記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】3月6日

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3月6日の太宰治

  1943年(昭和18年)3月6日。
 太宰治 33歳。

 三月六日、七日。四谷の音楽スタジオで、阿部合成(あべごうせい)の個展が開かれた。その下見に阿部合成夫妻、山岸外史と会場に行き、その直後山岸外史から絶交状が送られてきて、四月中旬まで、疎遠になった。

太宰と阿部合成(あべごうせい)

 今日のエピソードは、山内祥史太宰治の年譜』では2日間にわたる出来事として書かれています。そこで、前編・後編と2日に分けて、異なった観点から、このエピソードを紹介していきます。今回は、その前編です。

  阿部合成(あべごうせい)(1910~1972)は、青森県南津軽郡浪岡村(現在の青森市浪岡)生まれの画家で、太宰の1つ年下です。太宰は金木尋常小学校を卒業した後(6年間全甲首席)、中学校進学前の1年間、学力補充のために明治高等小学校に通ったため(太宰の成績が優秀なのは、地域の実力者の息子に対する配慮だと父・源右衛門(げんえもん)が判断したことが理由。)、青森県立青森中学校で、1923年(大正12年)に太宰と阿部は同級生になりました。

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 青森中学校では、同級生の太宰と共に不良風で目立ち、一緒に文学に熱中しました。直情型の阿部は、柔和な中に早熟さと野心を隠す太宰に親しめなかった面もあったようです。
 1929年(昭和4年)、中学5年生の時、急速に関心を美術に移し、京都市立絵画専門学校日本画科に進みます。在学中の1933年(昭和8年)に結婚した小田原チヨは、太宰の最初の妻・小山初代の三味線仲間で、1930年(昭和5年)に太宰が田辺あつみと心中事件を起こした際、初代はチヨに泣いて相談したそうです。

 1936年(昭和11年)10月に阿部が杉並区大宮前に転居して以降、太宰との親交が深まりました。この頃、船橋の太宰の家で山岸外史を紹介され、以降は3人でよく飲んだそうです。太宰の計らいで、短篇集『千代女』筑摩書房、1941年)、『風の便り』(利根書房、1942年)、『女性』(博文館、1942年)の装丁も担当しています。
 1943年(昭和18年)に召集され、中国東北部満州)へ出征。昇進を拒み二等兵で通し、戦後はシベリアに抑留。1947年(昭和22年)1月に帰国し、太宰を訪問した後、青森に帰郷します。この時、太宰が血を吐きながら執筆する姿を見たそうで、太宰に誘われて飲みに出るも、太宰に死の影を感じたそうです。この時が、太宰と阿部の最後の対面となりました。

