記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】知らない人

f:id:shige97:20210214143058j:plain

今週のエッセイ

◆『知らない人』
 1940年(昭和15年)、太宰治 31歳。
 1940年(昭和15年)2月上旬頃に脱稿。
 『知らない人』は、1940年(昭和15年)3月1日発行の「書物展望」第十巻第三号の「随筆」欄に発表された。この欄には、ほかに「平林寺へ」(中塚一碧楼)、「枲山閣叢話(三)」(樋口龍太郎)、「鋏と糊と蚕拂い」(木寺相模)、「机の塵」(湯朝竹山人)、「古本懐舊話題」(鳥東吉)が掲載された。

「知らない人

 ことしの正月は、さんざんでありました。五日すぎから、腰の右方に腫物ができて、粗末にしていたら次第にそれが成長し、十五日までは酒を呑んだりして不安の気持をごまかしていましたが、とうとう十六日からは、寝たっきりになってしまいました。悪寒疼痛、ニ、三日は、夜もろくに眠れませんでした。手術は、いやなので無二膏(むにこう )という膏薬(こうやく)を患部に貼り、それだけでも心細いので、いま流行しているらしい、れいの「二箇のズルフォンアミド基」を有する高価の薬品を内服してみました。葡萄状球菌、連鎖状球菌に困る諸疾患にも卓効を奏するということだったので、私は、それを、はじめて二錠服用したときから、既に恢復(かいふく)の一歩を踏み出したような爽快を覚えました。私は、膏薬の効能書を、実に信用する愚かな性質を持って居ります。その、「二箇のズルフォンアミド基」を有する高級化学療法剤に就いては、かねて新聞広告に依っても承知していたのでありますし、いま自ら(あがな)い求めて、薬品に添付されて在る一枚の効能書をつくづく眺め、熟読して、腰の腫物を忘却してしまうほど安心したのであります。効能書に依れば、これは、たいした薬なのであります。世界を驚かした大発明なのであります。私は、ここでその薬品の広告をするつもりでは無いから、くわしくは書きませんが、実に種々雑多の難病に卓効を奏する薬なのであります。もう、これで、なおった。腫物が、なおるばかりでなく、肌がなめらかになり色が白くなるかも知れない、と家の者に冗談を言い、静かに横臥(おうが)し、薬のききめを待っていました。二錠ずつ、一日三回服用すると、たいていの腫物は、なおるという効能書の言葉だったのですが、二日服用しても、三日服用しても、ちっとも軽快になりません。おなかが変に張って、ごろごろ鳴ります。胃に悪い薬のようです。三日服用したら、あと服用を禁止せよ、三日乃至(ないし)五日間休止して、それからさらに二錠ずつの服用を開始せよ、と効能書に書かれて在りましたので、私は、少しも、ききめの無いままに、その薬の服用を、やめなければならなくなりました。すでに私は、三日間、服用してしまったのです。(はなは)だ、味気ない思いでありました。腫物はいよいよ発展し、いまは膏薬では間に合わず、脱脂綿に無刺激の油薬を塗って患部に貼りつけ、日に五、六回も貼りかえなければなりませんでした。膿が、どんどん出るのです。その状は、流石に形容を遠慮しますけれど、とにかく酸鼻の極でありました。お銚子の底くらいの大きい深い穴が腰にぽっかりできてしまったのです。入院、ということも考えましたが、それでも、やはり心の奥底で、かの高価な「二個のズルフォンアミド基」を有する世界的な新薬を、たのしみにしているところが在るらしく、そのうち卓効を奏するであろうと、身動きもならず静かに横臥して、天に祈る気持でありました。服用休止の三日間が過ぎて、さらに私は新薬の服用を開始しました。いたずらに膿が流出するだけであります。患部を見ると、あまりの惨状にくらくら眩暈(めまい)を感じます。腫物で死ぬ奴も無いだろう、などと強がりを言って、医者に見せようともしませんでしたが、どうも、夜半ひとり眼覚めて、いろいろのことを考えると、なかなかに心細くなるのでした。寝ついてから、もう十日以上になります。いまは、膿も、あまり出なくなって、からだも軽くなり、こうして床に腹這いになり原稿を書けるようになりました。だんだん、よくなって行くのでしょう。やはり、「二個のズルフォンアミド基」のおかげなのでしょうか。それにしても、ずいぶん緩慢な卓効ぶりであります。全快までには、まだまだ相当の日数がかかるような気がします。私が、あまり有頂天で効能書の文句を信じ過ぎたのでありましょう。現実は、たいてい、こんなものではないでしょうか。この世に、奇跡なんてものを期待した私は、ばかであります。
