記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】12月26日

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12月26日の太宰治

  1941年(昭和16年)12月26日。
 太宰治 32歳。

 十二月中旬、東京駅で太田静子と落ち合い、新宿の「LILAS」という地下レストランで対談した。

「僕の生命を園子にあずける」

 1941年(昭和16年)9月上旬頃に太宰と太田静子が出逢ってから、約4ヶ月後。太宰から静子へ、不意に電報が届きました。この時の様子について、静子の著書『あはれわが歌』から引用します。
 『あはれわが歌』は、静子が生活を太宰からの仕送りに頼っていた中、太宰の死後に瞬く間にお金が無くなり、幼い娘を抱えて生活が成り立たなくなっている状況下で、太宰の友人・檀一雄の尽力で刊行されました。

 太平洋戦争がはじまったのは、この(とし)の、冬のはじめだった。戦争がはじまって、十日ほど経った雨の日に、不意に、治から電報が来た。
 『ニジ トウキョウエキ ダ ザイ』という簡単な電報だった。母は田舎へ行っていて留守だった。美子が来ていて、シューマンの「クライスレリアナ」を弾いていた。時計を見ると、一時十分だった。園子(著者注:太田静子のこと)は大急ぎで紫のしぼりの着物に着更(きが)え、天鵞絨(ビロード)のコートを着て家を出た。彼女は電報を見た時、治はきっと和服にちがいないと思ったのだった。
 東京駅の階段を降りた時、向うの花屋の前に、二重廻しを着て立っている治を見つけた。彼は動かずに、近づいて来る園子を待っていた。園子が前へ行くと、園子の手をとって、
「神さまが逢わせて下さったのだね。一時間以上も、此処に立っていたんだ」と言った。
「あの一番上の、淡紫の花の名を知っている?」治は、花屋の一番高いところにある花をさして、園子に尋ねた。ライラックだった。ライラックにちがいなかったけれど、園子はだまっていた。

 

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「丸ビルへ原稿を届けに来て、電報を打って、それからずっと此処に立って、神さまにお祈りしていたんだ。…………此処に立って、あの花を見ていたら、しまいに泣きたくなって、よっぽど店のひとに、あの花の名を尋ねようと思ったのだけれど、でも、あの花の名を知ってしまったら、君が永久に来ないような気がして、それでじっと辛抱して待っていたんだ。」
 黒い二重廻しがよく似合った。マントを着ていると、猫背がほとんど分らなくて、ただ首を少しちぢめているだけに見えた。そうして三鷹の家ではじめて逢った時の現実的な感じが全然消えていて、子供のように柔かく白い顔をして、微笑していた。地下室へ行き、紅茶とケーキを注文したが、彼は紅茶をほんの少し飲んだだけで、眼を伏せて、だまり込んでしまった。

 

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 外へ出ると、また雨が降っていた。治は駅の正面にたたずんで、雨に煙る丸ビルのあたりを、じっと見ていた。
 新宿へ行き、武蔵野館でシモーヌ・シモンの「乙女の湖」という映画を観た。外へ出て、雨の上った道を行くと、街角にチェーホフ全集の広告が出ていた。ふとアリー・シェールと別れた時のことを思い出し、立ちどまってチェーホフの写真を見て、治を見あげると、
チェーホフはいい顔をしているよ。贅沢だ。君は贅沢だ」と言った。

 

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アントン・チェーホフ ロシアを代表する劇作家であり、多くの優れた短篇を遺した小説家。代表作に『かもめ』『三人姉妹』『桜の園などがある。太宰は「日本の『桜の園』を書きます」と宣言し、斜陽を執筆した。

 

