記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】3月15日

f:id:shige97:20191205224501j:image

3月15日の太宰治

  1941年(昭和16年)3月15日。
 太宰治 31歳。

 「ピノチオ」での阿佐ヶ谷将棋会に出席した。出席者十二名、会後「ピノチオ」で酒宴。

太宰と将棋

 阿佐ヶ谷会は、2月5日の「御嶽ハイキング」の記事でも紹介しました。

 阿佐ヶ谷会には、将棋会古美術を鑑賞する会との2つがあったそうですが、太宰はどちらの会にも顔を出していたそうです。今日は、そのうち、将棋会に太宰が出席した日。今回は、「阿佐ヶ谷会」に関する初めての資料集「阿佐ヶ谷会」文学アルバムから、阿佐ヶ谷会のメンバーのエッセイを引用しながら、「太宰と将棋」というテーマで紹介します。
f:id:shige97:20200308215537j:image
■1940年(昭和15年)、井伏家で将棋を指す太宰。

 この日、集まったメンバーについては、井伏鱒二『阿佐ヶ谷将棋会』(『荻窪風土記』より)に記しています。

 阿佐ヶ谷将棋会が復活したのは、この年の三月であった。この日の小山君の日記が、「小山捷平全集」の第二巻に入っている。会場はピノチオだが、無論このときはシゲルさんの代になっていた。

   三月十五日、土、晴。
   阿佐ヶ谷将棋会。「ピノチオ」にて。会する者十二人。井伏(鱒二)、秋沢(三郎)、亀井(勝一郎)、太宰(治)、浅見(淵)、安成(二郎)、外村(繁)、青柳(瑞穂)、古谷(綱武)、浜野(修)、木山(捷平)。一等井伏、二等秋沢。会後「ピノチオ」で酒宴。将棋会費五十銭、酒宴一円であった。阿佐ヶ谷北口より一人で帰った。
   神兵隊事件判決。(朝日新聞)四十四名悉く刑免除、内乱罪構成せず、殺人予備適用。九年ぶりの判決であった。

 会場となったピノチオ」は、中華料理店。将棋会の開催当初は、阿佐ヶ谷駅の北口の側にあった碁会所を貸切りにして13時頃から18、19時頃まで将棋を指し、そのあとから「飲み会」という流れだったそうです。しかし、「将棋会」というのは「表看板」で、「飲み会」の方に皆の気持ちの中心があったため、いつの間にか会場が、碁会所から「ピノチオ」の離れの日本間に移って行ったそうです。

f:id:shige97:20200310204400j:image
小田嶽夫日本における魯迅の紹介者で、『魯迅伝』を記している。小田の助力により、太宰は『魯迅伝』『大魯迅全集』『東亜文化圏』などを入手し、『惜別』執筆の材料とした。

 小田嶽夫(おだたけお)は、『阿佐ヶ谷あたりで大酒飲んだ――中央沿線文壇地図』の中で、1941年(昭和16年)3月8日付で井伏鱒二から届いた、巻紙に筆で書かれた手紙を紹介しています。

 前略過日は失礼いたしました。将棋の会は今月十五日午後一時ピノチオに於てということに亀井君と話をきめました。この旨木山君へ御様子願います。欠席ならば御返事を頂きたいのです。会費は五十銭内外(下略)」とある。むろん此の会費は将棋会だけのものであり、飲み会のほうは、又別途に属するのであった。それにしても五十銭という金額は、何だかゆめのようである。

 この日の参加者名簿を見ると、この日、小田の参加はなかったようですが、手紙の中に「木山君」として名前が出ている木山捷平(きやましょうへい)は、参加していたようです。 
 ちなみに、会費「五十銭」というと、現在の貨幣価値に換算すると、10円あるかないか、というところです。
f:id:shige97:20200310205647j:image
木山捷平1933年(昭和8年)に太宰たちと同人誌『海豹』を創刊した、同人仲間でもありました。

 木山は、『阿佐ヶ谷会雑記』で、

 私は度々折畳み式の将棋盤を風呂敷に包んで、ピノチオに行った記憶があざやかに残っている。こんどは、ことによったら優勝してやろうと思って意気込んで行ったからであるが、しかし、私はただの一度も、優勝したことはなかった。
 尤もこの将棋会はたいてい、午後一時の開会で、晩になると、酒になるのが例であった。有志のものが一杯やるのではなく、酒を飲むのも、はじめから「会」の中にはいっているのであった。

 と書いています。「将棋会」は、場所をピノチオに移しながら、次第に「飲み会」となっていったようです。折畳み式の将棋盤を持ち寄って「将棋会」をしていたなんて、なんだか微笑ましいです。

f:id:shige97:20200310212049j:image
■安成二郎。

 安成二郎(やすなりじろう)は、太宰治君の写真』の中で、

 酒も将棋も好きで、人柄も人望もある井伏君中心の会といっていい。だから皆個人的に井伏君と親しい人の集りで、従って酒を飲むか将棋をやるか、どっちかで井伏君とウマの合う人々で、大概どっちも一と通りいけるのであるが、太宰君と外村君は将棋はささず、その代り酒はいくらでもいける方であった。

 「あれ?」、太宰って「将棋はささ」なかったの?という疑問。
 阿佐ヶ谷将棋会では、会員の技量毎に等級(クラス)を決めていたようです。
f:id:shige97:20200310213520j:image
■中村地平。太宰が東京帝大落第と決まった際、就職活動しようとし、当時、中村が就職していた都新聞の入社試験を受ける。

 中村は、阿佐ヶ谷会について、『将棋随筆』で、

 阿佐ヶ谷会というのは、阿佐ヶ谷を中心とする中央沿線に住まうわかい文学者が、不定期に集まって酒をのんだり、無駄話をする会合である。幹事は小田嶽夫に外村繁の両君であるが、この会でときおりヘボ将棋の会を催して、会員の技量に等級をきめるのである。常連の顔ぶれを挙げてみると、
 井伏鱒二、古谷綱武、浅見淵尾崎一雄、緑川貢、木山捷平小田嶽夫太宰治田畑修一郎亀井勝一郎、塩月赳
などの諸君である。そして、技量もだいたいここに並べた名前の順序のとおりである。

 と書いています。
 太宰、全体の2/3に入るくらいの技量は持っていたようなのですが…。
 太宰の指し方について、小田嶽夫『阿佐ヶ谷将棋会』から引用すると、

 太宰は形勢がわるくなると、もう投げ出したような格好でいやいやそうにさす、それでこちらも油断して思わず緩手をさすと、猛然と逆襲して来る――そんな巧妙な、というよりは可憐なと言いたい心理作戦である。

 どうやら、太宰の将棋のポイントは、「可憐なと言いたい心理作戦」だったようです。

  【了】

********************
【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
青柳いづみこ川本三郎 監修『「阿佐ヶ谷会」文学アルバム』(幻戯書房、2007年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

【今日は何の日?
 "太宰カレンダー"はこちら!】

太宰治、全155作品はこちら!】