 十日間、寝たままなので、ずいぶん本を読みました。なんでもかでも、選択せずに読みました。恵送された同人雑誌も、全部読破しました。一つ、心に残った記事があります。第一早稲田高等学院の「学友会雑誌」に、K教授の追悼記が載っていました。K教授という人は、どんな人だか、私はちっとも存じません。逢ったことも無し、また、名を聞いたことさえありません。けれども、その雑誌に載っている四つの追悼記を読んで、実にその人を、なつかしく、惜しく思いました。こんな美しい人も生きていたのかとほのぼの楽しく、また、もうこの人も、なくなって、お逢いできる望みは、全く無いのだと思うと、胸ががらんどうになって侘びしく、鬱な気持でありました。四人の人が、追悼文を書いているのですが、その四人の人の名も、私は知っていません。四人とも、早稲田の先生なのでしょう。私の知らない人ばかりですが、なかなか巧みに書いて居ります。追悼文を読み、私のように故人を全く知らぬ男にさえ、故人に対して追慕の念を懐かせるのは、それは、きっと追悼文の誠実さであり、またその追悼文の筆者の故人に対する深い愛情の証拠であると考えられますが、また、それだけ故人の徳の深さをも思いやられるところが在るのであります。つまり、故人の徳の深さが、このように友人たちに、美しい追悼文を書かせた、という交互相照の作用を考えることもできるのであります。私は、終りのほうから逆に読んで行きました。一ばん終りには、Y・Tという人が、「K君は歩きながら語り合う様な人であった。さし向って話すときでもお互いにそっぽをむいて話した。それが大変に気持よかった。そして黙ったままでいても気持が良かった。」と書いています。また、「勢いこんで議論を吹きかけるとK君は大抵だまって、ものの十秒も考えてから言うのである。君の言うことも、そう、そんなこともあるよ、とK君は独特のアクセントで言ってたいてい賛成してくれる。K君は気の弱い人である。恐らく沢山の人がK君を軽んじていたと思う。それは全く、はたで見ていて歯がゆくなる程であった。K君は決して他人の悪口を言わない。他人の批評をしない。決して蔭口をきかない。けれども、厭なもの、くだらぬものの傍は黙って通りすぎる人であった。云々。」とその他たくさんのいいことを書いているのです。М・Kという人が、その前の(ページ)に書いています。「実際あのひとの慇懃鄭重(いんぎんていちょう)は、生れつきだったらしい。幹部候補生を勤め上げて、騎兵少尉になってからのことだ。どこかへ演習に行って帰る時、集合命令をかけたが、雑談に余念のなかった二三の部下に徹底しなかった。つかつかと歩み寄ったK少尉、いきなりのびんた(、、、)の一つも張るかと思ったらさにあらず、『それ位にして置いて早く集って下さい、済まんが』とやったものだ。部下は飽気(あきけ)にとられる。側にいた上官が、そんなことで威厳が保てるか、と真赤になってK少尉の(あぶら)を搾ったというが、Kさんは、そんな人だ。決して威張れない人なんだ。それでいて結構つよい反面もあって、学問上の議論となると、なかなか譲らない。我武者羅に押通そうものなら、黙って聴いてはいるが、『そういうけどなあ』とねちねちやって来る。言い出したら引かない。しまいには辞引きを出して来る。参考書を引張り出す。そうなったら大抵の場合、こちらの敗けだ。よく読んでいるからなあ。」と書いています。また、「本当の意味のユーモアは、K君の持味だった。軽口を言わず、駄洒落を飛ばさないから、K君をユーモリストだと誰も思わないけれど、挨拶をさせたり、序文を書かせたりしたら、K君のものは天下一品だ。少し長すぎるなと思っても、結構、しまいまで附合いさせる面白さがあった。微笑は、する者にも見る者にも、上品でよいものだ。そんな軽い微笑をK君は絶えず人々に、そっと投げかけていた。だからK君のいる傍は、いつも和やかな春風が吹いていた。云々。」その前の(ページ)には、D・Eという人が、「彼には、自分が生きるために、止むを得ず他の人間を喰物にするなぞという事は、誠に思いもよらぬ事の如くであった。気づかぬふりして人に迷惑をかける、なぞという事は絶対に彼の本性が許さなかった。彼は実に不便な思いをしながらも、最も人に迷惑をかけないような身の置き所から、身の置き所へと、(あたか)も飛石づたいのように拾い歩かなければならなかったのである。」と愛情を以て説明して居ります。また、その前の(ページ)には、T・Iという人が、「変な言いかたかも知れないが、Kさんは、ほんと、、、)の声を出す人であった、そうしてほんとの声しか、出さない人であった。君が純真率直で自己を偽れない人であった他面に、そういう人に時々見掛けられる他の人に対する冷酷さというものが(ほとん)ど無く、反対に優しい心根の、先輩に対しては極めて謙譲な、実に美しい性情の持主であったことは、矢張り君の自己教養の深さから来たものではないかと思う。」と書いて、その実例を三つ四つ、引いて在るのです。実にK氏は、いい人だ、できた人だ。こんないい人が、どうして死んだのだろう、と追悼記の一ばん前の(ページ)をひらいて見ると、そこに、学院長K・Мという人の弔辞が在ります。「第一早稲田高等学院教授陸軍騎兵中尉K・K君逝けり。君は昨年九月召に応じて征途に就き、南支バイアス湾上陸軍に加わり、広東攻略戦に参加して奮闘せしが、幾ばくもなく病に(かか)りて、戦線より後退するの止むなきに至り、爾来(じらい)台湾に、後広島に加療し、更に東京日本赤十字病院に転じて、只管に健康の恢復に力めしが、天無情にして齢を君に仮さず、客月二十九日、痛ましくも終に不帰の客となれり。云々。」と書いてありましたので、私は、なんだか、寝床に起き直りたい気持になりました。
 小さい、美しい奇跡を、眼の前に見るような気がいたしました。奇跡は、やはり在るのです。

