3月12日の太宰治。
1936年(昭和11年)3月12日。
太宰治 26歳。
第二回(昭和十年下半期)芥川龍之介賞決定。該当者なし。済生会芝病院退院「約一ヶ月後再ビ最初ハ船橋ノ某医ニヨリパビナール・アトロピン注射ヲハジメ(皮下)間モナク自ラ注射」するようになったという。
太宰のパビナール中毒
1935年(昭和10年)4月、急性虫様突起炎と汎発性の腹膜炎を併発。手術後、患部の疼痛鎮静のため、ほとんど毎日、医師からパビナール(麻薬性鎮痛鎮咳剤、正式名:日本薬局複方ヒコデノン注射液)注射を受けたところ、中毒になってしまいます。
当時の広告を見ると、「モルヒネ、コデインに代り、然かも習慣性其他の副作用を著しく軽減し、作用は強力にして発現迅速なり。モルヒニスムに応用して効果を収む。」と書かれています。
退院後も、自らパビナールを注射するようになり、日々その本数は増加。所持金が足りなくなって、お金の無心をする手紙を書いたりもしています。
ちょうどその頃、行われていた第二回芥川賞の選考。
冒頭で、済生会芝病院退院の「約一ヶ月後再ビ最初ハ船橋ノ某医ニヨリパビナール・アトロピン注射ヲハジメ(皮下)間モナク自ラ注射」と紹介した中に登場する「某医」とは、長直登病院を経営する医師・
■長直登病院跡(2013年撮影)
「某医」長直登が名刺の裏に記入捺印した処方により、長直登病院から東へ約400メートルの船橋町五日市上宿533番地にあった川奈部新之助が経営する川奈部薬局の長男・川奈部真左雄から、直接に薬品を購入していたと思われます。
■川奈部薬局(2013年撮影)
やがて、薬品の購入先は川奈部薬局から船橋薬局に変えられ、船橋薬局から通帳によるツケでの直接購入が、1936年(昭和11年)10月の東京武蔵野病院入院直前まで続きました。
「御通」と表紙にある、ツケの記録が記された通帳の裏表紙中央には「津島様」と書かれ、その下方に押されたゴム印には「船橋町九日市中宿/船橋薬局/電話四百二十四番」とあります。
船橋薬局の正式な所在地は、船橋町九日市1616番地で、経営者は
■太宰治旧居跡(2013年撮影)
■船橋薬局パビナール購入簿
1936年(昭和11年)7月1日~10月26日までつけられた、薬品(主にパビナール)の「ツケ払い」通帳。「五」「六」等とあるのがパビナールの本数。太宰の没後に購入簿の分析を試みた妻・美知子による集計では、購入数は7月に544本、8月に526本、9月に488本、10月に406本。記録中、最後のパビナール購入日である10月13日に、太宰は武蔵野病院に入院しました。
【了】
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【参考文献】
・中野嘉一『太宰治―主治医の記録』(宝文館叢書、1980年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・『生誕105年 太宰治展―語りかける言葉―』(神奈川近代文学館、2014年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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