記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】2月3日

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2月3日の太宰治

  1948年(昭和23年)2月3日。
 太宰治 38歳。

  東京都下三鷹下連雀一一三より
  東京都目黒区緑ヶ丘二三二一 
   伊馬春部

 拝復 お葉書うれしく拝誦いたしました。本当に、うれしく。このごろからだも快調。八日こちらも好都合。時間は早いほどよろしく、二時から三時頃までに、れいの仕事部屋においで下されたく、お待ち申しております。但し、小野様をお迎えするには、あまりにむさくるしいところですから、小野様のほうはまた、日と場所をあらためまして。

 こんなハガキを使っておゆるし下さい。

三鷹の仕事部屋

 太宰が親友・伊馬春部に宛てた、2月8日に会うことを了承するハガキです。
 「小野様」とは、小野正文(おのまさふみ)のことでしょうか。小野は、太宰と同郷で青森中学時代の2年後輩。太宰の弟・礼治の同級生でした。そんな小野を「お迎えするには、あまりにもむさくるしいところ」という「れいの仕事部屋」とはどこだったのか、太宰の三鷹の仕事部屋を紹介しながら、見ていきたいと思います。

 太宰が三鷹で仕事部屋を持つようになったのは、戦後になってからでした。
 1946年(昭和21年)11月14日、太宰は疎開していた故郷の金木町から三鷹に戻って来ます。三鷹に戻ってすぐ新潮社を訪ね「『桜の園』の日本版を書きたい、題名は斜陽だ」と意気込んでいたそうです。作家として「大ロマン小説を一つ書いて死にたい」と常に言っていた太宰に、いよいよその時がやって来たのです。 

 太宰は、自宅が手狭なことや来客を避けるために、亡くなるまでの1年7ヶ月の間に、6ヶ所の仕事部屋で執筆活動を行いました。

 

①中鉢家

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 ここでは、1946年(昭和21年)11月25日から約3ヶ月間、メリイクリスマス』『ヴィヨンの妻』『などを執筆しています。辞書、弁当を黒い風呂敷に包んで、朝の9時頃から3時くらいまで仕事をすると、若松屋に行ってお酒を飲むのが日課でした。
 1月6日に太田静子が太宰を訪ねたのも、この場所です。

 

②田辺精肉店の裏のアパート

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 ここの四畳半の部屋で、1947年(昭和22年)4月6日から5月20日まで、斜陽の残る六章、第三章から書き始めました。太宰が3時以降ならだいたい飲んでいた若松屋の仲介で、田辺万蔵・かつ夫妻が経営する田辺精肉店の裏のアパートを借りました。
 アパートの家主は「空になったアパートのその部屋だけ、夜も遅くまで煌々(こうこう)と電気がついていた」と話していたそうですが、太宰の妻・津島美知子は著書回想の太宰治に、

 午後三時前後で仕事はやめて、私の知る限り、夜執筆したことはない。〆切に追われての徹夜など、絶えてない。夜の方が静かで落ち着いて書けるのに昼間仕事するのは、私には健康のためだと言い、一日五枚が自分の限度なのだと言った(死の前年秋の某誌に載ったインタヴューでは、夜中はだれかがうしろにいてみつめているようでこわいから仕事しないと答えている)。

と書いており、夜遅くまで情熱を燃やしながら斜陽を執筆していた様子が伺えます。

 

③藤田家
 田辺精肉店のアパートに引き続き、斜陽第八章までの180枚を、1947年(昭和22年)5月21日から6月末にかけて書き上げました。
 当時、藤田家の近くに新潮社の編集者で斜陽を担当していた野平健一が住んでいましたが、「『斜陽』の頃の太宰さんは、仕事部屋を誰にも明かさず原稿はいつも自宅で受け渡しだった」そうで、「決して人に知られぬため、途中まで同道した編集者などいても、わざと三鷹の駅まで送り込んで、それから仕事部屋、というやり方」をとるといった徹底ぶりでした。
 斜陽第七章の直治の遺書を書いている際、太宰は「ペン先に自分が引き込まれるような気がした」と野平に話したそうです。

 

④小料理屋「千草(ちぐさ)

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 「千草」は、太宰が接待などにも使った小料理屋で、ここの二階の六畳を、1947年(昭和22年)7月頃から借りています。
 太宰と山崎富栄の関係が表沙汰になった頃から、太宰の仕事部屋は「千草」「西山家」「野川家」の3ヶ所をかけ持つようになります。
 面倒見が良かった「千草」の夫婦(鶴巻幸之助・増田ちとせ)は、この翌年6月19日、太宰と富栄の遺体が引き上げられた際、場所を提供。ここに遺体を安置し、検死、出棺までを見届けました。

 

⑤西山家
 1947年(昭和22年)3月27日、富栄は、ミタカ美容院の同僚・今野貞子に太宰を紹介されます。富栄が下宿していた「野川家」と仕事部屋の「千草」が、路地を挟んで目の前ということもあり、2人は急接近します。
 富栄は、自分のお客さんだった西山夫人にお願いして、西山家の八畳の部屋を借りました(富栄の日記によると、7月末~8月末頃まで)。富栄にとって、自分の下宿より閑静で落ち着いた西山家は、太宰との関係にも好都合だったかもしれません。
 西山家から北に少し歩くと、太宰が好んだ陸橋があります。この陸橋は、三鷹で唯一、太宰が暮した当時の姿を留めている建造物です。

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⑥野川家

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 1947年(昭和22年)初秋から、富栄の下宿先だった「野川家」2階の六畳間が、事実上の太宰の仕事部屋になっていきます。冒頭で紹介したハガキに登場する「れいの仕事部屋」も、ここを指します。
 美容師を辞めた富栄は、太宰の執筆状況を記録したり、作品の検印をしたり、病気の世話をしたりと、秘書兼看護師のような役割を担うようになります。献身的に看病をする富栄の姿を見て、誰もが看護師だと思っていたそうです。
 新潮社の野平健一は、この部屋で如是我聞の口述筆記を行っています。
 1948年(昭和23年)6月13日深夜、太宰と富栄はこの部屋に遺書を残し、玉川上水に入水しました。

 【了】

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【参考文献】
野平健一『矢来町半世紀』(新潮社、1992年)
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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