 

太宰の追悼文

  今回紹介したエッセイ『知らない人』では、太宰が腫物に困り、横臥している間に読んだという、第一早稲田高等学院の「学友会雑誌」に掲載されていた、K教授の追悼記について書かれていました。
 太宰は「故人の徳の深さが、このように友人たちに、美しい追悼文を書かせた、という交互相照の作用を考えることもできるのであります」と書いていますが、太宰の追悼文は、どうだったのでしょう。

 太宰の葬儀の際には葬儀委員長を務め、太宰が尊敬し、心から甘えることができた数少ない先輩作家の1人である、豊島与志雄(とよしまよしお)(1890~1955)が書いた追悼文太宰治との一日を引用して紹介します。

f:id:shige97:20210905135405j:image
豊島与志雄(とよしまよしお)(1890~1955) 日本の小説家、翻訳家、仏文学者、児童文学者。明治大学文学部教授も勤めた。太宰は、晩年に豊島を最も尊敬し、愛人・山崎富栄を伴って、度々豊島の自宅を訪れては酒を酌み交わした。豊島も太宰の気持ちを受け入れ、その親交は太宰が亡くなるまで続いた。

 昭和二十三年四月二十五日、日曜日の、午後のこと、電話があった。
「太宰ですが、これから伺っても、宜しいでしょうか。」
 声の主は、太宰自身でなく、さっちゃんだ。――さっちゃんというのは、吾々(われわれ)の間の呼び名で、本名は山崎富栄さん。
 日曜日はたいてい私のところには来客がない。太宰とゆっくり出来るなと思った。
 やがて、二人は現われた。――考えてみるに、太宰は三鷹にいるし、私は本郷にいるので、時間から推して、お茶の水あたりからの電話だったらしい。伺っても宜しいかというのは一応の儀礼で、実は私の在否を確かめるためのものであったろうか。
「今日は愚痴をこぼしに来ました。愚痴を聞いて下さい。」と太宰は言う。
 彼がそんなことを言うのは初めてだ。いや、彼はなかなかそんなことを言う男ではない。心にどんな悩みを持っていようと、人前では快活を装うのが彼の性分だ。
 私は彼の仕事のことを聞いた。半分ばかり出来上がったらしい。――彼はその頃、「展望」に連載する小説「人間失格」にとりかかっていた。筑摩書房の古田氏の世話で、熱海に行って前半を書き、大宮に行って後半を書いたが、その中間、熱海から帰って来たあとで私のところへ来たのである。私は後に「人間失格」を読んで、あれに覗き出してる暗い影に心打たれた。あの暗い影が、彼の心に深く積もっていたのだろう。
 しかし、愚痴をこぼしに来たといいながら、それだけでもう充分で、愚痴らしいものを太宰は何も言わなかった。――その上、すぐ酒となった。

