記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】市井喧争

f:id:shige97:20210214143058j:plain

今週のエッセイ

◆『市井喧争(しせいけんそう)
 1939年(昭和14年)、太宰治 30歳。
 1939年(昭和14年)10月下旬頃に脱稿。
 『市井喧争』は、1939年(昭和14年)12月1日発行の「文藝日本」第一年第六号の「随筆特集」欄に発表された。この欄にはほかに「鳥の随筆」(岡田三郎)、「一章」(山崎剛平)、「残菊物語余談」(花柳章太郎)、「ちぎられる蘆」(清野重郎)、「雑談」(尾崎一雄)が掲載された。

f:id:shige97:20200828074923j:image
■太宰が住んだ三鷹の借家の玄関

市井喧争(しせいけんそう)

 九月のはじめ、甲府からこの三鷹へ引越し、四日目の昼ごろ、百姓風俗の変な女が来て、この近所の百姓ですと嘘をついて、むりやり薔薇を七本、押売りして、私は贋物(にせもの)だということは、わかっていたが、私自身の卑屈な弱さから、断り切れず四円まきあげられ、あとでたいへん不愉快な思いをしたのであるが、それから、ひとつき経って十月のはじめ、私は、そのときの(にせ)百姓の有様を小説に書いて、文章に手を入れていたら、ひょっこり庭へ、ごめん下さいまし、私は、このさきの温室から来ましたが、何か草花の球根でも、と言い、四十くらいの男が、おどおど縁先で笑っている。こないだの贋百姓とは、ちがう人であるが同じたぐいのものであろうと思い、だめですよ、このあいだも薔薇を八本植えられてしまいました、と私は余裕のある笑顔でもって言ったら、その男は、少し顔が蒼くなり、
「なんですか。植えられてしまった、とはどんなことですか。」と急に居直って、私にからんで来たのである。
 私は恐ろしく、からだが、わくわく震えた。落ちつきを見せるために、机に頬杖をつき、笑いを無理に浮べて、
「いいえ、ね、その庭の隅に、薔薇が植えられて在るでしょう? それが、だまされて買ったんです。」
「私と、どんな関係があるんですか? おかしなことを言うじゃないですか。私の顔を見て、植えられたとは、おかしなことを言うじゃないですか。」
 私も、笑わず、
「君のことを言ってるんじゃないよ。先日私は、だまされて不愉快だから、そのことを言っているのですよ。君は、そんな、ものの言いかたをしちゃ、いけないよ。」
「へん。こごとを聞きに来たようなものだ。お互い、一対一じゃねえか。五(りん)でも、一銭でも、もうけさせてもらったら、私は商人だ。どんなにでも、へえへえしてあげるが、そうでもなけれあ、何もお前さんに、こごとを聞かされるようなことは、ねえんだ。」
「それあ、理屈だ。そんなら、僕だって理屈を言うが、君は、僕を訪ねて来たんじゃないか。」誰に断って、のこのこ、ひとの庭先なんかへ、やって来たんだ、と言おうと思ったが、あんまりそれは、あさましい理屈で、言うのを止めた。
「訪ねたから、それがどうしました。」商人は、私が言い(よど)んでいるので、つけこんで来た。「私だって、一家のあるじだ。こごとなんて、聞きたくないや。だまされたなんて言うけれど、こうして植えて、たのしんでいるじゃないですか。」図星であった。私は、敗色が濃かった。
「それあ、たのしんでいる。僕は、四円もとられたんだぜ。」
「安いもんじゃないですか。」言下に反発して来る。闘志満々である。「カフェへ行って酒を呑むことを考えなさい。」失敬なことまで口走る。
「カフェなんかへは行かないよ。行きたくても、行けないんだ。四円なんて、僕には、おそろしく痛かったんですよ。」実相をぶちまけるより他は無い。
「痛かったかどうか、こっちの知ったことじゃないんです。」商人は、いよいよ勢を得て、へへんと私を嘲笑(ちょうしょう)した。「そんなに痛かったら、あっさり白状して断れば、よかったんだ。」
「それが僕の弱さだ。断れなかったんだ。」
「そんなに弱くて、どうしますか。」いよいよ私を軽蔑(けいべつ)する。「男一匹、そんなに弱くてよくこの世の中に生きて行けますね。」生意気なやつである。
「僕も、そう思うんだ。だから、これからは、要らないときには、はっきり要らないと断ろうと覚悟していたのだ。そこへ、君が来たというわけなんだ。」
「はははは、」商人は、それを聞いてひどく笑った。「そういうわけですか。なるほどねえ。」とやはり、いや味な語調である。「わかりました。おいとましましょう。こごとを聞きに来たんじゃないんだからなあ。一対一だ。そっくりかえっていることは無いんだ。」捨てぜりふを残して立ち去った。私はひそかに、ほっとした。
 ふたたび、先日の贋百姓の描写に、あれこれと加筆して行きながら、私は、市井(しせい)に住むことの、むずかしさを考えた。
 隣部屋で縫物をしていた妻が、あとで出て来て、私の応対の仕方の拙劣を笑い、商人には、うんと金のある振りを見せなければ、すぐ、あんなにばかにするものだ、四円が痛かったなど、下品なことは、これから、

