年(昭和8年)3月に同行を卒業。同年8月に山梨県立都留高等女学校の教諭に就任し、大月町にある学校の官舎に住んで勤務しました。地理、歴史の科目を担当して教壇に立ちながら、1934年(昭和9年)9月から、寄宿舎の舎監に就任。もう一人の教諭と1週間置きに交代で、校舎の西側にあった寄宿舎の二階に泊まりました。
 美知子によると、「国語の授業を持ちたかった」が、「地・歴の教員が少なかったため、地・歴の担当となった」そうです。
 当時の在校生・倉田ふさ子は、美知子のことを「つつましく、しとやかな方でした。しかし、しんは強く情熱的な方だったと思います」と回想しています。

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■教師時代の石原美知子 後列左が美知子。

 お見合いの後、井伏は折り返し御坂峠の天下茶屋へ戻り、翌朝、妻・井伏節代とともに帰郷しました。太宰はその日の夜、甲府の宿に一泊して、翌朝、天下茶屋に戻りました。
 太宰は、砂子屋書房に宛てて、処女短篇集晩年を石原家に届けることを依頼する手紙を書きました。その手紙には、「その本が自分の運命を決定する、その婦人には、拙著を読んで貰って、それで、彼女が自分と結婚するかどうか決まるのだから、何分よろしくたのむ」と書かれてあったそうです。石原家には、晩年に加え、同年9月1日付で発行されたばかりの満願が掲載された「文筆」も届けられました。

 【了】

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【参考文献】
・長篠康一郎『太宰治文学アルバムー女性篇ー』(広論社、1982年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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