記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】10月5日

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10月5日の太宰治

  1938年(昭和13年)10月5日。
 太宰治 29歳。

 十月六日付発行の「国民新聞」に「富士に就いて」を発表。

『富士に就いて』

 今日は、太宰のエッセイ『富士に就いて』を紹介します。
 『富士に就いて』は、1938年(昭和13年)10月6日発行の「國民新聞」第一六八三五号の第一面「随想」欄に発表されました。「國民新聞」は、徳富蘇峰(とくとみそほう)(1863~1957)が、1890年(明治23年)に創刊した日刊新聞。1942年(昭和17年)9月30日に廃刊以降、「都新聞」と合同し、「東京新聞」として、現在も継続発行されています。

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徳富蘇峰 明治から昭和戦後期にかけてのジャーナリスト、思想家、歴史家、評論家。「國民新聞」を主宰し、大著『近世日本国民史』を著したことで知られる。

『富士に就いて』

 甲州の御坂峠の頂上に、天下茶屋という、ささやかな茶店がある。私は、九月の十三日から、この茶店の二階を借りて少しずつ、まずしい仕事をすすめている。この茶店の人たちは、親切である。私は、当分、ここにいて、仕事にはげむつもりである。

 

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■御坂峠の天下茶屋

 

 天下茶屋、正しくは、天下一茶屋というのだそうである。すぐちかくのトンネルの入口にも「天下第一」という大文字が彫り込まれていて、安達謙蔵、と署名されている。この辺のながめは、天下第一である、という意味なのであろう。ここへ茶店を建てるときにも、ずいぶん烈しい競争があったと聞いている。東京からの遊覧の客も、必ずここで一休みする。バスから降りて、まず崖の上から立小便して、それから、ああいいながめだ、と讃嘆の声を放つのである。
 遊覧客たちの、そんな嘆声に接して、私は二階で仕事がくるしく、ごろり寝ころんだまま、その天下第一のながめを、横目で見るのだ。富士が、手に取るように近く見えて、河口湖が、その足下に冷く白くひろがっている。なんということもない。私は、かぶりを振って溜息を吐く。これも私の、無風流のせいであろうか。

 

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 私は、この風景を、拒否している。近景の秋の山々が両軸からせまって、その奥に湖水、そうして、蒼空に富士の秀峰、この風景の切りかたには、何か仕様のない恥かしさがありはしないか。これでは、まるで、風呂屋のペンキ画である。芝居の書きわりである。あまりにも注文とおりである。富士があって、その下に白く湖、なにが天下第一だ、と言いたくなる。巧みすぎた落ちがある。完成し切ったいやらしさ。そう感ずるのも、これも、私の若さのせいであろうか。

 

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天下茶屋の人たち

 

 所謂「天下第一」の風景にはつねに驚きが伴わなければならぬ。私は、その意味で、華厳の瀧を推す。「華厳」とは、よくつけた、と思った。いたずらに、烈しさ、弱さを求めているのでは、無い。私は、東北の生れであるが、咫尺(しせき)を弁ぜぬ吹雪の荒野を、まさか絶景とは言わぬ。人間に無関心な自然の精神、自然の宗教、そのようなものが、美しい風景にもやはり絶対に必要である、と思っているだけである。
 富士を、白扇さかしま(、、、、)など形容して、まるでお座敷芸にまるめてしまっているのが、不服なのである。富士は、溶岩の山である。あかつきの富士を見るがいい。こぶだらけの山肌が朝日を受けて、あかがね色に光っている。私は、かえって、そのような富士の姿に、崇高を覚え、天下第一を感ずる。茶店羊羹(ようかん)食いながら、白扇さかしま(、、、、)など、気の毒に思うのである。なお、この一文、茶屋の人たちには、読ませたくないものだ。私が、ずいぶん親切に、世話を受けているのだから。

  太宰は、1938年(昭和13年)9月13日から11月16日までの約3ヶ月間、師匠・井伏鱒二の勧めで、御坂峠の頂上にある天下茶屋に滞在しました。荒んだ20代を精算し、改めて作家として身を立てていこうと火の鳥執筆に専念したり、石原美知子とのお見合いをしたりと、太宰はここで、健康的な生活へ向けての一歩を踏み出しました。
 太宰が「この一文、茶屋の人たちには、読ませたくない」という、3ヶ月間お世話になった「茶屋の人たち」については、9月13日の記事で紹介しています。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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