おっしゃらないように、と言った。

 

妻から見た『市井喧争(しせいけんそう)

 4円。現在の貨幣価値に換算すると、約4,800~5,900円に相当する薔薇を、自宅の庭に植えられた自身の経験を基に書かれた、今回のエッセイ市井喧争(しせいけんそう)
 エッセイ中に「私は、そのときの(にせ)百姓の有様を小説に書いて」とあるように、このエピソードは、小説善蔵を思うでも描かれています。

 エッセイや小説を読んでいると、コメディのようにも思えますが、実際のこの時の様子を、太宰の妻・津島美知子が記録していました。津島美知子の著書回想の太宰治から引用してみます。

 三鷹移ってからはもう御崎町時代のように酔って義太夫をうなることもなくなり、緊張度が高まったように思う。
 まだこの新開地の環境にも家にもなじまない引越し早々、「善蔵を思う」「市井喧争」に書かれたような小事件があった。あるとき花の苗を売り歩く男が庭に入ってきた、生垣がざっと境界になっているだけで誰でも何時でも庭に入ってこれる。それは郊外でよく見かける行商人で、べつに(にせ百姓というわけではないが、特有の強引さで売りつけて、まごまごしているとそこらに植えてしまいそうな勢である。太宰はまだこの一種の押し売りを相手にしたことがなかったのだろう。机に向かって余念ないとき、突然鼻先に、見知らぬ男が現われたので動転して、喧嘩を売られたような応答をしたので先方もやり返し、険悪な空気になった。結局六本のバラの苗を植えて男は立ち去り、この苗はちゃんと根付いたのであるが、このとき私は太宰という人の、新しい一面を見たと思った。来客との話は文学か、美術の世界に限られていて、隣人と天気の挨拶を交すことも不得手なのである。ましてこのような行商人との応酬など一番苦手で、出会いのはじめから平静を失っている。このとき不意打ちだったのもまずかった。気の弱い人の常で、人に先手をとられることをきらう。それでいつも人に先廻りばかりし取越苦労するという損な性分である。
 私はその後、この一件を書いた小説を読んで、さらに驚いた。あのとき一部始終を私は近くで見聞きしていた。私にとっての事実と太宰の書いた内容とのくい違い、これはどういうことなのだろう。偽りかまことかという人だ――と私は思った。

 太宰が見ていた景色と、妻から見た景色は、少し異なっていたようです。
 「太宰は私小説作家」と呼ばれたりもしますが、事実がどこまで「太宰風」にデフォルメされているのか、思いを巡らせながら作品を読んでみても面白いかもしれません。

f:id:shige97:20210826220713j:image
■太宰と妻・津島美知子

【了】

********************
【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
志村有弘/渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「日本円消費者物価計算機
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

太宰治39年の生涯を辿る。
 "太宰治の日めくり年譜"はこちら!】

太宰治の小説、全155作品はこちら!】