記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】7月14日

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7月14日の太宰治

  1947年(昭和22年)7月14日。
 太宰治 38歳。

 午前十一時ごろ、菊田義孝(きくたよしたか)が太宰宅を訪問する。

菊田義孝「愛情うすし」

 今日は、太宰の弟子・菊田義孝(きくたよしたか)(1916~2002)が、1947年(昭和22年)7月14日に、三鷹の太宰宅を訪問した時のエピソードを、菊田の回想『往時を想う』から引用して紹介します。
 菊田については、6月26日の記事でも紹介しています。

 太宰さんが亡くなった年の前年のことだから、昭和二二年。その年の七月一四日に、ぼくは三鷹の御自宅で太宰さんとお会いしている。日にちまではっきり憶えているのは、その日太宰さんの口から出た巴里祭という言葉が、いまだに耳の底に残っているからである。
 たぶん午前一一時ごろだったと思うが、いつものとおり狭い玄関の三和土(たたき)に立って、御免くださいと云うと、すぐさま顔を出された奥様が、ちょっとお待ちをと云われてひっこまれ、また顔をお出しになると、庭の方へ回るように云われた。
 これはその時より六年もまえから、少ない月でも一、二度は欠かさずこの家を訪問しつづけてきたぼくにとって、まったく初めての、それだけに思いがけない経験であった。

 

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■太宰と妻・津島美知子

 

 玄関を出て右へ行くと、太宰家の角と隣家の角とに挟まれてポンプ式の井戸がある。井戸の横を通って庭先へ回った。
 それまで太宰さんの書斎兼応接間に通されたつど、その部屋から見慣れてきた庭である。
 玄関から上にあがると、そこがただちに六畳敷きの、書斎兼応接間なのだ。左手奥に床の間があり、床の間を左にして仕事用の粗末な座卓がある。その横に黒塗りの来客用テーブルが置いてあった。その前にすわって、太宰さんと話し合いながら、というよりいつもほとんど一方的に太宰さんの話を聞いて楽しませてもらいながら、ときどき眼を転じて眺めるともなしに眺めてきた庭であった。
 いい落ち着いた赤色のバラの花に、深い心のやすらぎを覚えて、しばらくのあいだ眼を離せずにいた時もあった。何かいかにもボウボウとした感じの植物に眼を留め、その名をきいたら、麻だと答えられて、珍しい思いをしたこともあった。
 今日は初めてその庭の方から、部屋のうちを見ることになったのである。

 

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「三鷹の住居」模型 太宰治文学サロンにて展示中。

 

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■庭側から見た「三鷹の住居」模型 この日、菊田が案内された庭側。

 

