記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】2月8日

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2月8日の太宰治

  1931年(昭和6年)2月8日。
 太宰治 21歳。

 二月頃、心中事件で警察沙汰を起こした後、修治を敬遠していた工藤永蔵が、「神田駅附近のアパート」を訪れ、「学生運動や青年運動から手を切ること、殊に全協などの人と接触しないよう」注意した。

太宰と工藤永蔵

 工藤永蔵(くどうえいぞう)(1906~1998)は、青森中学・弘前高校での太宰の3年先輩にあたり、1930年(昭和5)年当時の日本共産党中央委員長兼政治局の田中清玄(たなかせいげん)(1906~1993)とは、弘前高校での同級生でした。工藤は田中の指示により、上京してくる弘前高校出身者の中から、日本共産党の新規支持者を作ることや、機関紙「赤旗」の印刷担当をしていました。
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■工藤永蔵。長篠康一郎『太宰治文学アルバムー女性篇ー』より。

 太宰は、工藤のすすめで、1930年(昭和5年)4月頃に共産党のシンパ活動に参加するようになります(左翼運動)。太宰は工藤から「学内の組織に入り、マルクス・レーニン主義を学習すること、青森県の進歩的学生の組織に入って、指導していくこと、共産党のために資金その他の援助をしていくこと」をすすめられ、以後毎月10円の資金カンパ(現在の約2万円程度)を承諾したり、太宰の部屋を左翼活動のためにたびたび貸し与えることを承諾しています。
 1931年(昭和6年)の「赤旗」三月十五日号は、太宰の五反田の家で印刷されています(およそ400部)。
 工藤は1931年(昭和6年)9月、戸塚のグラウンドで会合のための集合中、警察により治安維持法で逮捕されました。その後、当時の豊多摩刑務所に入れられましたが、太宰は、工藤の入獄中にも毎月5円(現在の約1万1千円程度)の差し入れを1年程続けていました。

 さて、記事冒頭の「心中事件で警察沙汰を起こした」とは、1930年(昭和5年)11月28日に起こした、銀座のバー「ホリウッド」の女給・田辺(たなべ)あつみとの心中事件のこと。太宰はこの事件で自殺幇助(ほうじょ)罪に問われるも、最終的には起訴猶予となります。この事件は、新聞等でも報道されたため、注目されることを恐れた工藤は、太宰を敬遠していました。
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■心中事件を報じた「東奥日報」。1930年(昭和5年)11月30日付。

 ひと段落ついた頃、工藤は再び太宰の元を訪れ「学生運動や青年運動から手を切ること、殊に全協などの人と接触しないよう」注意するのですが、なぜ、自ら左翼運動からの脱退を太宰にすすめたのでしょうか。

 実は、家を共産党関係の幹部の宿泊先、会合場所、連絡所などに使用するため、目立った行動を禁止するためなのです。
 当時のアジト提供者は、共産党の活動と日常的な繋がりを持たず、それでいて共産党に好意を持ち、危険をある程度覚悟しながら支持する、非党員の家だったそうです。
 接触することを強く禁じた「全協」とは、日本労働組合全国協議会の略称です。

 この頃の太宰は、最初の妻・小山初代(おやまはつよ)との新婚生活をはじめたばかり。工藤と接触して間もなく、狭いアパートから荏原郡えばらぐん大崎町五反田の島津家の分譲地に新築されたばかりの二階建ての広い一軒家に転居します。階下二間、二階二間の借家で、家賃30円(現在の約7万円)。この後、共産党員にアジトを提供するため、初代と共に転居を繰り返す時期が続いていきます。

 1月9日更新の記事でも「太宰と左翼運動」と題し、太宰と左翼運動との関わりについて紹介しています。

 【了】

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【参考文献】

・長篠康一郎『太宰治文学アルバムー女性篇ー』(広論社、1982年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「日本貨幣価値計算機
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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