記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】11月16日

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11月16日の太宰治

  1938年(昭和13年)11月16日。
 太宰治 29歳。

 御坂峠を降りて、石原くらが見付けてくれた、石原家と齋藤家との中間辺り、甲府上府中中西寄りの、甲府市西竪町九十三番地の素人下宿寿館に止宿した。

太宰、天下茶屋を後にする

 1938年(昭和13年)11月16日、太宰は、同年9月13日から滞在していた山梨県南都留郡河口村御坂峠の天下茶屋を降り、のちに妻となる石原美知子の母・石原くらが見付けてくれた、石原家と斎藤家の中間にあたる、甲府上府中西寄りの山梨県甲府市西竪町93番地の素人下宿・寿館に止宿しました。

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■御坂峠の天下茶屋

 この寿館は、朝日町のにぎやかな通りから約30メートルほど小路を入ったところにあった瓦葺のニ階建てで、入口には「高等御下宿寿館」という看板がかけてあったそうです。

 寿館に止宿した頃の太宰は、約1ヶ月前の10月24日に、師匠・井伏鱒二とニ度と破婚はしない旨の「誓約書」を結び、11月6日には石原家で結婚披露宴を行ったりと、美知子との結婚を控え、本格的に準備をはじめていました。

 美知子は著書回想の太宰治で、寿館止宿中の太宰について、次のように回想しています。

 昭和十三年の十一月半ば、太宰は御坂峠をおりて、寿館に止宿した。この下宿は、甲府の上府中(甲府市の北部の山ノ手)の西寄りにあった。
 当時甲府の市内には大小の製糸工場が点在していて寿館の近くにも、「小路一つ隔てて」かどうかは確かめていないが、製糸工場があって、サナギを煮る匂を漂わせていた。製糸工場はみな木造二階建てで通行人にいくつも並んだ窓を見せていた。ここで働く女性たちは通勤で、宿舎の設備のある大規模の施設はなかった。太宰が寿館で書いた”I can speak”の女工さん姉弟の姿と声とは、幻で見、幻で聞いたのであろう。
 寿館は下宿屋らしい構えで、広い板敷の玄関の正面に大きい掛時計、その下が帳場、左手の階段を上り左奥の南向きの六畳が、太宰の借りた部屋である。私の母が探して交渉してくれたのだが、勤めももたず、荷物というほどの物も持たぬ、いわば風来坊の彼のために保証人の役もしたのだと思う。御坂にくる迄の彼の荻窪の下宿が西陽のさしこむ四畳半と聞いて、それはひどいと同情した母の声音を記憶している。日当りのよい窓辺に机を据え、ざぶとん、寝具一式を運び、一家総がかりで彼のために丹前や羽織を仕立てたり、襟巻を編んだりした。太宰はほとんど毎日、寿館から夕方、私の実家に来て手料理を肴にお銚子を三本ほどあけて、ごきげんで抱負を語り、郷里の人々のことを語り、座談のおもしろい人なので、私の母は(今までつきあったことのない、このような職業の人の話を聞いて)、世間が広くなったようだ、と言っていた。酒の合間に硯箱や巻紙封筒を出させて、これは下宿にその用意がなかったからであろうが、ちゃぶ台に向かったまま、左掌の上で巻紙を繰り出しながら毛筆を走らせて、私の母なども時折、荷札に宛名を書くときなどその手でやっていたが、私はとしよりの芸当くらいに思っていたので、太宰がよその茶の間で、私どもの面前で、そうして巻紙を下におかずに手紙を書くのを見て、若くても文士というものはさすが違っていると、感服した。
 太宰はあるとき私の亡兄の追悼文集を拾い読みしていて、寄稿者の中に弘前高校の同期生の名を発見し、太宰も私の兄も同じ昭和五年生大学に入学したことがわかり、私の実家のものみな太宰との距離が近くなったように感じた。
 いつもお銚子三本が適量だと言って、キリよく引きあげていたが、適量どころか火をつけたようなもので、このあと諸所を飲みまわって異郷での孤独をまぎらわせていたらしい。ある飲み屋の女の人から「若様」とよばれたなどと言っていた。
 ある日下町を一緒に歩きまわってから寿館に寄ったら、寝具が敷き放しになっていて枕もとにはパンの食べ残しがちらばっていた。太宰は大いそぎで、ふとんを二つ折にし、パンのことを「倉さんが東京から送ってくれたのだ」と言った。倉さんこと小林倉三郎氏のことは太宰からもその前に聞いていたし、「虚構の春」の冒頭の書簡の「田所美徳」は、小林氏のことであろうと推測していた。佐藤春夫夫人の令兄で、太宰を強く支持して下さっていた方である。パンのことは真実かもしれず、あるいはみっともないところを見られてとっさに口から出た出まかせであったかもしれない。
 寿館では部屋ごとにお膳を運ばずに玄関の右わきの食堂で朝夕の食事を摂るきまりであった。夜遅く帰ると食堂は閉まっていて、酒はのんでも腹にたまるものを食べていないので、床の中でパンをかじるような侘しい夜もあったのである。「夜食」という二字が目に入ると、私は今でもその夜の寿館の太宰の部屋で見た光景を思い出す。
 倉さんが送ってくれたという夜食のパンのこと、それから翌年御崎町(さきちょう)に移ってすぐ書いた「黄金風景」や「新樹の言葉」がたけさんを恋う心から生まれていることから、私には甲州という異郷にあって太宰が、小林さんや郷里のたけさんなど、自分を支持してくれる人の名を呼びつづけていたような気がする。
 寿館の主のKさんの息子さんは事故か病気のせいかで、足が不自由になりМ高校を中退して療養中であることを太宰から聞いた。
人間失格」の終りに近く、不幸な薬局の女主人が登場する。私はこれを読んだとき、寿館の息子さんのことを連想した。

 天下茶屋で執筆を進めていた火の鳥は遅々として捗りませんでしたが、この頃には、やっと100枚近くになっていたといいます。

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■太宰と石原家の人びと 前列左から、太宰、義母・石原くら、中列左から、義妹・愛子、美知子、義姉・富美子、後列は義弟・昭。1939年(昭和14年)正月、甲府市水門町の石原家の玄関横で撮影。 

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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