記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】11月18日

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11月18日の太宰治

  1940年(昭和15年)11月18日。
 太宰治 31歳。

 旧制新潟高校出身の野本秀雄(のもとひでお)の依頼を受け、新潟高等学校で講演をした。

太宰、新潟へゆく

 1940年(昭和15年)10月下旬、太宰は、旧制新潟高校の卒業生で、東京帝国大学文学部国文学科に在籍していた野本秀雄(のもとひでお)から「あるお願い」をされます。
 今回は、太宰治研究 5に収録されている野本の回想『「みみずく通信」と「佐渡」のころ ー旧制新潟高校講演の前後ー』から引用しながら、「あるお願い」から始まった、太宰の新潟行きについて紹介します。

 私の出身校の旧制新潟高校では、文芸部の主催で、毎年東京から作家を招いて文芸講演を行っていた。それは、生徒たち自身の勉強のためと同時に、地方都市として中央の文化に遅れなようにと、一般新潟市民に対する文化活動の一環でもあった。
 昭和十五(一九四〇)年には、文芸部では太宰治を招きたいということになった。太宰治は、当時すでにかなり多くの作品を発表していたが単行本はまだ数点程度であり、<異色の新進作家>として特に若い人の間に人気があった。
 講演の依頼・説明は文芸部員が上京して当たるべきことだが、簡略化して、部の先輩、つまり新潟高校を卒業して東京の大学にいる者が、それを引き受けることが多かった。
 それで太宰治には、その年の春東大国文科に入学したばかりの私が当たることになった。私は当時、太宰治の作品はほんの数点しか読んでいなかったが、伝手をたどって、当時東大図書館に勤務していた作家渋川驍(しぶかわぎょう)氏(物故)に紹介を頼んだ。渋川氏は直ぐに連絡をとって、太宰治は承知してくれたが直接に説明を聞くために、私に会ってくれるという日を知らせてくれた。
 一〇月下旬の妙に薄ら寒い日だった。本郷に下宿していた私は中央線に乗って、当時の東京府三鷹下連雀(今は賑やかな三鷹市)の太宰治の家をたずねた。吉祥寺駅からの方がわかりやすいと聞いていたのでそこで下り、井の頭公園を突っ切って、畑の中を小川に沿ってかなり歩くと、周囲にはあまり家のない畑の真ん中に、太宰治の家はあった。小さな平家で、今でいう三Kといったところであろうか。

 

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三鷹の家の玄関

 

 玄関の硝子戸をガタガタ押し開けると、狭い三和土(たたき)に何人かの靴があり、硝子戸の内では人の話声がしている。私はくり返し声をかけたが聞こえないようだった。「出版社の人たちでも来ているのかも知れない。これでは話ができそうもない。しばらく時間をおいて来てみよう」と思って、そっと戸を閉めた。井の頭公園へ引っ返し、池の貸しボートなどで時間をつぶした。
 再び玄関の戸を開けてみると、客は帰っていた。玄関と障子戸一枚でへだてた六畳間に、太宰治は腕を組んできちんと座っていた。
 部屋の隅に机はあったが客用のテーブルなどはなく、私は彼の前にぎこちなく膝を折って座った。そして、講演承諾のお礼をのべたあと、新潟高校の講演会の趣旨について話し、古くは芥川龍之介川端康成などを招いたこと等も言い添え、例年の講演会の具体的な情況なども説明した。その間、太宰治は黙ったままだった。地方から上京したばかりの大学一年生は講演料のことなど言いにくくて、どもりながら付け加えたりした。
 だが、太宰治は一言の受け答えもせずに、私が話し終わったあとも、じっと腕組みをしたまま、南庭に面した障子の方へ首を向けて黙りこくっていた。私も黙ったままになった。ずいぶん長い時間がたったようだった。太宰治は変わり者だと聞いて覚悟はして来たものの、こうした場面にぶつかるとは思いもよらず、その場の白けた雰囲気に私はすっかり閉口してしまった。

 

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三鷹の家の南庭

 

