記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】4月8日

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4月8日の太宰治

  1948年(昭和23年)4月8日。
 太宰治 38歳。

 あさ、聖子ちゃんみえる。新潮社退社について御相談にみえる。つづいて八木岡さんみえる。うるさいことがらばかり。
 おひる寝。大変御疲れの御様子。街で蟹を買う。修治さん大喜びで飛び起き、ベーゼ。
 午後、野平さんみえる。
 夕方御送りしつつ名もしらぬ花手折って胸に挿して下さる。どうも不安だと思っていたら、今朝、喀血なさったそうな。散髪なさる。聖子ちゃんのことについて三人で心配する。 ―山崎富栄の日記より

太宰と林聖子さん

 この日の富栄の日記に登場する「聖子ちゃん」とは、林聖子(はやしせいこ)さん(1928~)のこと。東京・笹塚の生まれで、太宰の小説メリイクリスマスに登場する「シヅエ子ちゃん」のモデルです。

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■林聖子さん 2018年6月18日、文壇バー「風紋」にて。著者撮影。

 1961年(昭和36年)、新宿五丁目に文壇バー「風紋」を開店。筑摩書房の社長・古田(あきら)や太宰の親友・檀一雄らが贔屓したのをきっかけに、作家や編集者、詩人、映画監督らで賑わいました。太宰の師・井伏鱒二も訪れましたが、2018年(平成30年)6月28日、惜しまれながらお店を閉めました。

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■文壇バー「風紋」 2018年6月18日、著者撮影。

 聖子さんが太宰とはじめて出会ったのは、1941年(昭和16年)の夏、高円寺にあった、母親・秋田富子のアパートだったそうです。
 聖子さんは、太宰との初対面のエピソードを、「東京人 12月増刊」(2008年)のインタビューで次のように語っています。

 昭和十六年の夏ごろ、高円寺の母のアパートに遊びに行った時です。母にお遣いに行かされて、踏み切りのところで、白いシャツに灰色のズボン、下駄履きでつんのめるように歩いて来る男の人がいました。すぐ、あっ、太宰さんだ、とわかりました。母がよくスケッチで、太宰さんってこういう顔なの、と描いていましたから。十三歳の時だと思います。

 私は浦和の父の家で暮らしていたのですが、よく高円寺を訪ねていました。お遣いから帰ったら、さっきの人がアパートの部屋の前でしゃがみ込んでいる。何をしているのかと思ったら、下駄の前歯がとれちゃったのを打っていたんです。背の高い方でした。

 また、「東京人 7月号」(2018年)のインタビューでは、

 煙草を持っている太宰さんの指、その関節が長くてすごくきれいでした。うちの父(洋画家の林倭衛)は反対にごつい手でしたが、男の人って、人によって指の形が違うんだなと思ってね。それが第一印象。顔よりも手でした。

と語っています。

 また、別の日に、太宰が富子を訪問した時のエピソードを、聖子さんは『風紋五十年』で次のように紹介しています。

 太宰さんと知り合った頃、母が住んでいたアパートに、よく亀井(勝一郎)さん(一九〇七~一九六六年。文芸評論家。太宰と親交が深かった)と見えたそうなの。母は二階に住んでいて、あるとき、部屋にいると、どうもドアから「ガリガリ」って、音がする。しばらくすると、またするんだって。母は気になって、ドアを開けると、太宰さんが階段の辺りから、物干し竿を伸ばして、ドアをノックしていたらしいの(笑)。亀井さんはちょうど逃げようとしたところだって。そんないたずらをしてたのね。

 太宰にとって、富子は、気の置けない存在だったのでしょう。物干し竿を使ってドアをノックするお茶目な太宰は、なかなか想像し難いのではないでしょうか。

 そんな聖子さんの母・秋田富子は、岡山県津山の旧家の出身で、絵を志して上京。画家の木下孝則に師事するも、フランスから帰国した林倭衛(はやししずえ)に託され、林と結婚。1928年(昭和3年)、10代で聖子さんを出産しました。
 しかし、肺湿潤に侵され、林と別居し、一人で高円寺の六畳一間のアパートに住むことになります。富子は、若い時から体を壊し、腎臓結核脊椎カリエスも患っており、耳が不自由だったといいます。

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■秋田富子 太宰が亡くなったちょうど半年後、1948年(昭和23年)12月23日、結核性腹膜炎で亡くなりました。今は、太宰と同じ三鷹禅林寺に眠っています。

  富子と太宰の出会いについて、

 母が体調がいい時は、新宿の、昔の武蔵野館の前にあった「タイガー」というカフェに勤めていて、そこにお客として太宰さんが見えたのだと思います。話がすごくおもしろい人なのって言っていました。
 それで、母が高円寺、太宰さんは三鷹に住んでいたので、たまに寄ってくださった。亀井勝一郎さんと連れ立っていらっしゃることもありましたが、太宰さんが「ねえ、亀井さんは着物を着せて、前かけ掛けて、そろばんを持たせても似合うと思わない」なんておっしゃったのを覚えています。

と聖子さんは語っています。

 太宰の小説水仙には、富子が太宰に出した手紙の一部が、そのまま使われました。「雨の音も、風の音も、私にはなんにも聞えませぬ。サイレントの映画のようで、おそろしいくらい、淋しい夕暮です」と手紙に書いた心の内を小説にされたこと、「静子夫人は、草田氏の手許に引きとられ、そのとしの暮に自殺した」という結末は、富子にとっては、残酷過ぎるもので、手紙を無断で使用されたことにも傷ついていたそうですが、口には出さなかったそうです。

 戦後、聖子さんは、太宰の世話で新潮社で働くことになります。

 戦後しばらくして、私は勤めていた会社を辞め、太宰さんのお世話で新潮社の出版部で働くことになりました。そのころ新潮社はまだ社員全部で四十何人かで、私のいた出版部は七人くらいの小さな所帯でした。それでも戦後の、みんな活字に飢えていた時期ですから、戦前の紙型がたまたま焼けずに無事だったので、表紙だけ替えて刷れば、飛ぶように売れたんです。私は本を読むのは好きでしたが、特に編集の技術もありませんから、雑用をしたり、三鷹の太宰さんのお宅に原稿を頂きにあがったりしていました。
 そのころ太宰さんはすごい人気で、各社がおいかけていましたが、新潮社では野原一夫さんが担当して、日参していました。あと、筑摩書房の石井立さんもよくいらしていました。

 聖子さんは、太宰の三鷹の自宅に、印税を届けに行ったこともあったそうです。
 しかし、聖子さんは「新潮社退社について御相談」するために、太宰のもとを訪れます。
 その日の午後、太宰のもとを訪れたという「野平さん」は、新潮社の担当者・野平健一のことです。

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■左から、新潮社の担当者・野原一夫と野平健一 1946年(昭和21年)8月26日、700名中2人の被採用者として新潮社に入社した2人でした。

 富栄の日記に、「聖子ちゃんのことについて三人で心配する」とありますが、野平は同じ新潮社の同僚として、聖子さんのことが心配だったのでしょう。

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■『メリイクリスマス』の直筆原稿

 【了】

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【参考文献】
・山崎富栄 著・長篠康一郎 編纂『愛は死と共に 太宰治との愛の遺稿集』(虎見書房、1968年)
・『太宰治研究3』(和泉書院、1996年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・「東京人 12月増刊 特集『三鷹に生きた太宰治』」(都市出版、2008年)
・林聖子『風紋五十年』(パブリック・ブレイン、2012年)
・「東京人 7月号 特集『今こそ読みたい太宰治』」(都市出版、2018年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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