記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】3月8日

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3月8日の太宰治

  1948年(昭和23年)3月8日。
 太宰治 38歳。

 前日3月7日から、眺望のいい起雲閣別館に滞在。3月8日から、外部との交渉を断って、「人間失格」の執筆に専念した。「山のテッペンでカンヅメには好適」の場所であった。

起雲閣で『人間失格』の執筆開始

 前日の3月7日、太宰は筑摩書房の創業者で初代社長の古田晁(ふるたあきら)(1906~1973)の計らいで、人間失格執筆のため、熱海の起雲閣に向かいます。

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筑摩書房の創業者、古田晁

 この頃の太宰は、斜陽がヒットして流行作家となり、ファンやマスコミの来客が多かったため、三鷹にいては執筆に支障が出る、との配慮から、古田は太宰を熱海・起雲閣へ連れていきました。古田は、作家が執筆するために最適な環境を提供することが得意でした。

 3月7日、熱海・起雲閣へ向かう時の様子を、太宰の愛人・山崎富栄が日記に記しています。

三月七日

 東京発十二時四十分、熱海行。カンヅメ。太宰さん。私。古田さん。セレエヌのマダム。石井さんの五人。
 熱海銀座を眼下に、眺望のいい起雲閣へ登る。どうも、どうも、山の上だけあって全く「登る」です。桜井兵五郎の別荘だったのを、旅館にした由なので、一寸不便に思われるところもある。今度の旅行は、古田さんに一人ぶんのご迷惑をおかけしていて申し訳ないと思っている。
 海岸通りの本館から支配人の吉田さんがみえてひとしきり賑う。

 「セレエヌのマダム」は、神保町のバーのマダムで古田の知人、太宰や富栄とも顔見知りの間柄。「石井さん」は、筑摩書房編集部員の石井立です。

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■太宰と知り合った頃の山崎富栄

 起雲閣は、1919年(大正8年)に桜井兵五郎別荘として築かれ、「熱海の三大別荘」と賞賛された名邸を、1947年(昭和22年)に旅館として建て替えたもので、山本有三志賀直哉谷崎潤一郎舟橋聖一武田泰淳など、日本を代表する文豪たちも訪れた場所です。
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 太宰は、奥さんの津島美知子に宛てた3月10日付のハガキに、起雲閣滞在の様子を次のように記しています。

  熱海市咲見町林ヶ久保 起雲閣別館より
  東京都下三鷹下連雀一一三 津島美知子宛

前略 表記にいて仕事しています。十九日夜にいったん帰り、二十一日にまたここで仕事をつづけます。ここは山のテッペンでカンヅメには好適のようです。留守お大事に、急用あったらチクマへ。     不一。

 連日のように押しかけて来るファンやマスコミの姿もなく、太宰にとっても、「カンヅメには好適」な場所だったようです。
 ここ起雲閣には、途中に2日間の帰京を挟みながら、3月31日までの約20日間滞在。『人間失格』の「第二の手記」までを脱稿します。

 最後に、3月8日付の富栄の日記を引用します。

三月八日

 今日は帰ると仰言っていられたので御見送り方々下へおりる。「常春」で美味しい(私には少し濃すぎる)コーヒーを飲み、ウィスキーを召され、私達だけ山へ帰る。古田さんは本館へ宿泊の由。夜、石井さん、二重マントを持ってきて一泊。

●『人間失格』執筆時の太宰については、こちらの記事でも紹介しています!

 【了】

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【参考文献】
・山崎富栄 著・長篠康一郎 編纂『愛は死と共に 太宰治との愛の遺稿集』(虎見書房、1968年)
・片山英一郎『太宰治情死考 ●―富栄のための れくいえむ』(たいまつ社、1980年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「熱海市公式ウェブサイト」(https://www.city.atami.lg.jp/shisetsu/location/1003194/1003202.html
 ※画像は、上記参考文献より引用しました。
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