記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】2月25日

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2月25日の太宰治

  1945年(昭和20年)2月25日。
 太宰治 35歳。

 「雪天の大空襲」があり、桜井書店主桜井均宛葉書によれば、「ガラス一枚、米機にこはされました 大いにテキガイ心に燃えました」とあるが、これは桜井毅がいうように「太宰さんらしいパロディめいた表現で、一家の窓ガラスは一枚も壊れていなかった」のであろう。

太宰が住んだ街、三鷹

 太宰は、1939年(昭和14年)9月1日に三鷹の住人になりました。当時の三鷹は、まだ三鷹村。移住から半年経たないうちに、町制が施工されて三鷹町になりますが、三鷹は農村地帯で、太宰の自宅の庭からは麦畑が一望できたといいます。

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■町制施工稟議書(1940年(昭和15年)2月5日)。太宰転居の翌年2月11日、三鷹は村から町になった。

 太宰は、転居してから、1948年(昭和23年)6月13日未明に、自宅から近い玉川上水に身を投じるまで、途中、甲府と故郷の津軽疎開した1年6ヶ月を除いて、約8年間を三鷹で過ごします。
 太宰にとって三鷹は、師匠・井伏鱒二が住む荻窪、出版社が集まる神田や新宿、妻の実家である甲府に中央線一本で行けるなど、利便性に富んだ街でした。当時の人口は、21,000人。1930年(昭和5年)に開設された中央線三鷹駅(当時は鉄道省管轄だったため、「省線」と呼ばれていた)が翌年で10年目を迎える、そんな年に太宰は、自身の住居を三鷹に定めました。
 当時の駅前は、日用雑貨、薬、酒屋、小料理屋など、こじんまりした店が軒を並べ、狭いながら商店街を形成し、駅前特有の雰囲気をつくっていたそうです。太宰が足を運んだ小料理屋の喜久屋や三鷹薬局、桜通りにはウイスキーの小瓶を買った伊勢元酒店(現在の太宰治文学サロン)などの店が見られ、三鷹駅前付近は農村から都市へと発展していく途上で、1941年(昭和16年)1月には、三鷹駅北口も開設される、そんな時期でした。
 さて、麦畑広がる三鷹の街が、なぜ戦時中に空襲の対象となってしまったのか。三鷹の歴史を簡単に追いかけながら見ていきたいと思います。

 現在、三鷹市武蔵野市を二分するように伸びている中央線。三鷹村に駅が開設されたのは、1930年(昭和5年)6月25日でした。南側のみに乗降口を備えた、今の賑わいからは想像もできないような小さな駅舎だったそうです。

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■開設当時の三鷹駅南口

 駅の開設に伴う人口増加によって街が形成され、交通網も整備されていきました。駅の開設と同年、吉祥寺と調布を結ぶ武蔵野バスが三鷹を経由するようになり、1933年(昭和8年)には、帝都線(現在の京王井の頭線三鷹台駅井の頭公園が開設されました。その後、飛田飛行機製作所・三鷹航空が創業。1937年(昭和12年)には、日本無線電話株式会社の転入に伴い、数々の製作所が三鷹に移転。1939年(昭和14年)には、三鷹の行く末を左右する中島飛行機武蔵野製作所」下請工場の共栄製作所が創業します。

 中島飛行機は、1917年(大正6年)12月に創設された、中島飛行機研究所(1918年(大正8年)12月から中島飛行機製作所、1931年(昭和6年)12月から中島飛行機株式会社)は、9名の従業員でスタートしましたが、その30年後には20万人を超える従業員を抱え、航空機の分野で、三菱重工と肩を並べるまでに急成長を遂げます。
 創業者の中島知久平は、欧米に遅れをとる航空技術に追いつこうと、たった一代で、この製作所を築きました。財閥の三菱は、明治時代から重工業の実績がありましたが、それとは対照的に、中島はゼロから出発した民間企業でした。そして、1938年(昭和13年)3月、陸軍発動専門工場として、武蔵野製作所を新設します。

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中島飛行機の社章

 中島飛行機をはじめ、工業化の一端を担う数々の企業が連れ立って、三鷹を拠点に始動していきました。

 太平洋戦争が勃発する以前から、国民の生活は徐々に困窮を極めていきました。太宰が三鷹に転居する約半年前に、米穀配給統制法が公布され、1941年(昭和16年)4月には生活必需品などの物資に対する統制令も発令され、その厳しさは増していくばかりでした。三鷹も、軍需産業による出稼ぎなどで人口が増加し、町民の生活は窮するばかりでした。

 三鷹中島飛行機の研究所(跡地の一部が、現在の国際基督教大学)創設がはじまったのは、1941年(昭和16年)12月8日、真珠湾攻撃の直後でした。戦況は加速し、この研究所を軸に軍需工場や研究施設が整備され、三鷹「一大軍需工業地帯」と呼ばれるまでの変貌を遂げ、同時に米軍の重点爆撃標的地となりました。
 1944年(昭和19年)1月、中島飛行機は、軍需省航空兵器局の管轄下で第一次指定を受け、軍の全面指揮下となります。

 この頃、町会・隣組などの組織化も目まぐるしく進展し、防空訓練を実施して、時に配給を分け合うなど、戦時下における町内との関わりは重要性を高めていきました。太宰も、1944年(昭和19年)10月から、翌年3月まで、隣組長、防火群長に就任し、早朝からの召集を3度受け、遠く国民学校まで赴いて軍事訓練を受けています。また、同年、井の頭恩賜公園の杉15,000本が、軍部の指令により、空襲犠牲者の棺をつくる材料として伐採されています。

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■出征兵士を送る。1942年(昭和17年)頃。

 中島飛行場は、1945年(昭和20年)3月2日、第一軍需工廠(こうしょう)に指定され、、同年4月1日、企業国営化第一号となります。しかし、同年8月15日。日本の無条件降伏、終戦に伴い、中島飛行機は解散。航空技術で世界への飛翔を夢見た民間企業は、その歴史に幕を閉じました。

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 今回の記事を執筆するにあたり、かなりの分量を上写真の太宰治三鷹とともに ー太宰治没後70年ー』と、相原悦夫太宰治三鷹時代』から引用させて頂きました。この場を借りて、お礼申し上げます。
 ちなみに、相原悦夫氏は、現在、「みたか井心亭(せいしんてい)」にある太宰ゆかりの「百日紅(さるすべり)」移植に携わり、三鷹市太宰治文学サロン開設と共に3年間、管理責任者を務められた方です。

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●太宰ゆかりの「百日紅」 2011年、著者撮影。

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・公益財団法人三鷹市スポーツと文化財団 編集・発行『平成三十年度特別展 太宰治 三鷹とともに ー太宰治没後70年ー』(2018年)
・相原悦夫『太宰治三鷹時代』(文芸社、2018年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※画像は、上記参考文献より引用しました。
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