2月13日の太宰治。
1945年(昭和20年)2月13日。
太宰治 35歳。
東京都下三鷹町下連雀一一三より
東京都下吉祥寺二五〇七
野田宇太郎宛
拝復貴翰 拝誦仕りました。ただいま書下し長編に追われていますが、二十日頃までに完成の予定ですから、それから三月五日までに何か書けそうな気もします。おついでの折にはお立寄り下さいまし。 不乙。
太宰と野田宇太郎
野田は、1933年(昭和8年)2月に、第一詩集『北の部屋』を刊行。1936年(昭和11年)には、詩誌「糧」(後に「抒情詩」と改題)を創刊し、盛んな詩作活動を展開しました。
1940年(昭和15年)夏に上京して出版社に入社した野田は、雑誌『新風土』を刊行。下村湖人の埋もれた原稿「二郎物語」を出版してベストセラーにするなど、優れた出版編集者としても活躍します。
1944年(昭和19年)には、戦争末期で唯一の文芸誌となった「文藝」の責任編集者として、あらゆる困難に立ち向かい、文芸の灯を守りました。野田の編集者としての鋭い批評眼と人物発掘には定評があり、当時無名だった三島由紀夫や幸田文らを発掘、世に送り出しています。
野田は、「文学散歩」の創始者としても有名です。
1951年(昭和26年)6月、「日本読書新聞」に『新東京文学散歩』を連載したことがはじまりで、これ以来30余年にわたる「文学散歩」は、野田のライフワークとなり、シリーズ全26巻が刊行されました。「文学散歩」は、実地踏査による文学の実証的研究書の先駆けであり、独自の優れた紀行文学でもありました。
今日付で書かれたハガキは、冒頭に「
この5日後の2月18日、野田は太宰宅を訪問し、「文藝」四月号の特集に掲載される短篇の執筆を依頼します。締切は翌月の10日と約束。この短篇は、『竹青ー新曲聊斎志異ー』(のちに副題を削除)として、「文藝」四月号に発表されます。
野田は、そのまま文壇の話や世間話をして、昼過ぎに辞去したそうです。
『竹青』発表後も、太宰と野田の交流は続き、空襲下の東京でも一緒に頑張って仕事をしようと話し合い、太宰も一度、野田宅を訪れています。そのため、野田は、太宰が甲府へ疎開した際、周辺から親しい人間が去っていく無念と「一抹のさみしさ」を語っていたそうです。
故郷の青森県金木に帰った太宰から、一度手紙を受け取り、戦後に三鷹へ戻った際に再会したのが、太宰との最後でした。太宰の死について、著書『混沌の季節』で、同年齢・同世代というだけではない親近感を語り、「数日間かなり激しくわたくしの心を揺りつづけた」と書いています。
【了】
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【参考文献】
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「野田宇太郎文学資料館」(http://www.library-ogori.jp/noda/)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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