記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】5月22日

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5月22日の太宰治

  1948年(昭和23年)5月22日。
 太宰治 38歳。

 山崎富栄、五月二十二日の日記。

「恋している女があるんだ」

 まずは、1948年(昭和23年)5月22日付の山崎富栄の日記を引用してみます。

五月二十二日

「僕ね、こないだ千草で酔って、女将にそう言っちゃったんだよ、ごめんね」
「なにを?」
「ごめんね、あのね、苦しいんだよ……。恋している女があるんだ」
「……」
 三年位前からのおつきあいで、ファン・レターから、お見合いが始まり、この間手紙がきて、結婚を強いられている由。それで、この三十日にお逢いしたいとのこと。(この日は太宰さんがお決めになった日)……そしたら女将が「山崎さんが直ぐ前にいるから具合いが悪いけれど、裏からでも、一度位なら大丈夫でしょう」といった。「もしかしたら泊るかも知れないぜ」とそう言って約束したとのこと。
「お前のところで二日泊って、いろいろ考えたけれど、やっぱりお前と一緒の方が、僕はいいんだ。――そう思ったよ。お前に悪いよ。ねえ。何でも言えって約束してたから言うんだよ、ごめんね」
 前に一度きいたことのある事件(女のひと)井原さん(伊原さん?)とかいって、二十六才。女子大卒で、美人。スラリとしていて、温和しく、申し分のないようなひとらしい。
 阿佐ヶ谷に住んでいて、御嬢様の由。
 ちょっとした、ドン・ファン。可哀想な日本のロマンサー。
「僕には女がある。僕と一緒に死にたいというんだといったんだが、問題にしねえんだ。美容師ですって? と、よく知ってるんだ、おまえのことを」
「……」
「その女、僕に逢うと、すぐ泣くんだ」
「……」
「だから言ったじゃないか、お前がいつも、そばから離れずに、付いていてくれなきゃ駄目だって……。僕はどうしてこう女に好かれるのかなあ! 丁度いいらしいんだね、僕は。余り固くもないし、場もちは上手だし――。貴男は、小説にいつも御自分のことをまずい顔の男だとお書きになるけど、ずるいって――とも言うんだよ」
――随分な人です……。
”死ぬ気で僕と恋愛してみないか。責任をもつから”と言われて、親も兄弟も棄てて、世間も狭く歩いている私。それでも、恋とか、愛とかいうことより以上に、兄妹と言いたいような血のつながりを感じ合っている私達だからこそ、こうしたことも話し合い、修治さんも本性をむき出しにして下さるのだ、とも思う。
「自惚れじゃないけれども、お前もあるだろう、私じゃなければ駄目だ、というようなこと」
「ええ、自分の口から言うのは変ですけど――」
「そうなんだ。さっきお前が言ったけど、赤い糸で結ばれているような二人なんだ、お前でおしまいにするよ。信じてね、死ぬ時は一緒だよ」
 と仰言(おっしゃ)る。
 昨夜、自殺しようと書き置いた。泣きながら、これでもう最後ね、と心に言いながら、新しいおねまきをと更えて差し上げる。
 修治さんは、ものすごい寝汗をかいて、
「すごい美人なんだ……女房より……腕力が強くてね。……大隅さん、あなたは進行性ですか? ええ? 二ヵ月でしょうね……夜遅い電報は困りますねえ……」
 と、ねごと。でも、私にはうわごとのようにきこえたのです。すごい美人だ、なんて。私は泣きました。グッド・バイのこと、病気のこと、身にまつわる女性のことども、私は生きていなければならない。可哀想なこの子を守るために、と思わずにはいられない。
――女子大の御嬢様で(父君は医者)あるあの女のひとと、万一ご一緒になって――もちろん何から何まで、つまりブルジョアであり、美貌であり(修治さんのいう手足小さく背すらりとして、道ゆく人がみな振りかえる)、学あり、フランス語も話し、衣装も常にパリッとしていて――。
「そういう女のひとと生活して、それで最後になれば、あなたも一番幸せのことなのでしょう……」
「いや、最後になるかどうか、そこは分からないんだ」
「それじゃいけませんわ。私から離れて、次々にまた女のひとを変えるなんて、お子様方が大きくなって、結婚をなさるときなど、一体、どういうことになるとお思いなのですか。あなたのお友達の方達だって、もう信用しなくなるでしょう」
「だから、何にもならない前に皆お前に言ってるんじゃないか。離れないで守ってね。僕は、本当に駄目なときがあるんだ。一生僕のそばにいるって言ってね。サッちゃんでおしまいにする方が、僕自身のためなんだから――」
 ……書きたくても、書けないことばが、次々に生まれてきます。
 私より前からおつきあいしていた女子大生。それから伊豆。
 それから私。それからまた女子大生の手紙に戻る。
 いろいろ考えてみても、修治さんの仰言る通り、たとえ、私を方便的に一時は利用していたとしても、胸を開いて、いま、心を読まして下さるのは、私一人きり。伊豆の人は、「据膳」で愛情は全くないとのこと、女子大生のひとには、伊豆に子供のあることも言っていない。私ひとりきりなのだ。修治さん、結局は、女は自分が最後の女であれば……と願っているのですね。頬を打ち合い、唇をかみ合い――
 和解も喧嘩も最初から私達二人の間にはなかったのね。私はあなたの”乳母の竹”やであり、とみえであり、そして姉にもなり、”サッちゃん”ともなる。離れますものか、私にもプライドがあります。
 五月雨が、今日もかなしく、寂しく降っています。
「死のうと思っていた」とお話ししたら、ひどく叱られた。「ひとりで死ぬなんて! 一緒に行くよ」

