記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】6月18日

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6月18日の太宰治

  1941年(昭和16年)6月18日。
 太宰治 31歳。

 六月十八日付で、小山清(こやまきよし)にハガキを送る。

小山清にとってのLast man

 小山清(こやまきよし)(1911~1965)は、太宰の弟子です。戦時中、太宰が甲府や金木に疎開した際、三鷹陋屋(ろうおく)で太宰の留守宅を守っていました。

 まずは、1941年(昭和16年)6月18日に、太宰が小山に宛てて書いたハガキを引用してみます。

  東京府三鷹下連雀一一三より
  東京市下谷区龍泉寺町三三七 
   読売新聞出張所内 小山清

 貴稿は拝読いたしました。一、二箇所、貴重な描写がありました。恥じる事はありません。後半、そまつ也。目茶だ。次作を期待しています。雰囲気や匂いを意識せず、的確という事だけを心掛けるといいと思います。
(それから、人間は皆、醜態のものですよ)

 小山と太宰が出会ったのは、1940年(昭和15年)。小山が29歳の時。
 新聞配達の傍ら、文筆活動に励み、新聞の消息欄に載っていた三鷹の住所を頼りに、自作原稿を携えて太宰宅を訪ねました。太宰は、小山の原稿に目を通しては、丁寧に批評していました。

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小山清

 小山から見た「師匠・太宰治について、小山の回想『最後の人 -師・太宰 治-』から引用して紹介します。

 私は太宰さんと会って、太宰さんの人柄が、またその生活が、作品と一枚のものであることを知った。太宰さんは私が作品を読んで想像していたとおりの人であった。私は自分の心が満されるのを感じた。私はなにか書けると太宰さんのもとに持参して読んでもらい、また辛くなると太宰さんの顔を見に出かけた。そして太宰さんに親灸するにつれ、私もまた、「この人が生きている間は、自分は孤独ではない。」と思った。その後、田中英光君に会ったとき、田中君は、「太宰さんは傘張剣法だから好きさ。」と云った。私が太宰さんは僕たちにとってLast manだと云ったら、田中君はLost manだと訂正した。

 

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田中英光

 

三鷹へ行くと、いつも帰りは終電間際になった。私は酒は呑めなかったが、それでも太宰さんは私を連れて、駅前にある呑み屋をあちこち呑み歩いた。私は真赤な顔をして、太宰さんにくっついて歩いた。別れ際には、太宰さんはいつも私を元気づけるようなことを云ってくれた。しょんぼりしている私に喝を入れてくれた。私の手を握って、「僕の友人として恥ずかしくない者になれ。」と云ったこともある。花屋でアザミの花束を買ってくれたこともある。また、古本屋で本を買ってくれたこともある。私は太宰さんに勧められて、はじめて「クオ・ヴァディス」を読んだ。古本屋の棚にあったその本を、太宰さんは買ってくれたのである。また、私が佐久良東雄の歌集を立読みしていたら、太宰さんは欲しいかと訊き、私がうなずくと、買ってくれた。

 

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私は臆病な人見知りをする性質でなかなか人になじめないのだが、けれども太宰さんに対しては心から甘えることが出来た。太宰さんが亡くなった当時、別所直樹君が「川歌」という追慕の詩を発表したが、あれには太宰さんの肌の匂いのことが書いてあった。――侘しい時には何時でも来い。私もまた、暗い夜々を、太宰さんの肌の匂いになぐさめられてきたのである。
  (中略)
 私は太宰さんから絶えず激励を受けながらも、怠けてばかりいて読んでもらった原稿も全部で十篇に満たない。「聖アンデルセン」の原稿を読んでもらったときには、太宰さんはこんな葉書をくれた。「こんどのは前作にくらべて、その出来栄は、たいへんよいと思います。ところどころに於いて感心し、涙ぐんだ箇所も一箇所ありました。御自重ねがいます。自作の百枚を期待しています。私は、君に対しては、たいへん欲が深く、なかなか満足しないつもりです。一生に一度の覚悟で、百枚に打ち込んでみて下さい。かならず傑作が出来る。」

 

 小山は、職業安定所での募集に応じ、1947年(昭和22年)1月29日、約2年間を過ごした三鷹の太宰宅を離れ、炭鉱夫として夕張炭鉱で2年ほどの歳月を過ごします。太宰は、この時期に亡くなってしまいますが、小山が夕張から戻った後、太宰に預けていた原稿が売れるようになり、1952年(昭和27年)に「文學会」に発表した『小さな町』や、「新潮」に発表した『落穂拾ひ』など、清純な私小説で、作家としての地位を確立。1951年(昭和26年)に『安い頭』が第26回芥川賞候補に、1952年(昭和27年)に『小さな町』が第27回芥川賞候補に、1953年(昭和28年)に『をぢさんの話』が第30回芥川賞候補に挙げられるなど、何度も芥川賞候補に名前を連ねました。

 太宰は、妻の津島美知子に、小山のことを次のように話していたそうです。

 太宰さんの死後、奥さんから、その頃太宰さんが私のことをこんなふうに云っていたということを聞いた。「まだあいつ二十三、四かほんとうに若いんだよ。いゝものを書くやつだからお前も覚えておけ。」

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 【了】

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【参考文献】
・『太宰治研究 4』(審美社、1963年)
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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