 

f:id:shige97:20210905152907j:image

 

 だいたい吾々(われわれ)文学者は、少数の例外はあるが、よく酒を飲む。文学上の仕事は、我と我身を切り刻むようなことが多く、どうにもやりきれなくて酒を飲むのだ。または、頭の中、心の中に、いやな(おり)がたまってきて、それを清掃するために酒を飲むのだ。太宰もそうだった。その上、太宰はまた、がむしゃらな自由奔放な生き方をしているようでいて、一面、ひどく(きま)りわるがり恥しがるところがあった。口を開けば妥協的な言葉は言えず、率直に心意を吐露することになるし、それが反射的に気恥しくもなる。そして照れ隠しに酒を飲むのだ。人と逢えば、酒の上でなえればうまく話が出来ない。そういうところから、つまり、彼は二重の酒を飲んだ。彼と逢えば私の方でも酒がなくては工合いがわるいのだ。
 折よく、私のところに少し酒があった。だが、私のこの近所、自由販売の酒類はすぐに売り切れてしまう。入手に(はなは)だ困難だ。太宰はさっちゃんに耳打ちして、電話をかけさせる。日曜日でどうかと思われるが、さほど遠くないところに、二人とも懇意な筑摩書房と八雲書店とがある。
「もしもし、わたし、さっちゃん……。」そう自分でさっちゃんは名乗る。太宰さんが豊島さんところに来ているが、お酒が手にはいるまいかとねだる。お代は原稿料から差引きにして、と言う。――両方に留守の人がいた。八雲から上等のウイスキーが一本届けられ、夜になって、筑摩からも上等のウイスキーを一本、臼井君が、自分で持参された。
 元来、太宰はひとに御馳走することが好きで、ひとから御馳走になることが嫌いだ。旧家大家に育った生れつきの心ばえであろうか。――(かつ)て、生家と謂わば義絶の形となり、原稿もまだあまり売れず、困窮な放浪をしていた頃、右の点について、彼はずいぶん屈辱的な思いをしたことであろう。
 私は太宰と懇意になったのは最近のことだが、私のところへ来ても、彼はいつも私へ御馳走しようとした。貧乏な私に迷惑をかけたくないとの配慮もあったろう。年長の私に対して礼をつくすという気持ちもあったろう。――彼が甘んじて世話になったのは、恐らく、死後も面倒をみて貰うことになった三社、新潮と筑摩と八雲であったろうか。
 あの日も太宰は酒を集めてくれた。ばかりでなく、さっちゃんをあちこちに奔走さして、いろいろな食物を買って来さした。私の娘が結婚後も家に同居していて、その頃病気で伏せっていたのへも、お見舞として、バタや缶詰の類を買って来さした。
 おかしいのは、鶏の料理だ。だいぶ前、太宰が来た時、私は目の前で鶏を料理してみせたことがある。へんな鶏で、雌雄がわからず、つまり、子宮も睾丸も摘出できなかったという次第で、大笑いとなった。こんな血腥(ちなまぐさ)いこと、太宰としては厭だったろうと思われるのに、案外、彼は興味を持って、(その)後、よそで、自ら執刀し、そこら中を血だらけにしたという。私はそれを聞いていたし、前回の失敗を取返したくも思い、丸のままを一羽求めて来さして、食卓の上で手際よく解剖してみせた。ところがその鶏、産むまぎわの卵を一つ持っていて、まだ殻がぶよぶよしてる大きいのが出て来て、私も、むろん太宰も、ちょっと面喰った。

 

f:id:shige97:20210905160607j:image

 

 酒の席まで文学論をやることは、太宰も私も嫌いだ。政治的な時事問題なども面白くない。話はおのずから、天地自然のこと、つまり山川草木のことが主となる。以前に、太宰と近所を歩いて、雀の巣だった銀杏の樹のあたりを通りかかったことがある。今ではその辺は戦災の焼跡になっているが、その銀杏の樹に(かつ)て、数百数千の雀が群がってさえ)ずり、付近の人々は払暁(ふつぎょう)から眼を覚まされたという。その銀杏の樹が五本立ち並んでると私が言ったところ、三本しか見えないと太宰に指摘された。見ると、なるほど三本のようである。豊島さんの話、まったく出たらめで、五本だと言うが、なあに三本しかない、と太宰は大笑いするのだ。酔うとそれが太宰の口癖になった。雌雄の分らない鶏も、酔後の彼の口癖だ。――そんなことで、その日も大笑いした。胸に憂悶があればこそ、こんな他愛もないことに笑い興じるのだ。

