記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】11月28日

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11月28日の太宰治

  1930年(昭和5年)11月28日。
 太宰治 21歳。

 銀座裏のカフェー「ホリウッド」の女給通称田部(たなべ)あつみ(戸籍名田部シメ子、大正元年十二月二日生、十九歳)と識った。

太宰、田部(たなべ)あつみと小動崎(こゆるぎがさき)

 1930年(昭和5年)11月下旬、太宰は、「ホリウッド」の女給・田部(たなべ)あつみと出逢います。「ホリウッド」は、銀座の十字屋の裏手の向かい側にあったカフェーでした。
 カフェーとは、特殊喫茶や社交喫茶とも呼ばれ、女給は単なるウェイトレスというより、現在のバーやクラブのホステスのような存在でした。当時の女給は、客が支払うチップが収入源だったといいます。1933年(昭和8年)には、特殊飲食店営業取締規則により、カフェーは風俗営業として、警察の管轄下に置かれることになりました。

 田部(たなべ)あつみ(戸籍名・田部(たなべ)シメ子)は、1912年(大正元年)12月2日、広島県安佐郡小河内に、田部島吉シナの七番目の子、四女三男の末娘として生まれました。シメ子とは、この子でおしまいにしたいとの願いからつけられたもので、この名を嫌い、三兄・田部武雄と相談の上、次第に「あつみ」と名乗るようになりました。「ホリウッド」では「田辺あつみ」の名前で通しており、店での源氏名「ツネ子」だったそうです。

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■田部あつみ(17歳) 

 あつみは当初、広島の繁華街・新天地の喫茶店「平和ホーム」でアルバイトをしていました。「平和ホーム」のマダムが、その美貌で評判だったあつみに目をつけ、店の手伝いに来て欲しいと懇願し、両親を口説き落として、ウェイトレスとして雇うことに成功しました。あつみの容姿に魅かれ、平和ホームの客は倍増したそうです。あつみは小柄(身長152㎝、42㎏くらい)で、鼻の下(小鼻の脇)にホクロがあり、一度その容貌に接したら、決して忘れられないといわれるほど魅力的だったそうです。
 東新天地の喫茶店「チロル」のマスター・高面順三(こうめんじゅんぞう)も、あつみに魅せられた客の1人で、1日に2度も3度も訪れたこともあったそうです。また、ウェイトレスの女の子に辞められて困っていたこともって、熱心にあつみにアプローチします。あつみは、高面の熱意にほだされて婚約。「平和ホーム」から「チロル」に身を移し、2人は同棲をはじめました。高面は、あつみの5歳上でした。
 高面は、もともと演劇への関心が強く、将来は演劇方面で身を立てようという希望を抱いており、東京で働きながら新劇俳優の勉強をするため、1930年(昭和5年)春に、「チロル」をたたんで上京することを決意しました。

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■高面順三(22歳)

 東京に着いた2人は、知人・鈴村が借りている家の二階に落ち着くことになります。日比谷公園脇の内幸町で、高面が日比谷図書館に通って勉強するのにも都合が良かったそうです。しかし、上京して間もなく盗難に遭って所持金の大半を失ったり、不況が原因で、なかなか就職先が見つからない高面を見たあつみは、家計の一助にと、鈴村の妻・よし子の紹介で、「ホリウッド」で働くことになります。「ホリウッド」は、住まいから歩いて10分位の距離と、通勤には便利な距離で、着物や帯は、よし子から借りました。
 あつみが店に出て最初の夜、あつみは学生をまじえたグループを受け持つことになります。長篠康一郎は、あつみが初めて店に出た時期を「八月中旬と推測されるが、正確な日時はさだかでない」としています。このグループの中にいたのが、東京帝国大学1年生の太宰でした。
 この時の様子について、長篠康一郎『太宰治七里ケ浜心中から引用します。

