9月14日の太宰治。
1932年(昭和7年)9月14日。
太宰治 23歳。
太宰の朗読会
1932年(昭和7年)9月、太宰は、第二章まで書き上げた『思い出』の原稿を、師匠・井伏鱒二に届けました。太宰は、9月15日付で、井伏から「『思い出』一篇は、甲上の出来であると信じます。」という賛辞をもらいました。この賛辞は、6月22日の記事で紹介した、処女短篇集『晩年』の帯に引用されました。
太宰はこの頃、『思い出』と並行して、月に2篇か3篇かの割合で、短篇の習作を書いていましたが、出来上がると友人を呼んで、批評を聞くための朗読会を開いていました。飛島定城、小舘保、平岡敏男、中村貞次郎、菊谷栄、白鳥貞次郎など、同郷の友人たちが集まっていた常連だったようですが、吉沢祐五郎(太宰の妻・小山初代の叔父)、小舘善四郎(小舘保の弟)、菅原敏夫、高谷達海などもよく来訪して、朗読を聞いたといいます。
太宰が白金三光町の家で作品を朗読した時の様子を、小舘善四郎は『片隅の追憶』の中で、次のように回想しています。
太宰は、「列車」以後の仕事が始まっていた。静かな夜、太宰は仕上った作品を朗読してくれた。「列車」はその年の春、柏木の家で朗読を聞いていたが、芝へ来てから手を入れたのか、あの家でも聞いた記憶がある。
「葉」の中の(ねこ)(花)だの「魚服記」。二、三人居合せたこともあり、私一人の時もあった。一人の場合は、太宰はしきりと感想を求めた。
■太宰と小舘善四郎
津軽地方の日常の話し方は、あまり口を開かずにわりと早口の故か、方言でなくても、とかく言葉がはっきりしないのだが、朗読の際の太宰は、大きな声量を圧しつめたような声音で、言葉のはしはしをはっきりさせながら、ゆっくりと読み進めた。
『列車』は、1932年(昭和7年)3月下旬頃に発表稿脱稿。発表稿が脱稿されたのは、翌1933年(昭和8年)1月下旬から2月上旬頃なので、その間、何度も手を加えられたものと思われます。ちなみに、この短篇は、処女短篇集『晩年』に収録された15篇のうちの1つであり、「太宰治」のペンネームで発表された最初の小説でもあります。
ちなみに、太宰がはじめて「太宰治」のペンネームを使用したのは、1933年(昭和8年)2月15日付で発表されたエッセイ『田舎者』でした。
作品を朗読をした太宰は、気に入らなかった作品を「倉庫」と呼んでいた柳行李に入れ、気に入った作品は、ハトロン紙の大袋に入れて、床の間に置いていたそうです。
【了】
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【参考文献】
・『太宰治研究 6』(審美社、1964年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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