記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】11月11日

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11月11日の太宰治

  1926年(大正15年)11月11日。
 太宰治 17歳。

 毎年慣例として開催されていた青森中学校弁論大会に出場した。

「ユーモアに就いて」熱弁を振る

 1926年(大正15年)11月、青森県立青森中学校4年生の太宰は、毎年慣例として開催されていた弁論大会に出場しました。当時、上級生はいわゆる演説をし、下級生は教師の指名で、英語や漢文の名文を朗読したといいます。

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青森県立青森中学校

 そんな中、太宰は12番目に「ユーモアに就いて」という演題で、数枚の名刺大の紙切れを片手に隠し、それを時々のぞきながら、対話をする時のような口調で、静かに語ったといいます。
 今日は、太宰の同級生で、小説津軽「N君」として登場する、中村貞次郎(なかむらさだじろう)の回想太宰治の少年時代』から引用して紹介します。

 中学四年生の晩秋の或る日、その時私は青森県立病院に入院していたが、私の病室に笑顔をみせて入って来た。開口一番「今日学校で弁論大会があって『ユーモアに就いて』という題で雄弁を振った。当然メダルを貰えるものと思ったが、審査の先生は間違ったようだ」と云って、はにかみながら笑った。太宰は人の前で演説をするような人柄でもなかったし、雄弁に興味をもっていることなどきいたこともなかったので率直に聞きいれることが出来なかった。しかし「ユーモアに就いて」という演題は太宰には最もふさわしいものと思った。メダル云々は何時(いつ)もの癖で話を面白くするためにしゃべったものと、甚だ失礼な想像をしたものである。翌日私より一年下の友人が私の病室を訪れたので、早速弁論大会のことを訊ねた。受持の先生が、中学生であれだけの内容のものを話したということはたいしたものだ、と大変ほめた、とその友人は語った。弁論大会は青森中学校の年中行事の一つだが、ヤジられたりして弁士はなかなか容易なものではなかった。よほどの自信と強心臓でないと出られないというのが常識であった。彼がヤジられるのを覚悟の上で自ら進んで一千名に近い中学生を前にして熱弁を振ったということは、ユーモアというものを人々に訴えたい強い何ものかがあったのだろうと解釈した。又太宰は四年生から弘前高等学校を受験することになっていたので、この四年生が中学生生活の最期の年でもあり、敢然として演壇に立ったものと考えたりしたが、どうも私は釈然とした気持になれなかった。彼の性格からいって、どうも演壇に立ったことが解せなかった。太宰の死後いろいろなことから、再びこのことが気にかかり、友人達に訊いてみた。その内容を要約すると――外国の作家の例をあげて話したり、ユーモアというものは何処にでもあるもので作るものだ、人が死んだりしたような悲しみの中にもユーモアがある、とか、女学生が道路で一斉に先生におじぎするのもユーモアがある、などと話したとか、そんな具合でその核心をつかむことが出来なかった。今から三、四年前の夏に中学時代の友人の訪問を受けた。その友人と十年振り位で逢った。その際彼から、太宰が弁論大会で「ユーモアに就いて」話した内容は、太宰が三年生の時生徒監督の先生からなぐられたことに対する抵抗である、ときかされた。

 

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■中学時代 左から、太宰、太宰の弟・津島礼治、中村貞次郎

 

 その日も秋も大分深くなって寒い日であった。昼休み時間に太宰や私達数名の級友が、体操場近くの廊下に坐って退屈な時間をもてあましていた。あまり退屈なので、私達の前を級友が通ると拍手したり、ヤジったりして、からかっていた。そのうちに級友の一人がこんどは誰が来ても、仮りに上級生が来ても拍手しよう、と提案した。それは面白い、というわけで皆賛成し、誰が通るだろうかと興味をもって待っていたら、こともあろうに生徒が一番恐れていた生徒監督の先生がやって来た。これにはさすがの腕白者達も躊躇(ちゅうちょ)した。ところが太宰一人勇敢に手をたたいた。先生は太宰を睨みつけ、いきなり両頬を殴りつけた。体操場へ逃げた者もあった。
「或る野分のあらい日に、私は学校で教師につよく両頬をなぐられた。それが偶然にも私の任侠的な行為からそんな処罰を受けたのだから、私の友人たちは怒った。その日の放課後、三年生全部が博物教室へ集って、その教師の追放について協議したのである。ストライキストライキ、と声高くさけぶ生徒もあった。私は狼狽した。もし私一個人のためを思ってストライキをするのだったら、よして呉れ、私はあの教師を憎んでいない、事件は簡単なのだ、と生徒たちに頼みまわった。友人たちは私を卑怯だとか勝手だとか言った。私は息苦しくなって、その教室から出て(しま)った。温泉場の家へ帰って私はすぐ湯にはいった。」(思い出)――事実このようであった。後日太宰は、私達に「先生の剣幕があまりに激しかったので、みんな逃げたから自分も逃げようとしたら、先生は『抵抗する気かッ!』と怒鳴った。逃げようとした者に抵抗する気か、とは、ひどくないか」と憤慨して語ったことがある。そんなことなど思い出してその友人の話したことから今までの疑問がとけ、納得がいった。彼の語るところによると「日本人は昔頭にちょんまげをあげ、袴を着けて威儀をただし、礼をつくしても、見慣れない西洋人には、きわめて滑稽なことにうつるかも知れない。また、西洋人の間では、キッスや握手は普通のことであっても日本では誤解されやすい。又外国では好意や歓迎の意をあらわすために、拍手するのが習慣である。日本でも拍手をもって迎えるという事もある。然しそれが相手に理解されなければ、その善意も、かえって怒られたり、とんでもないひどい目にあうことになってしまう」といった意味のことや、中学校で休憩時間に教室にいれず、上靴をはかせず素足で歩かせていることなどもユーモアというジャンルの中にいれて、面白く中学校の教育方針を諷刺的に話したという。
思い出」によると、このことは、彼の任侠的な行為であり、災難であって、自分が悪い事をしたという観念がないようだ。そんなことを考えると、彼の表現を借りれば、「私は散りかけた花弁であった。すこしの風にもふるえおののいた。人からどんな些細なさげすみを受けても死なん哉と悶えた、たとい大人の侮りにでも容赦できなかった」という彼がこの事について一矢報いようと決心したことは当然であろう。内攻性的な彼の性格が、このような手段をとらせ、敢然と弁論大会の壇上に彼を立たせたものと私は考えた。この弁論大会に出場のため万全の準備を整え、完璧の練習を重ねて自信をもって望んだものと思われる。当時の弁士は悲憤慷慨や切歯扼腕という雄弁口調のものばかりであったが、彼は枚数のカードを手にして、そのメモをのぞきながら、全く対話の時の口調で、しずかに語った、と友人は云っている。「『ユーモアについて』と題し、中学時代のあなたの演説を、ぼくは、中学一の秀才というささやきと、それから、あなたの大人びたゼスチュア以外におもいだせないけれども、多くの人達は、太宰治をしらずに、青森中学校の先輩津島修治の噂をします」(虚構の春)。これでもわかるように弁論大会の結果は、太宰が予測したように満足なものであったようだ。

 【了】

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【参考文献】
・山内祥史 編『太宰治に出会った日』(ゆまに書房、1998年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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