3月18日の太宰治。
1935年(昭和10年)3月18日。
太宰治 25歳。
夜、井伏鱒二、伊馬鵜平、中村地平、檀一雄、
縊死未遂からの帰還
3月16日の記事で紹介した、太宰の鎌倉八幡宮の裏山での
今日は、この事件の
太宰は、この
今は亡き、
畏友 、笠井一 について書きしるす。笠井一。戸籍名、手沼謙蔵。明治四十二年六月十九日、青森県北津軽郡金木町に生まれた。亡父は貴族院議員手沼源右衛門。母は高。謙蔵はその六男たり。
同町小学校を経て大正二年青森中学校に入学。昭和五年弘前高等学校卒業。同年、東京帝大仏文科入学。若き兵士たり。恥かしくて死にそうだ。眼を閉じると毛の生えた怪獣が見える。なあんてね。笑いながら厳粛のことを語る、と。
風がわりの作家笠井一の縊死は、三面記事の片隅に咲いていた。さまざまな推察が捲き起ったが、そのどれもがはずれていた。誰も知らない。新聞社の就職試験に落第したから死んだのである。
落第ときまってから、かれら夫婦のひと月分の生活費、その前夜に田舎の長兄が送ってよこした九十円の小切手を持ち出し、ほろ酔い機嫌で銀座へ出た。
歌舞伎座の一幕見席にはいる。舞台では菊五郎の権八が、みどり色の紋付を着て、赤い脚絆 、はたはたと手を打ち鳴らし、「雉も泣かずば撃たれまいに」と呟いた。嗚咽 が出てつづけて見ている勇気がなかった。
浅草のひさごやという安食堂に行く。四年まえ、出世したらお嫁にしてあげると、その店の一ばん若い女中にそう言って、元気をつけてやったことがあったのだ。その夜は、ひとりで横浜に行き、本牧 のホテルに泊った。女のいる部屋に泊ったのである。
あくる朝は、雨であった。駅の案内所で、江の島へ行くには? と聞いたのだが、聞いてから、ああ、やっぱり死ぬるところは江の島ときめていたのだな、と思った。
ながれ去る山々。街道。木橋。いちいち見おぼえがあった。それでは七年まえのあのときにも、やはりこの汽車に乗ったのだな、七年まえには、若き兵士であったそうな。
ああ、恥かしくて死にそうだ。ある月のない夜に、私ひとりで逃げたのである。とり残された五人の仲間は、すべて命を失った。
それから有夫の夫人と情死を図った。師走、酷寒の夜半、女はコオトを着たまま、私もマントを脱がずに入水した。女は死んだ。私は、煮えくりかえる追憶からさめて、江の島へ下車した。
片瀬東浜から腰越海岸までの砂浜を歩き、電車で長谷へ。途中で青松園という病院のまえをとおった。七年まえ、女は死に、私は、病院に収容された。おや? 不思議なことがあるものだ。あの岩が無くなっている。
ねえ、この岩が、お母さんのような気がしない? あたたかくて、やわらかくて、この岩、好きだな、女のひとがそう言って撫でまわして、私も同感であったあのひらたい岩がなくなった。こんな筈はない。どちらかが夢だ。
長谷で電車を降り、それから鎌倉二階堂へ出て、深田久弥氏を訪問する。帰途、黄昏 の巷、風を切って歩いた。路傍のほの白き日蓮上人、辻説法の塚がひゅっと私の視野に飛び込み、時われに利あらずという思いもつかぬ言葉が口をついて出た。
鎌倉駅前の街道入口まで来て、くるりと廻れ右して、たったいま通ってきた道を逆戻り、そのあたりの雑木林の中へはいった。鼻の先に赤土の崖がのっそり立っていた。崖を這い登り、私は一糸みだれぬ整うた意志で死ぬるのだ。私の腕くらいの枝にゆらり。一瞬、藤の花。
あまりの痛苦に、思わず、ああっと叫んだ。楽じゃないなあ、その己れの声が好きで好きで、たまらなくなって涙を流した。虫の息。三〇分ごとに有るか無しかの一呼吸しているように思われた。
やめ! 私は、自分のぶざまな姿がいやになってしまった。腕をのばして枝につかまった。縄を取り去ってから、煙草をふかした。どうやら死神が逃げ去ったものらしい。ああ、思いもかけずこのお仕合せな結末。なあんだ。
と書いています。
■鎌倉駅
「ああ、やっぱり死ぬるところは江の島ときめていたのだな」「七年まえのあのとき」と出て来るのは、1930年(昭和5年)11月の田辺あつみとの心中未遂事件のことを指しています。
誇張して書かれたり、事実と相違する部分も多くありますが、3月16日に紹介したエピソードをなぞるように小説は進んでいきます。
3月18日夜中。太宰の突然の失踪を心配した井伏鱒二、伊馬鵜平、中村地平、檀一雄、
飛島は、「丁度雨の降る晩だった。
飛島は「彼の興奮を恐れて二人だけで彼と話した」そうで、太宰は、「八幡宮の裏山の杉の木の枝か何かでくつひもをほどいて首をくくったのだ」「一時気絶し眼がさめて見たらひもがきれて夜露に打たれていた。」と話したそうです。飛島は、太宰の話を受けて、「帰って来た彼の首筋にはみみずばれが出来ていたので私はこれは狂言じゃないなと思った、けれども彼が一体何で自殺をはかったのか自殺未遂に終ってどんな気持でいるか、いくら
檀一雄は、太宰帰宅時の様子を『小説 太宰治』で、「太宰が、フラリと帰って来た。何も語らない。首筋に熊の月の輪のように、縄目の跡が見えていた。」と書いています。
また、太宰の首の跡については、太田静子の娘・太田治子の『明るい方へ』にも、太宰と静子が「昭和十九年の一月下曽我の庭の池の前に二人して腰かけている時、「その首の跡は、どうしたの?」彼女は静かな声で聞いてきた。鎌倉の山の中で首を吊ろうとして失敗してできた赤いアザだった。太宰は、うつむいていた。むしろ嬉しかったのだと思う。人はそのアザに気付きながら、わざと何もいわなかった。」と書かれています。縊死未遂で太宰の首に残った跡は、ずっと残り続けていたようです。
太宰の帰宅後、太宰の妻・初代と吉沢祐五郎の妻・つやとが新宿へ買い出しに行き、賑やかな酒宴になって、太宰失踪の騒ぎも一段落したそうです。
【了】
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【参考文献】
・長篠康一郎『太宰治文学アルバム』(広論社、1981年)
・檀一雄『小説 太宰治』(岩波現代文庫、2000年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・太田治子『明るい方へ』(朝日文庫、2012年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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