記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】3月13日

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3月13日の太宰治

  1930年(昭和5年)3月13日。
 太宰治 20歳。

 東京帝国大学の入学者選抜試験を受験。

太宰の東大受

 太宰は、東京帝国大学文学部仏蘭西(フランス)文学科の入学者選抜試験を受けるために上京、本郷区森川町の下宿屋に宿を取ったそうです。
 太宰は、『東京八景』の中で、仏蘭西(フランス)文学科を志望した理由を、以下のように書いています。

 私は昭和五年に弘前の高等学校を卒業し、東京帝大の仏蘭西文科に入学した。仏蘭西語を一字も解し得なかったけれども、それでも仏蘭西文学の講義を聞きたかった。辰野隆(たつのゆたか)先生を、ぼんやり畏敬(いけい)していた。

  辰野隆(たつのゆたか)(1988~1964)は、フランス文学者で、東京帝国大学教授として、多くの後進を育てました。はじめて本格的にフランス文学を日本に紹介した人物でもあります。

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辰野隆 1955年(昭和30年)撮影。

 自身の作品の中で、辰野隆(たつのゆたか)先生を、ぼんやり畏敬(いけい)していた」ことを志望理由としており、「仏蘭西文学の講義を聞きたかった」と書く太宰ですが、実は「中退しても仏文科の方がイキだ」と思ったのが、本当の志望理由だと言われています。
 弘前高校で太宰の1年先輩だった平岡敏男(ひらおかとしお)(1909~1986)は、『学生時代の太宰治に、以下のように記しています。

 津島は、昭和五年に、東大の仏文科へはいった。フランス文学に、かれが特に深い関心を寄せているという気配は、まったく見えなかったのだが、おそらく、その年の仏文科が無競争、無試験で入学できそうに思われたので、志望したのであろう。ところが、いざとなると試験があった。


 東京帝国大学の入学者選抜試験は、3月13日~15日の3日間にわたって行われました。試験の実施スケジュールは、以下の通り。

3月13日
 国語(10時~12時)
 漢文(13時~15時)
3月14日
 外国語(10時~12時)
  ※英、独、仏から1つを選択。
 身体検査(13時~)
3月15日
 特別試験(10時~12時)
 身体検査(13時~)

 15日の「特別試験」は、一般試験に対して各志望学科で実施する、やや専門的な試験で、各科の意向によって決定されました。この年の仏蘭西文学科では、「仏文和訳」と「仏蘭西語作文」が出題されました。

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■1930年(昭和5年)、東京帝国大学仏文科1年生の太宰。

 太宰は、特別試験の試験場で、「僕にはフランス語はできません。英語の答案を出しておきますが、試験は合格さして下さい。」と監督者に伝えました。これを聞いた他の受験生たちは、騒々しい喚声をあげたそうです。太宰と同じ弘前高校出身の仏蘭西文学科受験者で、「あまり勉強家とはいえないスポーツマン」の三戸斡夫(さんのへみきお)も、手を挙げて監督者に同様の事情を訴えたといいます。
 特別試験の監督者をしていた助教授・辰野隆は、困惑して、嘆願書を書くように勧めます。嘆願書を受け取った辰野は、苦笑いしながら、太宰をパスさせたそうです。

 東京帝大に入学した太宰が、聞きたかったという「仏蘭西文学の講義」を聞いて大学を卒業できたかどうかについては、1月24日の記事で紹介していますので、そちらをご覧ください。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治研究 臨時増刊』(1963年、審美社)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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