 とある店の前で治は立ちどまった。白ワニスに淡紫の縁をとった標札にLILASと書いてあった。階段を降りて地下室のドアを押すと、四、五組の客がひっそり食事をしていた。
 治は二重廻しを着たまま、だまってウイスキイを飲んでいた。園子も少し飲んだけれど、喉が焼けるようだった。
「乙女の湖って、綺麗な映画だね。山上の湖が、実にうつくしい。僕は今日で三度目だ。あの女優は君に似ているよ」
「私も、三度、観ましたわ」
「君は誰と観たの?」
「三條さんと、それから小秋さんと、」
「三條さんというのは、三條篤さん(著者注:モダニズムの画家で、詩歌も作った六條篤)のことなの?」
「お友達でしたの?」
 治は首を振り
「絵を見たことがあるんだよ。桃色や白の貝殻や虹が描いていた。澄んだ、きれいな色だった。だけど、三條さんの絵は美し過ぎるよ。」
「…………」
「あの三條さんと、どうしたんだい? 満里子ちゃんのお父さんは、小秋さんだろう?…………君のノートのSというのは三條さんのことだったんだね? そんなに三條さんを好きだったのかい?」
「…………」
「三條さんとは、ほんとうに何でもなかったの? 日記に書いてある通りなの?」
「ええ。…………。結婚するつもりで、おつきあいしていただけですの。」
「ほんとう?」
「…………一度だけ、ベエゼしようとなさったので、逃げましたの。松林のなかを、どんどん逃げて、そうしてその日の帰りに結婚したいと仰っしゃったのだけれど、三條さんは画描きさんで、十五も齢がちがうでしょう? それで、周囲(まわり)で心配していたところへ、小秋さんが出ていらして、」
「いまでも、三條さんを思っているの?」
「いいえ」
「ほんとうかい?」
「どうしてあんなに忘れられなかったのか、不思議なの。小秋さんと別れて、告白の作品を書いているうちに、或る日、すっと消えてしまったの」
「とにかく三條さんの絵は、きれい過ぎるよ。三條さんは詩も書くんだろう?」
「ええ。私のシモーヌ・シモンよ、という詩を書いて下さったことがあるわ」

 

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シモーヌ・シモン(1910〜2005) フランス マルセイユ出身の女優。1931年からフランスで映画女優として活動をはじめ、短期間で名声を打ち立てた。『乙女の湖』(1933年)を契機に、アメリカでも活動した。

 

「その詩を教えて、」治はそう言って、革の手帖を出して、園子の前に置いた。
「その詩を、此処へ書いてごらん。」
 園子は鉛筆を受けとって、「指紋」という詩を、思い出しながら、書いた。
 『これは牛乳で育った花
  水曜日の饗宴のゆるやかな流れに
  影をおとして

  多くの会話がそれに集る

  私のシモーヌ・シモン
  そなたの指に花葩(はなびら)がふれる
  さようなら花が散る
  黄昏の指紋が残る』
 手帖を受けとって、治はだまって読んだ。治の顔が、あかかった。園子の頬も火照って来た。やがて治が大きい声で言った。
「園子は今日から、ひとりじゃあないんだ。僕の生命を園子にあずける。いい? 分った? 園子は責任が重くなるんだよ」「分ったのかい? なんだか心細いなあ。四、五日したら、園子の都合のいい時と場所を知らせて欲しい。僕はきっと、逢いに行くよ」
 外へ出ると、街にはすでに灯がともり、木枯が吹いていた。園子は予期せぬ驚きと歓びに胸の(ふる)えるのを感じながら、少し遅れて歩いた。夜店のアセチリンがチリチリ燃えていた。園子は早くひとりになって、よく考えてみたいと思った、ひどく空しいような気もした。
駅の改札口のところで立ちどまって、治は、
「じゃあ、手紙を忘れないで」と言った。
「さようなら」
「向うをむいたままで行くんだよ。こちらを向いてはいけないよ。さようなら」

 

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 園子は改札口を出て、うしろに心を魅かれながら、真直に歩いて、地下道へはいってから振りかえった。しかしもう其処からは、改札口は見えなかった。
 大森の家へ帰って来ると洋間の窓に灯がともっていた。そっと上にあがって、廊下を歩いてゆくと、ドアの隙間から灯りが廊下に洩れていた。
 部屋のなかでは透と美子がトランプをしていた。
「姉さんの帰りがあんまり遅いので、美子ちゃんが占っていたんだ」
 美子はトランプをテーブルの上に並べた。
「武蔵野館で、乙女の湖を観て、それからリラでお夕飯をいただいたの」
「リラはいいところだろう?」
 椅子に腰をおろすと、急に孤独と疲れをおぼえた。透の(しろ)い歯と、美子の胸のサファイヤがキラキラと輝いていた。
 透が美子を送って行くと、園子は顔を洗い、居間にはいり、倒れるようにベッドに横になった。急にかなしくなって泣けて来た。どうして泣けて来るのか、自分でもよく分らなかった。彼女は、太宰治を恋している自分を承認したくなかった。恋愛は結婚に通ずる一本道の上だけで承認されるものだったのだ。
「あの方は本気だったのかしら? 奥さまやお子供さまがいらっしゃるのに、どうしてあんなことを仰ったのかしら…………」胸の上に両手を置いて、ぼんやり宙を見つめていた。何時までも眠れなかった。

 

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■太田静子

 【了】

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【参考文献】
・太田静子『あはれわが歌』(ジープ社、1950年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
太田治子『明るい方へ』(朝日文庫、2012年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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