昭和12年(1936年)6月1日。新潮社から「新選純文学叢書」の一冊として、太宰2冊目の作品集『虚構の彷徨 ダス・ゲマイネ』が刊行されました。 処女作品集『晩年』の刊行から約1年後。パビナール中毒による東京武蔵野病院への入院や最初の妻・初代さんとの心中未遂・離婚という、激動の1年を経ての刊行でした。
今回は、この作品集にまつわるエピソードや、収録作品の解説をしていきます。エピソードに触れながら、もう一度作品を読み返し、太宰作品を味わって頂ければ幸いです。
『虚構の彷徨』三部作について
作品集のタイトルになっている『虚構の彷徨』ですが、実は太宰作品の中に『虚構の彷徨』という作品は存在しません。『虚構の彷徨』は三部作で、『道化の華』、『狂言の神』、『虚構の春』の三作品で構成されています。
太宰は筆まめで、かなりの書簡が残っているのですが、当時の書簡の中に『虚構の彷徨』について書かれた部分があるので、筑摩書房『太宰治全集〈12〉書簡』から引用して紹介していきます。引用の際には、全て新字新仮名づかいに改めてあります。
昭和11年5月18日、佐藤春夫宛
まずは、太宰が師である佐藤春夫に宛てて書いた手紙を見ていきます。
道化の華。狂言の神。虚構の塔。それぞれ、真、善、美のサンボルにて、三部曲のつもりでございます。三部ひとまとめにして、之に大きな題を附して、日本文学にはじめてのキャラクタアを編み出すつもりでございます。
この時点で、既に三部作の構想が太宰の中にありました。『道化の華』は「真」、『狂言の神』は「善」、『虚構の春』は「美」のシンボルとして書かれており、『虚構の春』がこの時点では『虚構の塔』というタイトルになっている点も面白いです。
「日本文学にはじめてのキャラクタアを編み出すつもり」という言葉に、太宰の強い自信が見て取れます。
昭和11年6月24日、山岸外史宛(はがき)
続いては、檀一夫と三人で「三馬鹿」と言われた、親友・山岸外史に宛てて書かれたはがきです。
三部曲「道化の華 狂言の神 架空の春(虚構の春、改題)」 『虚構の彷徨』
四百枚。どうやら百点もらえそうだ。
このはがきの日付の翌日、処女作品集『晩年』が刊行されています。先ほどの手紙には「三部ひとまとめにして、之に大きな題を附して」と、まだタイトルが決まっていませんでしたが、この時点では『虚構の彷徨』とタイトルも決まっています。命名したのは、佐藤春夫です。
しかし、面白いことに、先ほどの手紙で『虚構の塔』とされていた『虚構の春』ですが、雑誌掲載時のタイトル『虚構の春』から改題され、『架空の春』となっています。「虚構の塔→虚構の春→架空の春→虚構の春」と紆余曲折を経て、このタイトルに落ちついたようです。それぞれのタイトルだったら…と、思いを巡らせながら読んでみるのも面白いかもしれません。
また、「どうやら百点もらえそうだ。」という言葉に、太宰の『虚構の彷徨』に対する自信のほどが伺えます。
美知子さんのエピソード
続いては、太宰の奥様・津島美知子さんと『虚構の彷徨 ダス・ゲマイネ』に関わるエピソードを紹介します。
美知子さんが書いた『回想の太宰治』(講談社学芸文庫)にそのエピソードが記されているので、少し引用します。
八月はじめ、私は東北から北海道への旅行に出て、十和田湖からバスで青森市に出て、連絡船の出航を待つ間、駅前通りの成田書店に入って、棚に、母から聞いた人の著書「虚構の彷徨」が三冊ほど並んでいるのを発見し、連絡船の中で読んだ。「一九三八・八・七 青森にて」と書き入れたこの本が今も残っている。
「晩年」は秋になって太宰が砂子屋書房に頼んで送ってくれた。「満願」の載った「文筆」が同封されていた。このころ「新潮」で「姥捨」を読んだ。こんなに自分のことばかり書いて――この人は自分で自分を啄んでいるようだ――そんなことを感じた。
これは1938年(昭和13年)の8月の出来事です。
同年の7月上旬頃、太宰治の身辺の世話をしていた中畑慶吉と北芳四郎が、井伏鱒二に太宰の結婚相手の世話を依頼しました。井伏鱒二の仲介で縁談相手に選ばれたのが、山梨県立都留高等女学校(現・山梨県立都留高等学校の前進のひとつ)で地理と歴史を教えていた石原美知子さんでした。
