記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】12月8日

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12月8日の太宰治

  1941年(昭和16年)12月8日。
 太宰治 32歳。

 午前三時十九分、日本の機動部隊がハワイ真珠湾を奇襲し、同日十一時四十五分、アメリカ、イギリスに対し、宣戦の詔書が発せられた。

「太平洋戦争が始まった」

 1941年(昭和16年)12月8日。ハワイ準州オアフ島真珠湾パール・ハーバー)に停泊するアメリカ太平洋艦隊と基地に、日本海軍の航空母艦を飛び立った航空機と潜航艇による奇襲攻撃が行われました。当時の大日本帝国側の呼称は、「布哇海戦(ハワイかいせん)」でした。

 日本海軍の6隻の航空母艦「赤城」「加賀」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」から発艦した350機(第一次発進部隊183機、第二次発進部隊167機)の攻撃隊は、アメリカ太平洋艦隊の本拠地である真珠湾を奇襲。わずか2時間足らずの攻撃で、ハワイにあった米艦隊と航空部隊を壊滅させるという大戦果を上げ、大日本帝国の優秀さを世界に示す結果となりました。

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真珠湾上空を飛行する九七式艦上攻撃機 九七式艦上攻撃機には、全く設計の異なる中島製(B5N)と三菱製(B5М)の2種類が存在するが、通常は中島製(B5N)を指す。

 アメリカ側は、戦艦4隻が沈没または転覆したのをはじめ、19隻が大きな損害を受け、300機を超える航空機が破壊あるいは損傷し、死者・行方不明者は2,400名以上、負傷者1,300名以上を数えました。
 一方、日本側の損失は、航空機29機と特殊潜航艇5隻、戦死者は64名(うち航空機搭乗者55名)でした。
 しかし、この真珠湾の大戦果は、日本の開戦通告が攻撃開始時刻に間に合わなかったため、「だまし討ち」と喧伝され、アメリカの世論を1つにまとめる結果となりました。「リメンバー・パールハーバー」のスローガンのもと、一丸となったアメリカ軍は、驚異的な立ち直りを見せて反撃に転じ、3年9ヶ月後には、日本の主要都市焼尽、そして、降伏という形で幕を降ろしました。
 真珠湾攻撃に参加した日本側の航空機搭乗員は765名(途中、故障で引き返した3機、機動部隊上空哨戒および予備員は含めず)。真珠湾で戦死した55名を含め、約8割にあたる617名が、その後の激戦の中で戦死あるいは殉職し、生きて終戦の日を迎えたのは、148名に過ぎませんでした。

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■1941年(昭和16年)12月8日付「朝日新聞」 ハワイ真珠湾攻撃、米英に宣戦の詔書

 この年の太宰は、5月3日付で実業之日本社から短篇集『東京八景』東京八景』『HUMAN LOST』『きりぎりす』『短篇集(『一燈』『失敗園』『リイズ』)』『盲人独笑』『ロマネスク』『乞食学生』『あとがき』収載)を刊行、6月7日に長女・津島園子が誕生、7月2日付で文藝春秋社から初の書下ろし中篇小説新ハムレットを刊行、8月25日付で筑摩書房から短篇集『千代女』みみずく通信』『佐渡』『清貧譚』『服装に就いて』『令嬢アユ』『千代女』『ろまん燈籠収載)を刊行するなど、旺盛な執筆活動を行っていました。
 同年11月15日には、文士徴用令書が届き、文壇仲間と一緒に身体検査を受けますが、「肺浸潤」が理由で、徴用免除となりました。

 ハワイ真珠湾攻撃の当日のことを、太宰の妻・津島美知子は、回想の太宰治の中で、次のように回想しています。

  長女が生まれた昭和十六年(一九四一)の十二月八日に太平洋戦争が始まった。その朝、真珠湾奇襲のニュースを聞いて大多数の国民は、昭和のはじめから中国で一向はっきりしない○○事件とか○○事変というのが続いていて、じりじりする思いだったのが、これでカラリとした、解決への道がついた、と無知というか無邪気というか、そしてまたじつに気の短い愚かしい感想を抱いたのではないだろうか。その点では太宰も大衆の中の一人であったように思う。この日の感懐を「天の岩戸開く」と表現した文壇の大家がいた。そして皆その名文句に感心していたのである。

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■太宰と津島美知子

 また、太宰は、この日を題材に、翌1942年(昭和17年)1月1日付発行の「新潮」新年号に新郎を、同年2月1日付発行の「婦人公論」二月号に十二月八日を発表しています。

 きょうの日記は特別に、ていねいに書いて置きましょう。昭和十六年の十二月八日には日本のまずしい家庭の主婦は、どんな一日を送ったか、ちょっと書いて置きましょう。もう百年ほどって日本が紀元二千七百年の美しいお祝いをしている頃に、私のの日記帳が、どこかの土蔵の隅から発見せられて、百年前の大事な日に、わが日本の主婦が、こんな生活をしていたという事がわかったら、すこしは歴史の参考になるかも知れない。だから文章はたいへん下手へたでも、嘘だけは書かないように気を附ける事だ。

  (中略)