 障子には小春日和の陽が明るく当たっており、庭の木の影とその枝に飛び回る野鳥の影とが、くっきりと映っている。それを見ながら私はつい「今日はわりに暖かですね」と言ってしまった。いかにも取って付けたような自らの言葉にハッとしたとたんに、太宰治の、一喝のような言葉が飛んできた。
 「なんだ、それは。商人のお世辞じゃああるまいし。君は学生じゃないか。自分の身を自分で切り裂いて、そこから噴き出す血のようなことだけ言いたまえ。それが真実の言葉というものだ」
 これには参った。私は頭を下げっ放しだった。以下の文章中に引用する太宰治の言葉はすべて「という意味(、、)の言葉」であるわけだが、右の一喝の言葉だけは、半世紀後の今も殆どそのまま再現できたような感じである。それほど私には<こわい言葉>だったのである。
 そのあと太宰治は話し続けて、文学のこと、恋愛のこと、交友のことなど、さまざまな事柄を鎖のようにつなげながら、小一時間も語り続けた。それは、自己を語ることでもあり、人間・人生を論ずることでもあり、そして私は、それ自体一つの作品を読み聞かされているかのように感じていた。その中に、やはり私に係わる<こわい言葉>がもう一つあった。それは、交友・人間関係についての話の中であった。
 「人は一日のうちで、人との関係に一番多くの神経を使っているものだ。むだな時間も費やしている。私はつき合いたくない人が訪ねてきた時には、そこへぴたりと手をついて、『どうかお帰りください』と、きっぱり言うつもりだ」
と言い、次のこわい言葉が続いたのである。
 「さっき玄関の戸を開けたのは君だろう。人の家を訪ねる時は、先客があろうがなかろうが、どんな偉い客がいようが、『おれが第一の大切な客なんだ』という自信を持って来るべきなんだ」
 しまったと思った。この日私が来ることは予定されていたとは言え、こう見透かされていては言葉もない。やはり頭を下げただけであった。話が一段落すると、彼は初めて例のはにかんだような笑顔になり、「君が新潟へ案内してくれるといいんだが。ひとりじゃ心細い」と言って、「飲みに行こう」と立上り、もう薄暗くなった道を、三鷹駅近くのおでんやへ私は連れて行かれた。飲みながら彼は
 「新潟のついでに佐渡へ行ってみようと思う。佐渡は死ぬほど淋しい所だろう。一度そういう所へ行ってみたいんだ」
と言ったが、短篇「佐渡」(昭和一六<一九四一>年一月)でくり返し使っている「死ぬほど淋しいところ」という言葉は、この時に言っていたのである。彼が新潟での講演を引き受けたのは、このことが大きな原因だったに違いない。

 

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  野本の三鷹来訪から、2週間程度が過ぎた同年11月16日。太宰は、野本に案内され、一路、新潟を目指します。

 一一月一六日の朝、案内役を引き受けた私は、太宰治とは上野駅で待ち合わせて新潟に向かった。当時は急行で四時間だった。列車が上越の山にさしかかるころ、太宰治は窓の外へ眼をやったり、何かつぶやくふうでもあり、ちょっと様子の違った感じがした。霧の吹き上げている上越の山の景色が珍しいのかなと思ったりした。私はその頃まだ、太宰治小山初代との自殺未遂を知らなかったが、後になってそれが上越水上温泉だったことを知り、あの時の彼の動きの変化はそれと関係があったのかな、とも思った。それは思いすごしだったかも知れないが。

 

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■初代新潟駅舎と駅前広場 昭和戦前期の撮影。

 

 新潟駅に着くと、文芸部の委員の宇尾野宏君(物故)が出迎えに来ていた。車中で、新潟名物の日本一長い万代橋の話などもしていたので、その長い橋を歩いて渡ったが、短篇「みみずく通信」(昭和一六年一月)には、「別段、感慨もありませんでした」とのみ書かれている。用意されていた古町通りの大野屋旅館に案内した。それは新潟市では名のある古い旅館で、毎年の教師はたいていそこに泊まった。講演の時間を見計らって車を呼ぶと、太宰治は鞄から袴を取り出して身につけた。改まった感じだった。講演会の具体的なようすは、伊狩章(いかりあきら)氏が(中略)詳述しておられるので、ここではすべて省略に従う。なお、講演の内容には、先月私が訪ねた時に彼が小一時間語ったことが、かなり含まれていた。それは当然のことだけれども、結果として、あの時の話は講演のリハーサルになったわけだな、と思ったりした。してみると、あの時、彼が腕を組んで長いこと沈黙していたのは、学生服の私を目の前にしたために、高校生たちにどんな話をしたらよいかが気になって、いろいろと思いめぐらしていたのではないかなどと、私は想像した(しかし、それは後述するように、あとで修正することになる)。

