【日めくり太宰治】1月13日
1月13日の太宰治。
1944年(昭和19年)1月13日。
太宰治 34歳。
太宰と相撲
太宰は、相撲についてのエッセイを「横綱」含めて3本書いています。
今回は、太宰が相撲について書いたエッセイ3本を発表年順に紹介します。
まずは、1940年(昭和15年)6月15日発行『相撲』第五巻第六号の「夏場所全勝負並日々印象記」欄に「『武技』よりも『芸技』・・・十四日目の印象・・・」の題名で発表され、のちに昭南書房版『
生れてはじめて本場所というものを、見せてもらったわけであります。世人のわいわい騒ぐものには、ことさらに背を向けたい私の悲しい悪癖から、相撲に就いても努めて無関心を装って来たわけであります。けれども、内心は、一度見て置きたいと思っていたのでありました。むかしの姿が、そこにいまだ残っているような気がしていたからであります。
協会から案内の御手紙をもらったので、袴 をはいて出かけました。国技館に到着したのは、午後四時頃でありました。招待席は、へんに窮屈で、その上たいへん暑かったので、すぐに廊下に出て、人ごみのうしろから、立って見ていました。
雛壇 を遠くから眺めると、支那の模様のように見えます。毛氈 の赤が、少し黒ずんでいて、それに白っぽい青が交錯 されて在るのです。白っぽい青とは、観客の服装の色であります。団扇 が無数にひらひら動いています。ここには、もう夏が、たしかに来ているのです。
土俵の黒白青赤の四本の柱は、悲しいくらいどぎつい原色なのでありました。埴輪 のような、テラコッタの肌をしているのであります。
全体の印象を申せば、玩具のような、へんな悲しさであります。泥絵具の、鳩笛 を思い出しました。お酉 様の熊手の装飾、まねき猫、あんな幼い、悲しくやりきれないものを感じました。江戸文化というものは、こんな幼稚な悲しさ、とでも言うものの中に生育していたのではないか、とさえ思いました。
取組を、四、五番見ましたが、あまり、わかりませんでした。照國という力士は、上品な人柄のようであります。本当に怒って取組んだら、誰にも負けないだろうと思いました。相手の五ツ島とかいう力士の人柄には、あまり感心しませんでした。勝ちゃいいんだろう、という荒 んだ心境が、どこかに見えます。勝負に勝っても、いまのままでは、横綱になれません。もう一転びの必要があります。
用事があったので、照國、五ツ島の取組を見て、それだけで帰りました。
四、五番を見ただけですから、自信を以ては言えませんけれど、力士の取組に、「武技」というよりは、「芸技」のほうを、多く感じました。いいことか、悪いことか、私には、わかりません。
続いて、1941年(昭和16年)1月5日発行の『都新聞』第一九一〇八号の第一面の「大波小波」欄に「今年はどんな題材を」の課題に対して「
男女川 と羽左衛門
横綱、男女川が、私の家の近くに住んでいる。すなわち、共に府下三鷹町下連雀の住人なのである。私は
角力 に関しては少しも知るところが無いのだけれど、それでも横綱、男女川に就いては、時折ひとから噂を聞くのである。噂に拠れば、男女川はその身長に就いての質問を何よりも恐れるそうである。そうして自分の実際の身長よりも二寸くらい低く言うそうである。つまり、大男の自分を憎悪しているのである。自己嫌悪、含羞 、閉口しているのであろう。必ずや神経のデリケエトな人にちがいない。自転車に乗って三鷹の駅前の酒屋へ用達 しに来て、酒屋のおかみさんに叱られてまごついている事もある。やはり、自転車に乗って三鷹郵便局にやって来て、窓口を間違ったり等して顔から汗をだらだら流し、にこりともせず、ただ狼狽 しているのである。
私はそんな男女川の姿を眺め、ああ偉いやつだといつも思う。よっぽど出来た人である。必ずや誠実な男だ。
ひとの噂に拠れば、男女川はひどく弱い角力だそうである。敗れてばかりいるそうである。てんで角力を取る気がないらしいという話もある。けれども私は、その事に就いても感服している。いつか新聞で、かれの自戦記を読んだが、あの文書は、忘れがたい。曰 く「われは横綱らしく強いところを見せようとして左の腕を大きくぶるんと振って相手を片手で投げ飛ばそうとしたが、相手は小さすぎて、われの腕 はむなしく相手の頭の上を通過し、われはわが力によろめき自ら腰がくだけて敗れたのである。とかく横綱は、むずかしい。」
羽左衛門の私生活なども書いてみたい。朝起きてから、夜寝るまで。面白いだろうと思う。題は「たちばな。」けれども、私は、男女川の小説も、羽左衛門の物語も、一生涯、書く事は無いだろう。或る種の作家は、本気に書くつもりの小説を前もって広告する事を避けたがるものである。書かない小説を、ことさらに言ってみるものである。私も、どうやらそれに近い。
最後はいよいよ、1944年(昭和19年)1月13日発行の『東京新聞』第四百六十六号の第四面の「文化」欄に発表された「横綱」です。
二、三年前の、都新聞の正月版に、私は横綱
男女ノ川 に就いて書いたが、ことしは横綱双葉山に就いて少し書きましょう。
私は角力に就いては何も知らぬのであるが、それでも、横綱というものには無関心でない。或る正直な人から聞いた話であるが、双葉山という男は、必要の無いことに対しては返辞をしないそうである。お元気ですか。お寒いですね。おいそがしいでしょう。すべて必要の無い言葉である。双葉山は返辞をしないそうである。
何とか返辞をしろ、といきり立ち腕力に訴えようとしても、相手は双葉山である。どうも、いけない。
或るおでんやの床の間に「忍」という一字を大きく書いた掛軸があった。あまり上手でない字であった。いずれ、へんな名士の書であろうと思い、私は軽蔑 して、ふと署名のところを見ると、双葉山である。
私は酒杯を手にして長大息 を発した。この一字に依って、双葉山の十年来の私生活さえわかるような気がしたのである。横綱の忍の教えは、可憐 である。
【了】
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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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