 次に引用するのは、阿部が山岸外史に話したエピソードのようですが、山岸外史『人間太宰治から紹介します。

(略)阿部君にむかって、戦後の太宰が敢然として、格闘を挑んだという話がある。その話を阿部君から聞いたとき、おそらく十五年に及んでいる太宰の憤懣(ふんまん)がその日爆発したのにちがいないとぼくは思ったが、阿部君は案外、無意識のようであった。
「わざと、ひとつだけ殴らせておいたんだが、腕力じゃ、問題にならんからなア」
 ということだった。太宰が自殺する前年くらいではなかったかと思う。この時代の太宰は、肉体をかけて闘争したようである。三鷹の喜久屋というゆきつけの小料理屋で二人で飲んでいる間に、なにかが原因(もと)になって、「表にでろ」というようなことになったのだそうである。太宰としてはよくよくの台詞だったのだと思う。そのときは雪の日だったというが、路面にはニ三寸の雪が積もっていたそうである。阿部君が表にでると、太宰はいきなり阿部君の左頬を張ったそうである。
「あいつ、卑怯にも、いきなりおれを殴ったのだ。ひとつだけは殴らしておいたがネ。ふたつというわけにはゆかない。ぼくも殴りかえしたよ」
 すると太宰の入れ歯が飛んでしまったのだそうである。太宰が痛いのを我慢して戦後ようやく入れた義歯だった。たちまち格闘は中止になって、二人でその入れ歯をあちこち探して廻ったが、そのときはどうしてもみつからなかったという。雪の中に埋まってしまったのである。諦めて、もう一度喜久屋に入って、改めて飲みなおしたという話であった。
「気の毒じゃないか。君、太宰としてはそれが、精いっぱいの抵抗なんですよ。よくやったと思うネ。太宰の美談だと思うよ」
 ぼくは太宰を讃め称えたかった。しかし太宰が同郷人で中学同窓でもあった阿部君の為に、ひと方ならず配慮し声援していたことなど、阿部君はまるで気がついていないようにもみえた。(太宰の幾つもの著書の装幀は太宰からすすんで阿部君に依頼しているのである。)
「いっさいの暴力は絵の方にいれてもらいたいもんだね。太宰は、よくやった」
 ぼくは思わずそんなこともいったものだが、阿部君には太宰の文学が、あの美しい畏縮(いじ)けの阿波のなかから純粋に命がけで生れてくることがわからないようにも思われた。当時の阿部君は力と英雄主義(ヒロイズム)が芸術の母胎だと思っていたような節もあるようである。しかし、画家には原子力は要るものだったのかも知れない。戦後の話である。阿部君がシベリヤの抑留生活からかえってきたあとのことである。
 その入れ歯は翌日になって喜久屋のまえの泥溝(どぶ)のなかから探しだされたということだが、ぼくには太宰のこの頃の決意がよくみえるように思われた。太宰の初期の作品「逆行」のなかの「決闘」の場面をそのままみるような気がした。太宰が志賀直哉氏に食ってかかった「如是我聞」を書いているのもこの前後のことではなかったかと思う。最終期の太宰は、そういう決意に燃えていたのである。非力な太宰はこの阿部君との決闘のときも入れ歯をとばして、やはりユーモアを演出してしまったのだが、しかし、それが非力の太宰であったればこそ、いかに燃えるような闘志と決意をもって戦ったのかは、ぼくにはよくわかるのである。かえって腕力の強い阿部君には太宰のこの決意と死力がわからなかったのだと思う。
「雪の日の最後の決闘だネ。しかし、太宰はよくやった。立派なものだ」ぼくは阿部君にもう一度そういった。

 1964年(昭和39年)、阿部は親友・太宰の文学碑の制作を依頼され、翌年に金木町(現在の五所川原市)の芦野公園登仙岬に設置しました。

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 阿部は、記念碑について「制作にあたって」という、次の文章を書いています。

 「にんげんの事を思い煩う多くの若い人々の通るみちの一つの門、けれどもそれは狭い、けわしい門に違いあるまい。」
 幾年振かという吹雪の芦野公園で、雪に覆われた湖上遥かにサイの河原を望見しながら、私は金色の不死鳥(フェニックス)の飛ぶ姿を想い描いた。(彼は自らの肉体を燃焼して、その作品を不死のものとした)

 碑の言葉は、彼がつねに愛誦していたヴェルレエヌの「撰ばれてあることの恍惚と不安と、二つわれにあり」とする事に、檀一雄氏や伊馬春部氏たちと、それこそ期せずして一致した。(彼自身の言葉でない事に異論もあろうが、あの詩の一節こそ、はにかみやの彼の為につくられたものといってもよく、それこそ太宰治のトレード・マークの様なものであり、云うならば「自画像」であろうという事で)

 碑文を刻む石は、どうにかスエーデン産の黒石を探し出した。上部の浮彫は「ラフィナール(純貴アルミ、純度九九.九パーセント)」を選んだ。(これは永い世紀の間、野外彫刻用に使われて来たブロンズを遙かに凌ぐ耐蝕性と純度をもつ廿世紀の新材)
 限られた時間の中で、間断なく肉体を駆使して制作しながら、私は彼のきびしく、烈しかった生涯を肉体で感じている。

 【了】

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【参考文献】
・山岸外史『人間太宰治』(ちくま文庫、1989年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・『太宰治生誕110年記念展 ー太宰治弘前ー』(弘前市立郷土文学館、2019年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「青森市公式ホームページ」(https://www.city.aomori.aomori.jp/n-kyouiku/bunka-sports-kanko/bunka/bunka-geijutsu/torikumi/abegosei.html
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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