記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】12月10日

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12月10日の太宰治

  1929年(昭和4年)12月10日。
 太宰治 20歳。

 深夜、多量のカルモチンを下宿で嚥下(えんげ)して昏睡状態に陥った。

カルモチン服用による自殺未遂

 1929年(昭和4年)12月10日の深夜、弘前高等学校3年生の太宰は、下宿先の田豊三郎方で多量の睡眠剤カルモチンを嚥下(えんげ)して昏睡状態に陥ります。太宰はカルモチンを常用していましたが、平常の5~6倍程度を一度に服用したものと思われます。
 第二学期試験がはじまる前夜の出来事でした。

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■鎮静 催眠剤 カルモチン 武田長兵衛商店調製の錠剤、百錠入り。当時の広告には、「連用によって胃障害を来さず、心臓薄弱者にも安易に応用せられ、無機性ブロム剤よりも優れたる鎮静剤として賞用せらる。」と書かれている。服用が中毒量に達すると、呼吸中枢に作用して、呼吸困難に陥るが、これによって死亡することは稀とのこと。

 太宰が多量のカルモチンを嚥下(えんげ)した翌日の12月11日。昼食時になっても太宰が起きて来なかったため、心配した藤田氏が様子を見に行くと、太宰は昏睡状態にあり、枕元には、少しだけカルモチンが残ったビンが置いてありました。
 藤田家では、青森県弘前市元長町の斎藤内科医院に急報し、往診を依頼する一方、津島家に打電しました。

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■藤田家の人たちと 左端が太宰、右端が藤田豊三郎。

 藤田家から「電報送達紙」を受取った津島家から、太宰の次兄・津島英治弘前へ急行。英治が到着した午後4時頃、太宰はボンヤリ目覚めており、夕方には完全に意識を取り戻しました。太宰は、自殺未遂者とは思われないほど明るい表情で、英治に対してもニヤニヤするだけで、理由については、いっさい触れなかったそうです。
 午後5時半過ぎと、午後8時半頃の2回、津島家から太宰の容態を問い合わせる電報が届きました。

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■電報送達紙 1929年(昭和4年)12月11日付。

 太宰が意識を取り戻してから4、5日後。金木町から、太宰の母親・津島夕子(たね)弘前を訪れ、その翌日、太宰は母親に伴われて、弘前郊外の南津軽郡大鰐(おおわに)大鰐温泉ヤマニ仙遊館を訪れ、冬休み最後の日まで静養。1930年(昭和5年)の正月を、ここヤマニ仙遊館で迎えました。
 このヤマニ仙遊館の創業は、明治初期。現在も営業を続けており、その建物は1897年(明治30年)よりも前に建てられたもの。大鰐温泉で最も歴史ある旅館です。平川湖畔に面した閑静な宿には、近隣に住む裕福な家から、多くの湯治客がやって来たそうです。
 森鷗外の師としても知られる漢文学者・依田学海や、南満州鉄道初代総裁の後藤新平、詩人・大町桂月が宿泊した記録もあり、現存する宿帳には、青森県弘前市出身の作家・葛西善三の名も残されているなど、多くの文人にも親しまれてきました。

