記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】5月6日

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5月6日の太宰治

  1940年(昭和15年)5月6日。
 太宰治 30歳。

 五月六日付で、平岡敏男(ひらおかとしお)宛に手紙を送る。

「昔の恩義を忘れず」

 平岡敏男(ひらおかとしお)(1909~1986)は、北海道旭川の生まれ。太宰の通っていた弘前高等学校の1年先輩です。太宰が習作哀蚊(あわれが)を発表した「弘高新聞」への参加を誘ったのが、平岡でした。
 東京帝国大学経済学科を卒業後、毎日新聞東京本社に入社。論説委員、ロンドン支局長などを務め、1976年(昭和51年)に朝日新聞社の社長に就任しています。

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■1929年(昭和4年)、「弘高新聞」雑誌部先輩送別会 前列右から堀内教授(文芸部顧問)、太宰、国枝教授(演劇部顧問)、平岡敏男。後列右より広瀬秀雄、上田重彦(のちの石上(いそのかみ)玄一郎(げんいちろう))、1人おいて、吉兼政秀、小林伸夫、津久井信也。

 それでは、太宰が平岡に宛てて書いた手紙を引用してみます。

  東京府三鷹下連雀一一三
  東京市杉並区天沼三ノ五八五 平岡敏男宛

 拝啓。
 先日は、愚著に対して、過分のお言葉下され、恐縮赤面致し居ります。いちど、おたずねして、おわびやら何やら、つもる事も申し上げるつもりで居りました。そう心にかけながらも、何やかやとその日暮しに追われて、きょうまで、ごぶさた申しておりました。どうか、おゆるし下さい。
 上田重彦君から五年まえの病気の時に、お借りしたものも、まだ、そのままになって居りますし、毎日心にせめられながらも、どうにもならず、たまにお金がはいっても、つい手近かなところから支払いをはじめて、仲々にままならぬ事ばかりで、きょうまで、上田君には、もとより、仲へはいって下さった大兄に対しても、とても合わせる顔が無いのでした。いまは何も、女々しい言いわけは、申しませぬ。私がいけないのですから、どうか、おゆるし下さい。たまに原稿料、印税が、はいっても生活のほうにまわってしまって、一ぱいだったのですが、先日、故郷のほうから、少しばかりお小使いをもらいましたから、同封の額だけお送り致します。どうか、大兄から、上田君にお手数でも、送って下さい。
 いまさら、お返しするのも、たいへん失礼な、ぶしつけな事で、私も、以前から、お返しするのは、やめにして、そのかわり、いつまでも昔の恩義を忘れず、後年に於いて、もっと大きな事でお返ししようとも思っていた事でしたが、でも又、考え直して、自分では固くそのつもりでいても、先方には、その心通ずるわけも無いのですし、いま、かりに、失礼をもかえりみず、とにかくこれだけはお返しして、こちらの心底もわかってもらって、後はまたその後の事だ、というような気持にもなりましたから、ほんとうに、今更お返しして、へんな、ぶしつけなものですが、決してこちらは「返せばそれでいいだろう」等という非礼な気持では、無いのですから、そこのところも上田君に、よろしくおっしゃって下さい。(おっしゃるのが、ごめんどうでしたら、この不文を同封して上田君へお送りになってもかまいませぬ)上田君も、いまさら受け取るのは、いやでしょうけれど、そこは、がまんをして、目をつぶって、受け取って下さるよう、私も切望して居ります。どうか、よろしくお願い致します。ひどく、しどろもどろの手紙になりました。ウソでなく、汗を拭き拭き書いて居ります。どうか、意の在るところを御賢察下され、上田君によろしくお願い申します。私もいまは、努めてじみな、精進をつづけて居ります。流行作家には、なりたくありませぬ。つつましく、永く頑張りつづけてゆくつもりであります。
              太 宰 治 拝
  平岡敏男様
   なお、上田君の御住所は、御存知でしょうが、中野区小瀧町三東中野アパート石上玄一郎であります。

 手紙に登場する「上田君」とは、上田重彦(1910~2009)のこと。太宰の弘前高等学校時代の同級生で、のちの作家・石上(いそのかみ)玄一郎(げんいちろうです。
 どうやら平岡は、太宰と上田のパイプ役となっていたようです。

 「五年まえの病気の時」とは、1935年(昭和10年)4月、太宰が急性虫様突起炎と汎発性の腹膜炎を併発し、術後の患部の疼痛鎮静のためにパビナール注射を受けたところ、中毒になってしまった時のことです。

 太宰は、パビナールを購入するための資金が足りなくなると、友人・知人に宛てて、お金の無心をする手紙を書いており、4月17日の記事では、フランス文学者の淀野隆三(よどのりゅうぞう)に宛てた手紙を紹介しました。

 この時の太宰について、平岡が『焔の時灰の時』に書いているので、引用して紹介します。

 このころが太宰の生涯のうちでも、もっとも苦悩の深かった時期である。そのうえにパビナール中毒期に、あちらこちらで借りた金が容易に返せなかった。私に対する釈明は上田(重彦君)すなわちペンネーム石上玄一郎からの借金三十円の返済催促にたいする取りなしの依頼である。
 後年出てきた太宰の借金メモによると、実にきちょうめんに相手の名前と金額とを書いている。当時のカネとしては、相当の総額になるのだ。どういういきさつで、太宰が石上から借りたのか私は知らない。ただ、あるとき石上から太宰の不義理を強く訴えられて、私がこのことを太宰に通じたのである。もちろん石上にとっても三十円という金は小さいものではなかったはずだ。ただ不思議なことは、私自身は、太宰から一度も無心されたことがないのである。そのころ、私は毎日新聞につとめて五年ほどになっていたが、ふたりの子供や母や妹を抱えて四苦八苦の生活をしていたことを、かれは知っていたせいかもしれない。

 「借金三十円」は、現在の貨幣価値に換算すると、約5~6万円となります。

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■パビナール購入簿

 【了】

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【参考文献】
・平岡敏男『焔の時灰の時』(毎日新聞社、1979年)
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「日本円貨幣価値計算機」(https://yaruzou.net/hprice/hprice-calc.html
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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