 ここで、 太宰治研究 3に収録されている、野本の回想にも登場した、当時旧制新潟高校に在籍していた伊狩章(いかりあきら)「旧制新潟高校太宰治 ー初めての講演ー」から、太宰講演の様子について引用します。

 講演会の会場は学生ホールの階上、観客は学生だけではなく、街に貼られたポスターを見て集まって来た一般市民もかなり多く、席は一杯になっていたといいます。

 太宰は壇に上ると本を二冊とりだして「これは自作の作品ですが、はじめにこれを読みます」と言うとそのまま本を読みだした。
 これには意表をつかれたというか、少々呆気(あっけ)にとられた思いだった。聴衆がちょっとザワめいた。
 後から分かったのだが、それは「思い出」の一節だった。太宰はしばらく一五分か二〇分位読むと、バタンと本を置いて何か説明した。私小説について語ったのだが、その時の私にはよくわからなかった。
 訥々(とつとつ)とした語り口で、雄弁の反対の印象をうけた。ただし、チャンとした標準語で東北なまりは感じられなかったかと思う。
 暫く、ニ、三〇分位しゃべると水を飲み、また別の本をとり出して読みはじめた。この方はよく分った。「走れメロス」である。これを二〇分ちかく朗読、また本を置くと、こんどは友情についてしゃべった。
 これはかなり熱を入れてしゃべった。少々力んで顔が上気していた。聞いていると、その情熱に引き込まれるようなところがあったのを憶えている。幼稚な高校生の私の頭に、それだけの感銘を与える何かがあったのであろう。
 太宰は早くから若い読者、青年層の心を捉える才分をそなえていたように思われる。文章でもそうしたところが光っていた。
  (中略)
 ともかく、今から考えると太宰の最初の講演は成功だった。太宰らしく、しかも聴く者、高校生に印象づけるところも大きく、上々の出来ばえと言ってもよかろう。
 講演会後、私たちの間で太宰の人気は急上昇した。私らは手あたりしだいに彼の作品を読むようになった。

 

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■講演中の太宰 写真は、1940年(昭和15年)10月上旬東京商科大学で「近代の病」と題して行われた講演の様子。

  講演が済むと、太宰は席を移し、太宰を囲んで座談会になりました。座談会は明るい雰囲気で、学生たちからは質問もなく、太宰が1人しゃべりました。
 予定の時間が来ると、太宰は退席して校長室へ行き、文芸部長の教授から70円(現在の貨幣価値に換算すると、約75,000~79,000円)の謝礼を受け取ったそうです。

 野本の回想に戻ります。

 講演会は成功裡に終った。(中略)講演会が終って太宰治は、文芸部の生徒たちと学校のすぐ近くの浜べに行き、佐渡ヶ島の見える砂丘にたたずみ、それから市街に出て、両岸に柳の並ぶ掘割りの道を歩き、イタリヤ軒での歓迎会のテーブルにつく。半日たっぷり生徒たちとつき合ったわけである。(中略)朝早く東京を発ってから相当にきついスケジュールだったわけだが、彼は疲れたふうは殆ど見せなかった。しんの丈夫な人なんだなと思った。

 

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■講演会後、旧制新潟高校の図書室で 前列中央が太宰、後列左から3人目が野本。

  イタリヤ軒は西洋料理店。モダンな外観と重厚な内装とで、市民からは「鹿鳴館の再来」ともてはやされていたそうです。
 太宰は、『みみずく通信に「ここは有名なところらしいのです。君もあるいは、名前だけは聞いた事があるかも知れませんが、明治初年に何とかいうイタリヤ人が創った店なのだそうです。二階のホオルに、そのイタリヤ人が日本の紋服を着て収った大きな写真が飾られてあります。モラエスさんに似ています。なんでも、外国のサアカスの一団員として日本に来て、そのサアカスから捨てられ、発奮して新潟で洋食屋を開き大成功したのだとかいう話でした。」と書いていますが、創始者のイタリア人は、ピエトロ・ミリオーレ。1874年(明治7年)にサーカス「チヤリネ曲馬団」の賄い夫として新潟で巡回公演中に足をケガし、傷が癒えなかったため、新潟に置き去りにされます。新潟に残ったミリオーレは、市内で牛肉、牛乳の販売店を開業し、これがイタリア軒の始まり。ミリオーレは、ミオラの愛称で市民に親しまれたそうです。