 

f:id:shige97:20210905160627j:image

 

 夜になって、臼井君が見えたので、だいぶ賑やかになった。私はもう可なり酔って、どんなことを話したかあまり覚えていない。ただ、私の酔後の癖として、眼の前にいる人の悪口を言ってそれを酒の肴にすることが多いので、(あるい)は臼井君に失礼なことばかり言ったかも知れない。
 臼井君は、酒は飲むが、あまり酔わない。程よく帰って行った。
 太宰も私も、だいぶ酒にくたぶれた。太宰はビタミンB1の注射をする。なんどか喀血したし、実は相当に体力も弱っているので、ビタミン剤などを常に飲んだり注射したりしているのである。注射はさっちゃんの役目だ。勇敢にさっとやってのける。ビタミンB1は、アンプル中の薬液の変質を防ぐために、酸性になされていて、それが可なり肉にしみる。さっちゃんが注射すると、痛い、と太宰は顔をしかめる。
「僕にさしてみたまい。痛くないようにしてみせる。」
 皮下に針をさして、極めて徐々に薬液を注入する。
「どうだ、痛くないだろう。」
「うん。」太宰は頷く。
 そこで私は、終り頃になって、急に強く注射する。
「ち、痛い。」そして大笑いだ。
 さっちゃんは勇敢に注射するが、ただそれだけで、他事はもう鞠躬如(きつきゅうじょ)として太宰に仕えている。太宰がどんなに我儘(わがまま)なことを言おうと、どんな用事を言いつけようと、片言の抗弁もしない。すべて言われるままに立ち働く。ばかりでなく、積極的にこまかく気を配って、身辺の面倒をみてやる。もし隙間風があるとすれば、その風にも太宰をあてまいとする。それは全く絶対奉仕だ。家庭外で仕事をする習慣のある太宰にとって、さっちゃんは最も完全な侍女であり看護婦であった。――家庭のことは、美知子夫人がりっぱに守ってくれる。太宰はただ仕事をすればよかったのだ。
 そういう風で、太宰とさっちゃんとの間に、愛欲的なものの影を吾々(われわれ)は少しも感じなかった。二人の間になにか清潔なものさえ吾々(われわれ)は感じた。この感じは、誤ってるとは私は思わない。だから私は平気で二人を一室に宿泊させるのだった。――その夜も宿泊させた。

 

f:id:shige97:20200831064306j:plain
■「さっちゃん」こと、太宰の愛人・山崎富栄

 

 翌朝、すべての用事をさっちゃんに言いつける太宰が、珍らしく、自分で出かけて行った。だいぶたってから、一束の花を持って戻って来た。白い花の群がっている数本の強い茎を中軸にして、芍薬(しゃくやく)の美しい赤い花が二輪そえてある。
「どうだ、これは僕でなくちゃ分らん、お嬢さんに似てるだろう。」
 さっちゃんを顧りみて太宰は言う。照れ隠しらしい。これだけは自分で買って来たいと思ったのだ。そしてそれを、お嬢さんへと言って私に差出した。
 私たちは残りのウイスキーを飲みはじめた。女手は女中一人きりなので、さっちゃんがまたなにかと立ち働く。そこへ、八雲から亀島君がやって来、筑摩の臼井君もまた立ち寄った。(しばら)くして、太宰は皆に護られて帰っていった。背広に重そうな兵隊靴、元気な様子はしているが、後ろ姿になにか疲れが見える。疲れよりも、憂鬱な影が見える。
 それきり、私は太宰に逢わなかった。逢ったのは彼の死体にだ。――死は、彼にとっては一種の旅立ちだったろう。その旅立ちに、最後までさっちゃんが付き添っていてくれたことを、私はむしろ嬉しく思う。

f:id:shige97:20210905163853j:image
■弔辞を読む井伏鱒二 1948年(昭和23年)6月21日、太宰の自宅で行われた告別式にて。

 【了】

********************
【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
志村有弘/渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
河出書房新社編集部 編『太宰よ! 45人の追悼文集』(河出文庫、2018年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

太宰治39年の生涯を辿る。
 "太宰治の日めくり年譜"はこちら!】

太宰治の小説、全155作品はこちら!】