美知子さんは石原家の四女で、父の石原初太郎は地質学者で、島根県の中学校で校長を務めていたこともあり、学問に深い理解を持つ知識人のご家族でした。
美知子さんが太宰の著書「虚構の彷徨 ダス・ゲマイネ」を手に取ったのは、まだ太宰とお見合いをする前。翌月の9月18日に、井伏鱒二に付き添われて美知子さんの自宅を訪れた太宰と対面します。この時の様子を美知子さんは、
甲府盆地の残暑は大変きびしかった。井伏先生は登山服姿で、和服の太宰はハンカチで顔を拭いてばかりいた。黒っぽいひとえに夏羽織をはおり、白メリンスの長襦袢の袖が見えた。私はデシンのワンピースで、服装の点でまことにちぐはぐな会合であった。
と記しています。
太宰はこのお見合いの日の翌日、北芳四郎と井伏鱒二宛てに「私としては、異存ございませぬ。」と、ただちに結婚を決意した旨の封書を送っています。
縁談はとんとん拍子に進み、同年11月6日に婚約。翌年1939年(昭和14年)1月8日に東京杉並区の井伏鱒二宅で結婚式を挙げました。
中期~後期の太宰作品の多くが執筆された三鷹下連雀には、1939年(昭和14年)9月1日に引っ越しています。
それでは、美知子さんがはじめて手に取った太宰の創作集である『虚構の彷徨 ダス・ゲマイネ』には、どんな作品が収録されているのか紹介していきたいと思います。
『道化の華』
「虚構の彷徨 三部作」の中では「真」のシンボル、『道化の華』です。
処女作品集の『晩年』にも収録、神奈川県鎌倉腰越町小動崎での心中未遂事件をモチーフにした、前衛的手法を用いて書かれた作品です。実際の事件の概要については、長篠康一郎『太宰治七里ヶ浜心中』(広論社)に詳しく書かれています。
『狂言の神』
「虚構の彷徨 三部作」の中では「善」のシンボル、『狂言の神』です。
太宰が1935年(昭和10年)3月16日に起こした鎌倉での縊死未遂事件がモチーフになっています。ほとんど通っていなかった東京帝国大学を落第し、卒業できなければ実家からの高額な仕送りが止められるという約束だったため、実家への顔向けのために受けた都新聞社の入社試験に失敗した後のことでした。
失踪した3月16日に井伏鱒二により捜索願が出されましたが、翌々日の18日に太宰はふらりと家に帰ってきました。太宰の首筋には、熊の月の輪のように、縄目の跡がついていたそうです。首を吊ろうとしたものの、途中で紐が切れ、未遂に終わりました。
主人公である笠井一の死から小説ははじまりますが、途中でその全てが「私、太宰治ひとりの身のうえ」であることが明かされます。その後、縊死未遂までが記されますが、死の間際に煙草への未練によって一命をとりとめ、「お仕合せの結末」で幕を閉じます。
『虚構の春』
「虚構の彷徨 三部作」の中では「美」のシンボル、『虚構の春』です。
「師走上旬」「中旬」「下旬」「元日」の4つの時期に分け、「太宰治」に宛てられた書簡を配列した書簡体小説です。書簡は、井伏鱒二、山岸外史、檀一雄、伊馬春部、保田與重郎、田中英光からの実際の書簡(手を加えているかどうかは不明)と創作した架空の書簡とで構成されています。
作中人物「太宰治」を語る書簡をドーナツ状に配列し、空虚な中心を浮上させる実験的な構成ですが、逆説的に私小説に近づいていきます。
『ダス・ゲマイネ』
第一回芥川賞の次席になった高見順、外村繁、衣巻省三、太宰治の4人の新進作家が、文藝春秋からの依頼で、競作のかたちで発表されました。
タイトルの「ダス・ゲマイネ(Das Gemeine)」はドイツ語で「通俗性、卑俗性」を意味し、「「人の性よりしてダス・ゲマイネを駆逐し、ウール・シュタンド(本然の状態)に帰らせた」というケエベルの『シルレル論』を読み、この想念のかなしさが私の頭の一隅にこびりついて離れなかった」と『もの思う葦』に記しています。
また、太宰の故郷である津軽の方言である「ん、だすけまいね(だから、だめなんだ)」とのダブルミーニングであるとも言われています。
個性的でありたいと願いながらも、通俗的なものに寄ってしまう佐野次郎、馬場、佐竹、太宰治という4人の芸術青年による、同人雑誌の計画・頓挫をめぐる青春群像劇になっています。
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