 翌一一月一七日、私と委員の宇野尾君は、佐渡へ行く太宰治を港へ案内した。<死ぬほど淋しい所>は余人の立ち入る世界ではないので、当然のこと私は同行しなかった。霧雨にかすむ港で、太宰治は長身を寒そうにかがめて「おけさ丸」に乗り込んだ。それから佐渡夷港(えびすこう)(今の両津港)に着くまでの三時間近くのことが、短篇「佐渡」の前半に生き生きと描かれている。

 

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■おけさ丸

 

 それは、佐渡ヶ島の工字形の形態と夷港(えびすこう)の位置の関係で、初めて佐渡へ行く人は、船の進み方が理解できないで、たいがいが錯覚。混乱を生ずることなのだが、この作品について、佐渡出身の文芸評論家青野末吉が、「小説とはありがたいものだと思った。船が佐渡へ近づいていく時の人々の感情を、まさにその通り見事に描き出してくれている。」という意味のことを何かに書いていた。
 もしも私が案内に同行していたら、太宰治の疑問に直ぐ答えたであろうから、青野末吉を<ありがたい>と感動させた文章は生まれなかったわけだ、と思うので、その部分をほんの少し敢えて引用しておきたい。

 

(中略)佐渡は、もうすぐそこに見えている。全島紅葉して、岸の赤土のがけは、ざぶりざぶりと波に洗われている。もう、来てしまったのだ。それにしては少し早すぎる。(中略)船は、島の岸に沿うて、平気で進む。(中略)これは、佐渡ヶ島でないのかも知れぬ。(中略)
 
ひょいと前方の薄暗い海面をすかし眺めて、私は愕然がくぜんとした。(中略)はるか前方に、かすかにあおく、大陸の影が見える。(中略)満洲ではないかと思った。まさか、と直ぐに打ち消した。私の混乱は、クライマックスに達した。日本の内地ではないかと思った。それでは方角があべこべだ。朝鮮。まさか、とあわてて打ち消した。滅茶滅茶になった。能登半島。(中略)「さあ、もう見えて来ました。」という言葉が、私の耳にはいった。
 私は、うんざりした。あの大陸が佐渡なのだ。大きすぎる。北海道とそんなに違わんじゃないかと思った。(後略)

 

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■「幽かに蒼く大陸の影が見える。満州ではないかと思った」

 

 佐渡へ着く前から混乱し、うんざりした太宰治は、あとの小旅行もうんざり続きであった。そして「佐渡には何も無い。あるべき筈はないという事は、なんぼ愚かな私にでも、わかっていた。けれども来て見ないうちは、気がかりなのだ。」(佐渡)ということになった。しかし、この短篇の最後の場面は次のようにしめくくられている。

 

 外は、まだ薄暗かった。私は宿屋の前に立ってバスを待った。ぞろぞろと黒い毛布を着た老若男女の列が通る。すべて無言で、せっせと私の眼前を歩いて行く。
「鉱山の人たちだね。」私は傍に立っている女中さんに小声で言った。
 女中さんは黙って首肯うなずいた。

 

 私は、この描写を、佐渡そのものが作家の確かな眼でしっかりと捕らえられた名文だと思っている。
 佐渡に二泊した太宰は、一九日の午後新潟発上野行きの汽車に乗った。私も打ち合わせ通りに行って、彼の前の席に腰をおろしたが、彼は不機嫌なようすだった。それで私も「佐渡はいかがでしたか」などと気軽に話しかけられず、黙っていた。だが、発車すると間もなく「参ったよ」と切り出し、旅館での夕食後に散歩に出かけて立ち寄った料亭で、次々と出される料理の山にうんざりしたことを、事細かに長々と話し続けた。そして「みんな話したら、さっぱりしたよ」と笑顔になった。後に短篇「佐渡」を読んだ時、私に長々と話した内容が、その何分の一かにきっちりと書かれているので、小説の文章とはこういうふうに書かれるものなんだな、などと思った。

  同年11月19日、太宰は、新潟に来た時と同じように野本に付き添われ、三鷹へ帰京しました。
 野本の回想中にも登場しましたが、太宰の旧制新潟高校での講演と佐渡行きについては、太宰の短篇みみずく通信佐渡の題材になっています。

 【了】

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【参考文献】
・長篠康一郎『太宰治文学アルバム』(広論社、1981年)
・『太宰治研究 3』(和泉書院、1996年)
・『太宰治研究 5』(和泉書院、1998年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「日本円貨幣価値計算機
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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