 十二月八日。早朝、蒲団の中で、朝の仕度に気がせきながら、園子(そのこ)(今年六月生れの女児)に乳をやっていると、どこかのラジオが、はっきり聞えて来た。
大本営陸海軍部発表。帝国陸海軍は今八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり。」
 しめ切った雨戸のすきまから、まっくらな私の部屋に、光のさし込むように強くあざやかに聞えた。二度、朗々と繰り返した。それを、じっと聞いているうちに、私の人間は変ってしまった。強い光線を受けて、からだが透明になるような感じ。あるいは、聖霊息吹いぶきを受けて、つめたい花びらをいちまい胸の中に宿したような気持ち。日本も、けさから、ちがう日本になったのだ。
 隣室の主人にお知らせしようと思い、あなた、と言いかけると直ぐに、
「知ってるよ。知ってるよ。」
 と答えた。語気がけわしく、さすがに緊張の御様子である。いつもの朝寝坊が、けさに限って、こんなに早くからお目覚めになっているとは、不思議である。芸術家というものは、かんの強いものだそうだから、何か虫の知らせとでもいうものがあったのかも知れない。すこし感心する。けれども、それからたいへんまずい事をおっしゃったので、マイナスになった。
「西太平洋って、どの辺だね? サンフランシスコかね?」
 私はがっかりした。主人は、どういうものだか地理の知識は皆無なのである。西も東も、わからないのではないか、とさえ思われる時がある。つい先日まで、南極が一ばん暑くて、北極が一ばん寒いと覚えていたのだそうで、その告白を聞いた時には、私は主人の人格を疑いさえしたのである。去年、佐渡へ御旅行なされて、その土産話に、佐渡の島影を汽船から望見して、満洲だと思ったそうで、実に滅茶苦茶だ。これでよく、大学なんかへ入学できたものだ。ただ、あきれるばかりである。
「西太平洋といえば、日本のほうの側の太平洋でしょう。」
 と私が言うと、
「そうか。」と不機嫌そうに言い、しばらく考えて居られる御様子で、「しかし、それは初耳だった。アメリカが東で、日本が西というのは気持の悪い事じゃないか。日本は日出ずる国と言われ、また東亜とも言われているのだ。太陽は日本からだけ昇るものだとばかり僕は思っていたのだが、それじゃ駄目だ。日本が東亜でなかったというのは、不愉快な話だ。なんとかして、日本が東で、アメリカが西と言う方法は無いものか。」
 おっしゃる事みな変である。主人の愛国心は、どうも極端すぎる。先日も、毛唐がどんなに威張っても、このかつお塩辛しおからばかりはめる事が出来まい、けれども僕なら、どんな洋食だって食べてみせる、と妙な自慢をして居られた。
 主人の変なつぶやきの相手にはならず、さっさと起きて雨戸をあける。いいお天気。けれども寒さは、とてもきびしく感ぜられる。昨夜、軒端のきばに干して置いたおむつも凍り、庭には霜が降りている。山茶花さざんかりんと咲いている。静かだ。太平洋でいま戦争がはじまっているのに、と不思議な気がした。日本の国の有難ありがたさが身にしみた。

  (中略)

 夕刊が来る。珍しく四ペエジだった。「帝国・米英に宣戦を布告す」という活字の大きいこと。だいたい、きょう聞いたラジオニュウスのとおりの事が書かれていた。でも、また、隅々まで読んで、感激をあらたにした。
 ひとりで夕飯をたべて、それから園子(そのこ)をおんぶして銭湯に行った。ああ、園子(そのこ)をお湯にいれるのが、私の生活で一ばん一ばん楽しい時だ。園子は、お湯が好きで、お湯にいれると、とてもおとなしい。お湯の中では、手足をちぢこめ、抱いている私の顔を、じっと見上げている。ちょっと、不安なような気もするのだろう。よその人も、ご自分の赤ちゃんが可愛くて可愛くて、たまらない様子で、お湯にいれる時は、みんなめいめいの赤ちゃんに頬ずりしている。園子(そのこ)のおなかは、ぶんまわしで画いたようにまんまるで、ゴムまりのように白く柔く、この中に小さい胃だの腸だのが、本当にちゃんとそなわっているのかしらと不思議な気さえする。そしてそのおなかの真ん中より少し下に梅の花の様なおへそが附いている。足といい、手といい、その美しいこと、可愛いこと、どうしても夢中になってしまう。どんな着物を着せようが、裸身の可愛さには及ばない。お湯からあげて着物を着せる時には、とても惜しい気がする。もっと裸身を抱いていたい。
 銭湯へ行く時には、道も明るかったのに、帰る時には、もう真っ暗だった。燈火管制なのだ。もうこれは、演習でないのだ。心の異様に引きしまるのを覚える。でも、これは少し暗すぎるのではあるまいか。こんな暗い道、今まで歩いた事がない。一歩一歩、さぐるようにして進んだけれど、道は遠いのだし、途方に暮れた。あの独活うどの畑から杉林にさしかかるところ、それこそ真の闇で物凄かった。女学校四年生の時、野沢温泉から木島まで吹雪の中をスキイで突破した時のおそろしさを、ふいと思い出した。あの時のリュックサックの代りに、いまは背中に園子が眠っている。園子(そのこ)は何も知らずに眠っている。
 背後から、我が大君に召されえたあるう、と実に調子のはずれた歌をうたいながら、乱暴な足どりで歩いて来る男がある。ゴホンゴホンと二つ、特徴のあるせきをしたので、私には、はっきりわかった。
園子(そのこ)が難儀していますよ。」
 と私が言ったら、
「なあんだ。」と大きな声で言って、「お前たちには、信仰が無いから、こんな夜道にも難儀するのだ。僕には、信仰があるから、夜道もなお白昼の如しだね。ついて来い。」
 と、どんどん先に立って歩きました。
 どこまで正気なのか、本当に、あきれた主人であります。

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■『十二月八日』が掲載された「婦人公論」二月号 挿画は、岩手県盛岡市出身の洋画家・深澤紅子

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「真珠湾攻撃に参加した隊員たちがこっそり明かした「本音」(神立 尚紀)」(現代ビジネス
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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