記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】6月23日

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6月23日の太宰治

  1937年(昭和12年)6月23日。
 太宰治 28歳。

 六月二十三日付で、中畑慶吉(なかはたけいきち)宛に葉書を送る。

太宰、鎌滝富方に引越す

 1937年(昭和12年)6月21日。太宰は、前年1936年(昭和11年)11月15日から住んだ、杉並区天沼1丁目238番地の碧雲荘(へきうんそう)から、杉並区天沼1丁目213番地の鎌滝富方に、布団と、机と、電気スタンドと、行李1つで単身引越しします。通りを入ったところにある、閑静な家だったそうです。

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■天沼一丁目の鎌滝方

 鎌滝富方は、7、8部屋を貸部屋にしており、太宰はニ階の西陽が射し込む4畳半1室を借りました。下宿代は、1ヶ月18円(現在の貨幣価値で、3万~3万5,000円程度)でした。
 引越しを終えた2日後の6月23日、太宰はお目付け役の中畑慶吉(なかはたけいきち)に宛ててハガキを書いています。

  東京市杉並区天沼一ノ二一三
  青森県五所川原町旭町
   中畑慶吉宛

 拝啓
 このたびは 色々とごめんどうを おかけいたし、しんから 有難く存じて居ります、先日、初代の叔父さんと逢い万事円滑に話がついて、初代は碧雲荘(へきうんそう)の諸道具整理にかかっています 私は一昨日、表記の下宿に引越し 仕事にかかっています 机とふとん一組の至極さっぱりした世帯になりました、御好志に甘えることおゆるし下されば、夏ものと 兵古帯 井伏様まで 御密送、如何?

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■太宰と中畑

  ハガキに書かれている「このたびは 色々とごめんどうを おかけいたし」とは、太宰と最初の妻・小山初代(おやまはつよ)とのこと。
 1937年(昭和12年)3月20日前後、太宰は妻・初代と共に群馬県水上村谷川温泉に行き、心中自殺を図りましたが、未遂に終わりました。

 心中未遂事件の後、太宰と初代は別々に東京へ戻り、顔を合わせることはありませんでした。この後の出来事については、3月23日の記事で詳しく紹介しましたが、初代の叔父・吉沢祐五郎を仲介人に、数度の面談を経て、初代との離別が決定しました。

 初代との離別が決定した後、6月20日に太宰は師匠・井伏鱒二宅を訪問。井伏と、同席した太宰の世話人北芳四郎(きたよししろう)との話し合いの結果、碧雲荘で使っていた家財道具は、「初代の不快な記憶のつきまとうがらくたは見るのもいやだから」という理由から、布団と机、電気道具と洗面道具を除いて、全て初代に譲ることに決定しました。

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■井伏と北

 一方、初代は青森に帰郷することになりました。太宰は、金を工面するため、自身の着物や初代の衣装を、ほとんど質に入れていました。初代は太宰に離別された後、自分の着物が流れないようにするため、太宰から受け取った家財道具を古物屋で売り払い、質屋の利息を工面したり、帰郷のための旅費に充当したそうです。帰郷の準備を整え、初代が青森に戻ったのは、翌月7月中旬のことでした。

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■太宰と初代 1931年(昭和10年)、船橋にて。

 鎌滝富方に居を移した太宰に話を戻します。
 一人暮らしに戻った太宰のもとに、塩月(たけし)緑川貢長尾(はじめ)などが入り浸るようになり、独り身の気安さから、再び、不規則で退廃的な生活へと傾斜していきました。故郷からの仕送りは、ほとんど訪問客たちの飲食代に回されるようになりました。
 津島家からの依頼で、太宰の実生活上の監督の任に当たっていた北と中畑は、月に1、2度太宰のもとを訪れては、居候たちを追い払い、その生活状況を長兄・津島文治に報告していたそうです。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
井伏鱒二太宰治』(中公文庫、2000年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「日本円貨幣価値計算機
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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