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ヤマニ仙遊館

 太宰と夕子(たね)は、温泉客舎の2階の二間を占有し、身の回りのいっさいの世話を、母・夕子(たね)が受け持ったそうです。

 この太宰の自殺未遂事件について、近代文学研究者・相馬正一は、評伝 太宰治で次のように分析しています。

 昭和四年十月から十二月にかけて、太宰は想像以上にあわただしい日常を過ごしていたようである。「地主一代」の執筆、校友会誌の改作原稿執筆および編集の仕事、学校当局の干渉に対する思想的抵抗、芸者との抜きさしならぬ深まり、さらには十二月十一日から始まる期末試験の準備等々。この時期の太宰の精神状態は、はげしく渦巻きながら一つのあせりとなって異常な集中拡散の分裂症状を呈していたのではなかろうか。たびたび学校を休んで学業以外の仕事に駆けずりまわっていた当時の太宰に、はたしてテストを受ける準備ができていたかどうかは疑わしい。やがて「地主一代」の第一回分を書きあげ、『校友会雑誌』第十五号の仕事も一段落し、二学期の授業も終って、いよいよ明日から期末試験が行われるという十二月十日の深夜、ついに太宰はカルモチンを多量に嚥下(えんげ)して昏睡状態におちいり、いわゆる第一回自殺未遂事件を巻きおこしたのである。太宰と自殺とのつながりについては、太宰の作品を読まない人たちの間ですら何かと取り沙汰されているほどであるが、たびかさなる自殺未遂事件の動機や原因については案外知られていないのが実情である。従来の年譜によると、このときの自殺の動機は「思想的な苦悩」であったというが、しかしそれは太宰の作品から借用したものであって、資料的に確認されたものではない。
  (中略)
自分の秀才(、、)ぶりを信じて誇りに思っている肉親を欺くことは、気の弱い太宰に到底できることではなかった。テストを受ける準備が何もできていなかった太宰にとって、この切羽つまった危機を脱することはほとんど不可能であったに違いない。心弱くも死を夢みたとしても、太宰の場合、別に不思議なことではない。けれども、これだけが自殺の動機ではなかった。
 自殺の動機として考えられる今ひとつの問題に、芸者紅子こと小山初代との関係がある。初代とのつながりはこの事件があってはじめて表面化したもので、驚いた次兄英治は、県議会出席のため青森市に滞在している長兄文治を訪れ、事件の顛末と女性問題について報告した。
  (中略)
 この問題に関するかぎり初代の方が積極的であり、大地主の息子と結婚できる日を夢のような気持で待っていたというし、太宰自身もまた、芸者と同棲するとなれば肉親との間に一波瀾避けられまいということを、ある程度覚悟していたという。しかし、同じころ初代の身辺に土地の有力者による落籍問題が起こっていたというから、当然初代が太宰に身の振り方について相談したことが想像される。もしそうだとすれば、それほど本気にも考えていなかった太宰がいきなり初代から結婚を迫られて自棄気味になり、それが周囲の諸事情とからみ合って、ふと死ぬ気を起こさせたということも考えられないわけではない。

 

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■小山初代

 

しかし、ここにもう一つの問題が残されている。それは偽装自殺説である。つまり、太宰はこのとき本当に死のうと思っていたのかどうかということである。次兄英治もこのことについては、太宰の本心がどの辺にあったものか見当がつかないし、常用剤であるカルモチンの分量を間違えて多く飲みすぎたか、さもなければ四方八方がんじがらめの難問題を精算しきれなくなって自殺の真似事をしてみたのではないかと言っている。太宰の自殺癖は何もこのときに始まったものではなく、中学時代から少しでも困難な問題が起こると、普通の人ならば「ああ、困った」というところを、太宰は「ああ、死にたくなった」というのが口癖であったとも言われている。高校に入ってからも自殺のことを二度ほど友人に語ったことがあったという。太宰の嘘をつく習癖は兄弟間でも評判が悪く、とくに長兄は潔癖な性格の人だっただけに誰よりも当時の太宰の不謹慎な言動を嫌っていた。巧みに人を欺くという処世術を太宰がいつどのようにして習得したものかは判らないが、弘前高校在学中の彼に対する学籍簿の性行評は「正直ヲ欠ク(外面甚ダ正直)」となっている。担当教師にこのような不名誉なレッテルを貼られたということは、当時の太宰の人柄をよく物語っているものと思う。そういう点からも、偽装自殺説は太宰の場合、一つの現実的な根拠をもって現われるのである。

 【了】

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【参考文献】
・長篠康一郎『太宰治七里ヶ浜心中』(広論社、1981年)
相馬正一『評伝 太宰治 第一部』(筑摩書房、1982年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「ヤマニ仙遊館
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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