記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】1月17日

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1月17日の太宰治

  1944年(昭和19年)1月17日。
 太宰治 34歳。

 日本文学報国会小説部会幹事会が開催され、「五大宣言小説化」の件が審議されている。この時、太宰治は「執筆候補者」に「選定」されたものと思われる。

『惜別』の意図

 同1944年(昭和19年)2月3日、太宰は、麹町区三年町の社会事業会館で開催された、日本文学報国会小説部会の「大東亜五大宣言小説執筆希望者」による協議会に出席。この会で「全執筆希望者から小説の梗概こうがいならびに意図を原稿用紙二三枚に執筆提出を」うことが決定し、太宰はこの直後に、「『惜別』の意図」を執筆しています。

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『惜別』の意図

 昭和三十五年、当時二十二歳の周樹人しゅうきじん(後の世界的文豪、魯迅ろじん)が、日本国にいて医学を修め、以て疫病者の瀰漫びまんする彼の祖国を明るく再建せんとの理想に燃え、清国留学生として、横浜に着いた、というところから書きはじめるつもりであります。多感の波の眼には、日本の土地がどのように写ったか。横浜、新橋間の車中に於いて、窓外の日本の風景を眺めながらの興奮、ならびに、それから二箇年間、東京の弘文学院に於ける純真にして内気な留学生々活。東京という都会を彼はどのように愛し、また理解したか。けれども彼には、彼の仲間の留学生たちに対する自己嫌悪にも似た反発もあり、明治三十七年、九月、清国留学生のひとりもいない仙台医学専門学校に入学するのでありますが、それから二箇年間の彼の仙台に於ける生活は、彼の全生涯を決定するほどの重大な時期でありました。彼はこの時期に於いて、二、三の日本の医学生から意地悪をされたのも事実でありますが、また一方に於いては、それを償ってあまりある程の、得がたい日本の良友と恩師を得ました。ことにも藤野厳九郎教授の海よりも深い恩愛に就いては、彼は後年、「藤野先生」という謝恩の念に満ちあふれた名文を草しているほどで、「ただ先生の写真のみは今なお僕の北京の寓居の東側の壁に、書卓に向って掛けてある。夜間倦んじ疲れて、懈怠けたいの心が起ろうとする時、頭をもたげて燈光の中に先生の黒い痩せたお顔を瞥見べっけんすると、いまにも抑揚頓挫のある言葉で話しかけようとしていられるかの如く思われる。と忽ち又それが僕の良心を振いおこさせ、そして勇気を倍加させてくれる」と書いてあります。さらにまた重大の事は、この仙台の町に、唯一人の清国留学生として下宿住居をしているうちに、彼は次第に真の日本の姿を理解しはじめて来たという一事であります。時あたかも日露戦争の最中であります。仙台の人たちの愛国の至情に接して、外国人たる彼さえ幾度となく瞠目し感奮させられる事があったのでした。彼も、もとより彼の祖国を愛する熱情に燃えて居る秀才ではありますが、眼前に見る日本の清潔にして溌剌たる姿に較べて、自国の老憊ろうはいの姿を思うと、ほとんど絶望に近い気持になるのであります。けれども希望を失ってはならぬ。日本のこの新鮮な生気はどこから来るのか。彼は周囲の日本人の生活を、異常の緊張を以て、観察しはじめます。由来、清国の青年の日本留学の真意は、日本こそ世界に冠たる文明国と考えてやって来るのではなく、やはり学ぶべきは西洋の文明ではあるが、日本はすでに西洋の文明の粹を刪節して用いるのに成功しているのであるから、わざわざ遠い西洋まで行かずともすぐ近くの日本国で学んだ方が安直に西洋の文明を吸収できるというところに在ったようで、二十二歳の周樹人もまた、やはり、そのような気持で日本に渡って来たのは致し方のないところであったのでありますが、しかし、彼のさまざま細かい観察の結果、日本人の生活には西洋文明と全く違った独自の凜乎たる犯しがたい品位の存する事を肯定せざるを得なくなったのであります。清潔感。中国に於いては全然見受けられないこの日本の清潔感は一体、どこから来ているのであろうか。彼は日本の家庭の奥に、その美しさの淵源がひそんでいるのではなかろうかと考えはじめます。或いはまた、彼の国に於いては全く見受けられない単純な清い信仰(理想といってもよい)を、日本の人がすべて例外なく持っているらしい事にも気がつきます。けれども、やはり、はっきりは、わかりません。次第に彼は、教育に関する御勅語、軍人に賜りたる御勅諭までさかのぼって考えるようになります。そうして、ついに、中国がその自らの独立国としての存立を危うくしているのは、決して中国人たちの肉体の病気の故ではなくして、あきらかに精神の病のせいである、すなわち、理想喪失という怠惰にして倨傲きょごうの恐るべき精神の疾病の瀰漫びまんるのであるという明確の結論を得るに到ります。然して、この病患の精神を改善し、中国維新の信仰にまで高めるためには、美しく崇高なる文芸に依るのが最も捷径しょうけいではなかろうかと考え、明治三十九年の夏(六月)、医学専門学校を途中退学し、彼の恩師藤野先生をはじめ、親友、または優しかった仙台の人たちとも別れ、文芸強国の希望に燃えて再び東京に行く、その彼の意気軒昂いきけんこうたる上京を以て作者は擱筆かくひつしようと思って居ります。梗概だけを述べますと、いやに理屈っぽくなっていけませんが、周樹人の仙台に於ける日本人とのなつかしく美しい交遊に作者の主力を注ぐつもりであります。さまざまの日本の男女、または幼童(周樹人は、たいへんな子供好きでありました)等を登場させてみたいと思って居ります。魯迅の晩年の文学論には、作者は興味を持てませんので、後年の魯迅の事には一さい触れず、ただ純情多感の若い一清国留学生としての「周さん」を描くつもりであります。中国の人をいやしめず、また、決して軽薄におだてる事もなく、所謂いわゆる潔白の独立親和の態度で、若い周樹人を正しくいつくしんで書くつもりであります。現代の中国の若い智識人に読ませて、日本にわれらの理解者ありの感懐を抱かしめ、百発の銃弾以上に日支全面和平に効力あらしめんとの意図を存しています。

  この5枚の原稿の欄外には、「(第二項、独立親和)/(付、三項、文化昂揚)」とあり、太宰は「大東亜五大宣言」のうち、第二項と第三項との小説化を意図していたことが分かります。
 タイトルは、最初「『清国留学生』(課題)」と記して全体を抹消し、次に右側に「支那の人」と記してまた抹消し、最後に「『惜別』の意図」と記して決定しました。
 美知子は、「当時の世情にあっては、再会を期し難い気持が何人の胸中にもあった」「今日、会った人でも、お互い明日の命の知れぬ時勢であったから」「惜別」という言葉は「切実に響いた」と書き残しています。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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