記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を、自由に旅する。太宰治が、ソウルフレンド。

【日めくり太宰治】7月3日

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7月3日の太宰治

  1940年(昭和15年)7月3日。
 太宰治 31歳。

 静岡県賀茂郡上河津村の湯ケ野温泉に着いて旅館福田屋(福田家)に宿をとり、その二階の六畳間で「東京八景」の稿を起こした。

湯ケ野温泉「福田屋」での執筆

 1940年(昭和15年)7月3日、太宰は「大判の東京明細地図」を携え、東京駅を午後0時5分に出発する米原行き713列車で熱海まで行き、熱海で伊東線に乗り換えて、伊東から東海自動車東海岸線下田行きの路線バスに乗り、河津沿いにある小さな温泉地、静岡県賀茂郡上河津村の湯ケ野温泉に着いて、「福田屋」に宿をとり、その2階の六畳間で東京八景の稿を起こしました。
 当時の福田屋の宿帳には、万年筆書きの太宰の自筆で「七月三日(前夜宿泊地)自宅。(住所)東京府三鷹下連雀一一三。(職業)文筆。(氏名)太宰治。男三十二」と書いてあるそうです。

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 福田屋は、川端康成伊豆の踊子の舞台となった旅館で、現在の住所は、静岡県賀茂郡河津町湯ケ野236です。

 太宰は、この福田屋で、それまでの10年間の東京生活を回顧した小説東京八景を執筆します。太宰は東京八景の冒頭で、この地を選んだ理由や福田屋について書いているので、引用して紹介します。

 伊豆の南、温泉が湧き出ているというだけで、他には何一つとるところの無い、つまらぬ山村である。戸数三十という感じである。こんなところは、宿泊料も安いであろうという、理由だけで、私はその索漠たる山村を選んだ。昭和十五年、七月三日の事である。その頃は、私にも、少しお金の余裕があったのである。けれども、それから先の事は、やはり真暗であった。小説が少しも書けなくなる事だってあるかも知れない。二箇月間、小説が全く書けなくなったら、私は、もとの無一文になる筈である。思えば、心細い余裕であったが、私にとっては、それだけの余裕でも、この十年間、はじめての事であったのである。私が東京で生活をはじめたのは、昭和五年の春である。そのころ既に私は、Hという女と共同の家を持っていた。

 

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■「Hという女」こと、太宰の最初の妻・小山初代

 

田舎の長兄から、月々充分の金を送ってもらっていたのだが、ばかな二人は、贅沢を戒め合っていながらも、月末には必ず質屋へ一品二品を持運んで行かなければならなかった。とうとう六年目に、Hとわかれた。私には、蒲団と、机と、電気スタンドと、行李一つだけが残った。多額の負債も不気味に残った。それから二年経って、私は或る先輩のお世話で、平凡な見合い結婚をした。

 

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■「平凡な見合い結婚」の相手、妻・津島美知子

 

さらに二年を経て、はじめて私は一息ついた。貧しい創作集も既に十冊近く出版せられている。むこうから注文が来なくても、こちらで懸命に書いて持って行けば、三つに二つは買ってもらえるような気がして来た。これからが、愛嬌も何も無い大人の仕事である。書きたいものだけを、書いて行きたい。
 甚だ心細い、不安な余裕ではあったが、私は真底から嬉しく思った。少なくとも、もう一箇月間は、お金の心配をせずに好きなものを書いて行ける。私は自分の、その時の身の上を、嘘みたいな気がした。恍惚と不安の交錯した異様な胸騒ぎで、かえって仕事に手が附かず、いたたまらなくなった。
 東京八景。私は、その短篇を、いつかゆっくり、骨折って書いてみたいと思っていた。十年間の私の東京生活を、その時々の風景に託して書いてみたいと思っていた。私は、ことし三十二歳である。日本の倫理に於ても、この年齢は、既に中年の域にはいりかけたことを意味している。また私が、自分の肉体、情熱に尋ねてみても、悲しい哉それを否定できない。覚えて置くがよい。おまえは、もう青春を失ったのだ。もっともらしい顔の三十男である。東京八景。私はそれを、青春への訣別の辞として、誰にも媚びずに書きたかった。
  (中略)
 東京市の大地図を一枚買って、東京駅から、米原行の汽車に乗った。遊びに行くのでは、ないんだぞ。一生涯の、重大な記念碑を、骨折って造りに行くのだぞ、と繰返し繰返し、自分に教えた。熱海で、伊東行の汽車に乗りかえ、伊東から下田行のバスに乗り、伊豆半島東海岸に沿うて三時間、バスにゆられて南下し、その戸数三十の見る影もない山村に降り立った。ここなら、一泊三円を越えることは無かろうかと思った。憂鬱堪えがたいばかりの粗末な、小さい宿屋が四軒だけ並んでいる。私は、Fという宿屋を選んだ。四軒の中では、まだしも、少しまともなところが、あるように思われたからである。

 

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意地の悪そうな、下品な女中に案内されて二階に上り、部屋に通されて見ると、私は、いい年をして、泣きそうな気がした。三年まえに、私が借りていた荻窪の下宿屋の一室を思い出した。その下宿屋は、荻窪でも、最下等の代物であったのである。けれども、この蒲団部屋の隣りの六畳間は、その下宿の部屋よりも、もっと安っぽく、侘しいのである。
「他に部屋が無いのですか」
「ええ。みんな、ふさがって居ります。ここは涼しいですよ」
「そうですか」
 私は、馬鹿にされていたようである。服装が悪かったせいかも知れない。
「お泊りは、三円五十銭と四円です。御中食は、また、別にいただきます。どういたしましょうか」
「三円五十銭のほうにして下さい。中食は、たべたい時に、そう言います。十日ばかり、ここで勉強したいと思って来たのですが」
「ちょっとお待ち下さい」女中は、階下へ行って、しばらくして、また部屋にやって来て、「あの永い御滞在でしたら、前に、いただいて置く事になって居りますけれど」
「そうですか。いくら差し上げたら、いいのでしょう」
「さあ、いくらでも」と口ごもっている。
「五十円あげましょうか」
「はあ」
 私は机の上に、紙幣を並べた。たまらなく」なって来た。
「みんな、あげましょう。九十円あります。煙草銭だけは、僕は、こちらの財布に残してあります」
 なぜ、こんなところに来たのだろうと思った。
「相すみません。おあずかり致します」
 女中は、去った。怒ってはならない。大事な仕事がある。いまの私の身分には、これ位の待遇が、相応しているのかも知れない、と無理矢理、自分に思い込ませて、トランクの底からペン、インク、原稿用紙などを取り出した。

 

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 十年ぶりの余裕は、このような結果であった。けれども、この悲しさも、私の宿命の中に規定されて在ったのだと、もっともらしく自分に言い聞かせ、(こら)えてここで仕事をはじめた。
 遊びに来たのでは無い。骨折りの仕事をしに来たのだ。私はその夜、暗い電燈の下で、東京市の大地図を机いっぱいに(ひろ)げた。

  もう少し良い書き方はなかったのか、とも思いますが、太宰独特の、誇張した表現法のような気もします。
 太宰は、この「福田屋」に7月3日から7月12日まで滞在し、中期の代表作である東京八景を書き上げました。

 【了】

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【参考文献】
・鈴木邦彦『文士たちの伊豆漂白』(1998年、静岡新聞社
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「伊豆の踊子の宿 福田家/明治十二年創業
 ※画像は、上記参考文献より引用しました。
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