 その夜、あつみがはじめて受け持ったテーブルは、学生をまじえたグループの客であった。なかでも眼鏡をかけた長身の若い男が、この仲間の親分格とみえて、「若様!」なんて呼ばれているのが、あつみには可笑しくてならなかった。いまどき「若様」なんてないもんだ。だいたいが気障なうえにひどい(なま)りのある方言で、お互い同志だとなにを話しているのか皆目ききとれない。チロルなら、こんな感じの悪い泥臭い客は一人もいなかった、と心のうちにあつみはそう思いつつビールをついだ。
 閉店時になって、裏の出入口のところに順三が迎えに来ていた。銀座の表通りは軒並みネオンがまばゆく輝き、まるで不夜城の観を呈しているなかを、銀ぶらとしゃれて歩いて帰った。

 太宰と一緒にいた義兄・小舘保は、あつみのことを「理知的で健康そうで。応答が妙にあざやかな、誰でも好感がもてるような明るい気質の女性であった」と回想しています。

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東京帝国大学仏文科1年生のとき 1930年(昭和5年)、左から中村貞次郎、太宰、葛西信造。

 田部あつみが、新築地劇団の「ゴー・ストップ」を、津島修治と一緒に市村座へ観に行ったのは、ホリウッドに勤めに出てから約一ヵ月の後であった。修治と親しくなったきっかけは、彼が二度目に、ひとりでホリウッドへ現われたときである。初対面であったときのあつみは、取巻き連中の追従に、いい気になっている「田舎の莫迦(ばか)若様」と心の(うち)に思ったけれど、彼らの喋べる方言なんかには、さほど気にならなかった。なにしろ初めての客席にはべるのだから、緊張の連続でそれどころではなかったのだが、広島のチロルなら、こんな泥臭い客はいなかったと、ちょっと誇らしげに思ったことだけ覚えていた。それにあつみ自身が、広島弁の方言が出やしないかと、極度に警戒していたせいもある。「若様」が寡黙だったのは、それを気にしてのことだったらしいが、上京して日の浅い頃、どこかで手酷い目に遭ったことがあるようだ。
 ホリウッドへ二度目に顔を出したとき、修治は初対面のあつみの印象と、そのちょっとした親切に心惹かれたからだ、とそんなことを言っていた。けれども、客と相対しての二人きりの席というのは、あつみにとってはやりきれないほど気づまりであった。口かずのすくない客なので、ビールを注ぐのと煙草の火をつけるだけ、話題らしいものはなにもない。もういい加減に腰をあげてくれないかなあ、などと思いあぐんでいたとき、となりのテーブルについていたよし子が、「ちょっとツネ子さん、あそこの壁にかかっている裸体の絵、あれ、誰の絵なの? お客さんが訊いてるから教えてよ!」と声をかけた。 ”ツネ子”という名は、以前に客に人気があった女給の源氏名を、あつみが入店した翌日から踏襲していたのである。
「どれなの? あれね。右のほうのはルノアールの『水浴』。もちろん複製よ。左のほうは、スーラの『ポーズする女たち』だと思うわ」

 

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■「岩に座る浴女」(1892) 印象派を代表するフランスの画家、ピエール=オーギュスト・ルノワールの作品。ルノワールが生涯の中で数多く手掛けた≪水浴の裸婦≫の1つ。

 

 その返事に、「田舎の若様」がオヤッというふうに、あらためてあつみの顔をまじまじと凝視した。ふたりの間に話題がほぐれたのは、それからである。「若様」は、東京帝国大学の学生で、津島修治だとはじめて名を明らかにした。おそらく夏休みに帰省していた修治が、帰京して間もなくの頃であったろう。
 その後の修治は、三日にあげずホリウッドのあつみの客になっていた。東西の絵画はもとより文学、演劇と話題には事欠かなかった。ことに文学の話になると、修治は人が変ったように能弁になった。あつみにとってなにより嬉しく思えたのは、修治の話しかたが決して女給(、、)を相手とする態度でなかったことだ。ひとりの人格を備えた女性として接してくれたことに、あつみが応じたのは、そうした事情があったからである。