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■山崎富栄 太宰と出逢った頃。

 太宰が富栄に告げた、衝撃の言葉「ごめんね、あのね、苦しいんだよ……。恋している女があるんだ」
 富栄の日記に書かれた、太宰のこの発言については、富栄の存在が鬱陶(うっとう)しくなってしまった太宰が、執筆中の小説グッド・バイを地でいく形で、富栄に別れを告げるために嘘をついた、という解釈もありますが、ここで1つ、太宰の弟子たちの発言を紹介したいと思います。

 太宰の没後25年、1973年(昭和48年)に太宰の3人の弟子・池田正憲(いけだまさのり)石沢深美(いしざわふかみ)桂英澄(かつらひでずみ)が太宰について回想した座談会です。3人は、太宰の様々な面について語り合っていますが、次に引用するのは、「太宰の理想の女性」について語っている際の、桂と池田の発言です。

 だから()かれていったんだよ。ぼくはね、いつか太宰さんにどんな女性がいいかと()いたことがあるんです。そしたら、おそらく冗談半分でしょうが、「本所深川の車屋の娘」(笑い)。それから「オッパイの小さい女は気をつけろ」って(笑い)。
池田 知ってるな。ほんとですよ。

 この頃の太宰のプライベートを語る時、津島美知子太田静子山崎富栄の3人の女性の名前が登場しますが、もし、太宰が「恋している女があるんだ」と発言した「阿佐ヶ谷の御嬢様」が冗談ではなく、「本所深川の車屋の娘」が本当にいたとしたら(太宰は、以前にも富栄にこの女性の話をしていたよう)、第4や第5の女性の存在があった可能性もあります。
 真実を知る術は、もはやありませんが、果たして…。


●「太宰の理想の女性」について、3人の弟子たちが語った座談会については、noteの記事で全文を紹介しています。ぜひ、併せてご覧下さい!

 【了】

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【参考文献】
・『月刊 噂 二月号 新春号』(噂発行所、1973年)
・山崎富栄 著・長篠康一郎 編纂『愛は死と共に 太宰治との愛の遺稿集』(虎見書房、1968年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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