9月3日の太宰治。
1940年(昭和15年)9月3日。
太宰治 31歳。
九月一日付発行の「月刊文章」九月号に「『女の決闘』その他」(のち「自作を語る」と改題)を発表した。
『自作を語る』
今日は、太宰のエッセイ『自作を語る』を紹介します。
『自作を語る』は、1940年(昭和15年)9月1日発行の「月刊文章」第六巻第九号欄に「『女の決闘』その他」の題で発表されました。発表後、太宰のエッセイ集『
『自作を語る』
私は今日まで、自作に就いて語った事が一度も無い。いやなのである。読者が、読んでわからなかったら、それまでの話だ。創作集に序文を附ける事さえ、いやである。自作を説明するという事は、既に作者の敗北であると思っている。不愉快千万の事である。私がAという作品を創る。読者が読む。読者は、Aを面白くないという。いやな作品だという。それまでの話だ。いや、面白い筈だが、という抗弁は成り立つわけは無い。作者は、いよいよ惨めになるばかりである。
いやなら、よしな、である。ずいぶん皆にわかってもらいたくて出来るだけ、ていねいに書いた筈である。それでも、わからないならば、黙って引き下るばかりである。
私の友人は、ほんの数えるくらいしか無い。私は、その少数の友人にも、自作の注釈をした事は無い。発表しても、黙っている。あそこの所には苦心をしました、など一度も言った事が無い。興覚めなのである。そんな、苦心談でもって人を圧倒して迄、お義理の喝采を得ようとは思わない。芸術は、そんなに、人に強いるものではないと思う。
一日に三十枚は平気で書ける作家もいるという。私は一日五枚書くと大威張りだ。描写が下手だから苦労するのである。語彙が貧弱だから、ペンが渋るのである。遅筆は、作家の恥辱である。一枚書くのに、ニ、三度は、辞林を調べている。嘘字か、どうか不安なのである。
自作を語れ、と言われると、どうして私は、こんなに怒るのだろう。私は、自分の作品をあまり認めていないし、また、よその人の作品もそんなに認めていない。私が、いま考えている事を、そのまま率直に述べたら、人は、たちまち私を狂人あつかいにするだろう。狂人あつかいは、いやだ。やはり私は、沈黙していなければならぬ。もう少しの我慢である。
ああ早く、一枚三円以上の小説ばかりを書きたい。こんな事では、作家は、衰弱するばかりである。私が、はじめて「文藝」に創作を売ってから、もう七年になる。
流行は、したくない。また、流行するわけも無い。流行の虚無も知っている。一年一冊の創作集を出し、三千部くらいは売れてくれ。私の今までの十冊ちかい創作集のうちで、二千五百部の出版が最高である。
私の作品は、どう考えたって、映画化も劇化もされる余地が無い。だから優れた作品なのだ、というわけでは無い。「罪と罰」でも、「田園交響楽」でも、「阿部一族」でも、ちゃんと映画になっている様子だ。
「女の決闘」の映画などは、在り得ない。どうも自作を語るのは、いやだ。自己嫌悪で一ぱいだ。「わが子を語れ」と言われたら、志賀直哉ほどの達人でも、ちょっと躊躇するにちがいない。出来のいい子は、出来のいい子で可愛いし、出来の悪い子は、いっそう又かなしく可愛い。その間の機微を、あやまたず人に言い伝えるのは、至難である。それをまた、無理に語らせようとするのも酷ではないか。
私は、私の作品と共に生きている。私は、いつでも、言いたい事は、作品の中で言っている。他に言いたい事は無い。だから、その作品が拒否せられたら、それっきりだ。一言も無い。
私は、私の作品を、ほめてくれた人の前では極度に矮小になる。その人を、だましているような気がするのだ。反対に、私の作品に、悪罵を投げる人を、例外なく軽蔑する。何を言ってやがると思う。
こんど河出書房から、近作だけを集めた「女の決闘」という創作集が出版せられた。女の決闘は、この雑誌(文章)に半箇年間、連載せられ、いたずらに読者を退屈がらせた様子である。こんど、まとめて一本にしたのを機会に、感想をお書きなさい、その他の作品にも、ふれて書いてくれたら結構に思います、というのが編集者、辻森さんの言いつけである。辻森さんには、これまで、わがままを通してもらった。断り切れないのである。
私には、今更、感想は何も無い。このごろは、次の製作に夢中である。友人、山岸外史君から手紙をもらった。(「走れメロス」再読三読いよいよ、よし。傑作である。)
友人は、ありがたいものである。一巻の創作集の中から、作者の意図を、あやまたず摘出してくれる。山岸君も、亀井君も、お座なりを言うような軽薄な人物では無い。この二人に、わかってもらったら、もうそれでよい。
自作を語るなんてことは、老大家になってからする事だ。
太宰は、『女の決闘』の冒頭にも、
めくらめっぽう読んで行っても、みんなそれぞれ面白いのです。みんな、書き出しが、うまい、書き出しの巧いというのは、その作者の「親切」であります。(中略)すらすら読みいいように書いて在ります。ずいぶん読者に親切で、愛情持っていた人だと思います。
と書いています。
これは、太宰が森鴎外について書いた部分ですが、鴎外について書きながら、遠回しに自分の作品についても語っている感じがあります。太宰が苦悩しながら綴る「すらすら読みいい」文章は、読者への「サーヴィス」だったのでしょう。
■太宰と亀井勝一郎 亀井は、太宰の三鷹の住居から15分くらいの、北多摩郡武蔵野町吉祥寺2761番地に住んでおり、親交を深めた。
【了】
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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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