  あつみは次第に、太宰に心惹かれていきます。「田舎からの送金が遅れているのだ」という太宰のために、多額の立替もしました。

 しかし太宰は、長兄・津島文治との仮証文の「覚書」に署名をし、同年11月24日には、文治の手引きで小山初代と結納を交わします。

 修治の話を聴きながらあつみは泣いた。語る修治も何度か嗚咽していた。聴き終えて、こんどはあつみが順三との生活のことをはじめて話した。いつのまにか辺りはとっぷり暮れて、銀座の店に出るにはもはや時間が経ち過ぎていた。どう考えてもこれから先、とても一緒になれそうなふたりでない。暫く無言で暗い川面を眺めているうち、どちらともなく”死”とい言葉が、不意と口をついて出た。その夜ふたりは、初めて結ばれた。

 ここからは、太宰とあつみの2人の足取りを、時系列で追っていきます。

【11月25日】

 太宰は、小舘保を含む友人4人と「ホリウッド」で看板まで騒いで痛飲。冷たい雨の夜の帰途、田部あつみも交えてタクシーに乗り、太宰は、あつみと2人、本所で下車しました。

【11月26日】

 本所から浅草に行って、見物しました。


【11月27日】

 太宰は、あつみを伴って、築地小劇場で照明係をしていた中村貞次郎津軽N君)と会います。
 その夜、神田区旅籠町1丁目10番地の「萬世(まんせ)ホテル」に宿泊。太宰は、「萬世(まんせ)ホテル」の便箋を使って、婚約者「初代どの」宛の遺書を記しました。

 「初代どの」宛の遺書には、次のように書かれていました。

お前の意地も立った筈だ。自由の身になったのだ。万時は葛西、平岡に相談せよ。

遺作集は作らぬこと

 また、あつみの身元を明らかにするため、同棲相手・高面の本籍「山口県玖珂郡米川村」を記したメモも添えられていました。

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■「萬世(まんせ)ホテル」の便箋に書かれた初代宛の遺書と、あつみの身元を明らかにするためのメモ 遺書が入った茶封筒には「鎌倉情死ノ場合」と書かれており、遺書を書いた段階では、心中の意志が固まっていないことが伺える。


【11月28日】

 午後、太宰とあつみは、「萬世(まんせ)ホテル」を後にし、鎌倉に向かい、同日夜半、神奈川県鎌倉腰越町小動崎(こゆるぎがさき)の海岸東側突端の畳岩の上で、2人で睡眠剤カルモチンを嚥下(えんげ)しました。

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小動崎こゆるぎがさきの海岸東側突端の畳岩

 新婚の死出の旅路。行き先に鎌倉を選んだのは修治であった。クスリは東京を発つまえに整えた。(中略)すっかり覚悟を定めたものか、晴ればれとした様子のあつみに較べて、修治のほうにはまだ一抹の不安が残されているように感じられた。彼は、最後の最後まで、自分たちの運命の転換に苦慮し続けていたのかも知れない。
 二十八日の夜、津島修治と田部あつみのふたりは、七里ヶ浜に連なる小動崎(こゆるぎがさき)畳岩の巖頭にあった。眼前に江の島が黒々と手が届くほど近くに見え、稲村ヶ崎の海の彼方に鎌倉の町の灯が漁火(いさりび)と交錯してキラキラ輝いて、この世のものとは思われないほど綺麗で、素晴らしい夜景を醸し出していた。

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■腰越町小動崎(こゆるぎがさき)全景

 【了】

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【参考文献】
・長篠康一郎『太宰治七里ヶ浜心中』(広論社、1981年)
・長篠康一郎『太宰治文学アルバム ー女性篇ー』(広論社、1982年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
日本近代文学館 編『太宰 治 創作の舞台裏』(春陽堂書店、2019年) 
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※画像は、上記参考文献より引用しました。
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