記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】11月17日

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11月17日の太宰治

  1941年(昭和16年)11月17日。
 太宰治 32歳。

 文士徴用令書を受けた。

太宰に文士徴用令書が届く

 1941年(昭和16年)11月15日、太宰は「文士徴用令書」を受け取ります。同年12月8日、日本の機動部隊がハワイ真珠湾を奇襲する直前のことでした。

 1939年(昭和14年)7月8日、国家総動員法に基づいて国民徴用令が制定され、同年7月15日に施行されました。これは、戦時下において、厚生大臣に対して強制的に人員を徴用できる権限を与えたもので、この徴用令の施行により、国民の経済活動の自由は完全に失われました。
 人員を徴用する際に出されたのが召集令状で、応召者(徴集対象者)の戸籍がある市町村を所管する連隊区司令部(陸軍)、もしくは鎮守府(海軍)が作成・発行し、役場の兵事係(現在の戸籍係に相当)の職員が対象者の自宅を訪れ、本人に直接手渡して交付していました(本人が不在の場合は、同居の家族に交付)。

 この「召集令状」には、赤紙」「白紙」「青紙」の種類がありました。
 赤紙は、在郷軍人を軍隊に召集するために発行された文書。「白紙」は、徴集令状で、戦争には行かせないが、軍需工場での労働のために召集するために発行された文書。労働条件が過酷だったため、赤紙と同様に恐れられたそうです。「青紙」は、白紙の後で登場し、すでに退職した人たちを職業指導などで、工場や企業などに配属するために発行された文書でした。

 作家の徴用がはじまったのは、1941年(昭和16年)10月からで、太宰の手元に届けられたのは、いわゆる「白紙」と呼ばれる徴用令書でした。

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■徴用令書(見本)

 徴用令書を受け取った2日後、同年11月17日。太宰は、本郷区役所二階の講堂で文壇の人々とともに、徴用のための身体検査を受けました。
 このときの様子を、太宰の妻・津島美知子回想の太宰治に書いているので、引用します。

 太宰のところに出頭命令書が舞いこんで、本郷区役所に行くと文壇の人々が集まっていて、徴用のための身体検査を受けた。太宰の胸に聴診器を当てた軍医は即座に免除と決めたそうである。「肺浸潤」という病名であった。助かったという思いと、胸の疾患をはっきり指摘されたこととで私は複雑な気持であった。

 「肺浸潤」とは、結核菌に侵された肺の一部の炎症が、だんだん広がっていくことです。過去には、肺結核の初期の病状のことを意味していました。

 同年11月21日午前9時、太宰は、文士徴用で大阪の中部軍司令部に出頭を命ぜられて特急(つばめ)で東京駅を出発する、小田嶽夫中村地平井伏鱒二高見順寺崎浩豊田三郎を見送りに行きます。

 太宰はこの後も、召集がかかった自身の弟子たちを見送っています。翌年の1942年(昭和17年)1月に、三田循司。同年4月に、堤重久。翌々年の1943年(昭和18年)9月に、桂英澄
 太宰はどのような心境で、弟子たちを戦地に送り出していたのでしょうか。

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■1943年(昭和18年)の太宰 井の頭公園で撮影。左は、三上雪郎。

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「赤紙、白紙、青紙とは?」(ヒロシマの視線
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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