記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】1月20日

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1月20日の太宰治

  1942年(昭和17年)1月20日頃。
 太宰治 32歳。

 三田循司に「招集令」が来て、葉書で知らされ、「生きる道が一すぢクツキリ印されて、あざやかな気が致しました。」と返信。

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『散華』のモデル・三田循司

 三田循司(みたじゅんじ)(1917~1943)は、岩手県花巻市の出身。太宰の弟子の一人で、『散華』の主人公「三田君」のモデルです。

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 三田は、東京帝国大学文学部国文学科で1つ年下の友人・戸石泰一(といしたいいち)(1919~1978)と、1940年(昭和15年)12月13日に三鷹の太宰宅へ文学の話を聞きに行ったのがはじまりで、戸石と共に同人誌「芥」を編みながら、月に一度は太宰宅を訪問するようになりました。最初の訪問は、満月の夜だったそうです。
 1941年(昭和16年)12月に東京帝国大学を繰り上げ卒業し、翌1942年(昭和17年)2月1日に盛岡の歩兵第百五連隊、盛岡北部第六十二部隊に入営しました。

 太宰は、三田から招集令が来たことをハガキで知らされ、以下のように返信しています。ちなみに、このハガキは2009年(平成21年)6月19日に太宰直筆の未発表ハガキ(三田循司宛)4通が発見されたと報道されたうちの1枚(1942年(昭和17年)1月23日付)で、現在『太宰治全集』の書簡集には未収録となっています。

  岩手県花巻町一日市 三田循司 様
  東京府三鷹下連雀一一三 太宰治

 拝復
 けさほどは、おハガキを いただきました。召集令がまいりましたそうで、生きる道が一すじクッキリ印されて、あざやかな気が致しました。おからだ お大事になさって、しっかりやって下さい。
 はるかに 御武運の長久を祈る。   不一

 それまで、三田の才能を手離しでは認めていなかった太宰ですが、戦地から届いたハガキに対して「一流の詩人の資質を得」たと記しています。三田は、太宰を介して山岸外史からの評価も得ています。

 その後、三田は1942年(昭和17年)10月26日に北海守備隊に転属を命じられ、翌1943年(昭和18年)1月23日に北海守備隊は崎戸丸と君川丸に分乗して幌筵島(ぱらむしるとう)へ向けて出港。1月31日にホルツ湾に入港します(兵員総計:26,114名)。5月6日、三田の最後の手紙が、岩手県花巻の両親の許に届きましたが、「元気」ただその二字だけだったそうです。
 5月12日、ついにアッツ島での戦闘が開始となり、5月29日の夜半、アッツ島の日本守備隊山崎部隊が全滅。三田は、26歳の若さで帰らぬ人となってしまいました。
 同年5月30日に、大本営からアッツ島部隊の玉砕が発表され(敵兵力:20,000名)、8月29日にアッツ将兵の氏名が発表されました。いずれも2階級特進で、三田は2階級特進兵長となりました。
 太宰が三田の死を知ったのは、8月29日付の新聞でした。この時の様子を、太宰の一番弟子である堤重久は、著書太宰治との七年間』で以下のように記しています。

 訪ねてゆくと、太宰さんが打沈んだ表情で、いきなりいった。
「三田君、知ってるだろ? あの三田君が、死んだんだよ。アッツ島で、玉砕したんだ」
 三田さんとは、お宅で二、三度顔を合わせたことがあった。その二、三度とも、友人の戸石君のかげに隠れるようにして、広い額をうつむきかげんにして坐っていた、眼鏡をかけた学生服姿の青年が思い出されて、私はショックを受けた。
「戸石が、ああいった性格だろう?」と太宰さんがいった。
「それで、戸石とばかり話し合っていてね、ついおとなしい三田君を、冷たくあしらったわけではないが、いささか軽ろんじていたような傾向があったんだね。それが、苦しくてね」
「つまり、玉砕で、復讐されたってわけですね」
「復讐? 復讐だなんてーー」
 太宰さんが、いかにも不快げにしかめた顔をそむけたので、私はしまったと思った。四カ月ほど経って、太宰さんの「散華」をよんで、三田さんへの太宰さんの惻隠(そくいん)の情の深さを知るに及んで、いよいよその節の失言を恥じたのだったが。

 太宰は、三田の死を受け、11月上旬頃に『散華』を脱稿。翌1944年(昭和19年)3月1日付の「新若人」に発表します。

 御元気ですか。
 遠い空から御伺いします。
 無事、任地に着きました。
 大いなる文学のために、
 死んで下さい。
 自分も死にます、
 この戦争のために。

 三田の親友・戸石は、『玉砕』(1952年)、『青い波がくずれる』(1972年)で三田について書いています。

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 太宰と山岸で三田の遺稿集刊行を企図していたが、実現はなりませんでした。

 また、今回の記事を執筆する上で、HP「石桜同窓会ー岩手中学高等学校同窓会」http://sekiou-ob.com/index.htm)に大変お世話になりました。同HP「温故知新」太宰治 生誕100周年 太宰治と親交のあった旧制岩手中学卒業三田循司 先輩を知っていますか」http://sekiou-ob.com/newmitajunji/top.html)の項に、三田について詳しく書かれています。太宰から三田へのハガキや、関連書籍の引用など、とても充実した内容となっています。

 【了】

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【参考文献】
・堤重久『太宰治との七年間』(筑摩書房、1969年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・公益財団法人三鷹市スポーツと文化財団 編集・発行『平成三十年度特別展 太宰治 三鷹とともに ー太宰治没後七十年ー』(2018年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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