 太宰さんは、六畳間の真ん中に布団を敷いて、その上に長々と身をよこたえておられた。真夏のこととて掛け布団はかけられてなかったと思う。頭がどの方向に向いていたのか記憶が定かでないが、たぶん床の間の方に足が向けられ、頭は反対側にあったと思われる。
 「まあ、上がれ」
と云われて、縁側に上がり、太宰さんの枕元に行ってかしこまった。
 「ちょっと病気なので寝たまま失敬する。」
 太宰さんは、そんな言いをされたように思う。そのとき、何か用があって、布団の横に立っておられた奥様が、
 「病気だなんて、ただの二日酔いじゃありませんか」
となかばからかうような言い方をされた。
 「二日酔いだって、りっぱな病気じゃないか。」
 太宰さんが軽い抗議の口調で云われた。つづいて、
 「今日は七月一四日、巴里祭だったな。ほんとうならみんなを引きつれて、街をぞろぞろ歩かなければいけないんだが、こう疲れていては、どうにもならない。孫文は、革命未だ成らずと云って死んだ。われわれが孫文の志を継いで、革命を完成しなければならないんだよ。」
 いつものとおり本気とも冗談ともつかない口調で、ものすごく重いことが云われていた。周知の通り、戦後の太宰さんは、「道徳革命」を身をもって実践しなければならぬ、という戒律をきびしく自分に科し、大変な無理をしてその道を突っ走っていった。現在は「革命」という事そのことの価値が、根本的に問い直されている時と思うが、太宰さんは、革命があたかも歴史の神の至上命令ででもあるかのような重みを持っていた二〇世紀の、一時期を、何はともあれ最も誠実に、多感に、生きぬいた人であった。そのために、比類を絶して深く大きい苦悩を背負った。その意味で、まさしく「二十世紀旗手」であった。
 「ちょっと出掛けてきますから、里子をお願いします。」
 奥様がそんなふうに云って出て行かれた。近所に買物に行かれたらしい。その年の三月に生れたばかりの次女里子さんが、ぼくの背後にあたる隣室に、寝かしつけられていたのである。
 奥様が出掛けられて暫くたったとき、太宰さんはとつぜん布団のうえにむっくり起き上がると、ぼくの顔と太宰さんの顔とが間近に向きあう位置にすわり直された。そしてやや早口に、然しいつも通りの淡々とした口調で、ぼくとしては意外とも何とも言いようがないほど意外だったことを、云われた。
 「菊田、ぼくはネ、あと一年ぐらい経ったら、ある女と一緒に死ななければならないことになっているんだよ。」
 鮮明な、正確な記憶とは、云い切れない。けれども、大体のところはこの通りだったと云える。
 この時よりもっとまえ、太宰さんが疎開先の金木から三鷹に戻られてまもない頃から、と云ったらいいだろうか、ぼくは自分の家に居ながらも、いつも三鷹の上空に不吉な暗雲が立ち籠めているような感じがしてならなかった。太宰さんの身に、何か取り返しのつかない事が、今日は起るか明日は起るか、という不安が常住絶えなかったのである。
 いま太宰さんの云われたことは、ぼくのその不安を、ずばり現実化したようなものである。その意味では、けっして意外でも予想外でもなかった。だが、そういう言葉が、太宰さんから自分にむかって発しられるとは、夢にも思わぬことだった。
 (そんなことが、なぜいま自分に向って云われたのか。そんなことを云われたって、おれにはどうしようもない。太宰さんのような大天才、しかも人一倍巨大な苦悩を背負って生きてきた天才から、今更そんなことを云われたって、どうしようがあるものか。天才の苦悩は天才ご自身と、神との間で決着を付けていただくしかない。おれにはただ黙って、すべてのなりゆきを凝視していることができるだけだ。)
 ぼくは深く眼を伏せたまま、そんなことを思いつづけて、一言も発せずに押し黙っていた。ぼくの顔は、さぞかし冷酷そのものの鬼面だったにちがいない。すごく重かったわりには、短い時間だったのだろうが、そのあいだ太宰さんも沈黙していた。

 

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菊田義孝(きくたよしたか)

 

 そのときちょうど隣室で、眼を醒ましたとみえる里子さんの泣き声がひびいてきた。太宰さんは、さっと身軽に立ち上がって、隣室へ行くと、生後四ヵ月の里子さんを両手に抱えて、「おおよし、おおよし。」とか云いながら戻ってこられた。そして布団のうえの、今まではぼくとの間にやや距離をおいた位置に、どっかりとあぐらをかかれた。
 「おおよし、おおよし。」
と太宰さんが懸命にあやしても、里子さんは一向に泣き止もうとはしない。いわゆる「火がついたように」泣き叫びつづける。
 「これじゃ、まるで、地獄だ。」
 太宰さんは、いかにも大仰に口を歪め、眉をしかめてそう云われた。実感をもって云われたというよりは、なかば照れ隠しに云われた言葉のように聞き取れた。
 里子さんの泣き声がやや鎮まってきた。その小さなからだを、太宰さんは自分の大きな膝のうえでなおも静かに揺すぶりながら、そのころ「近代文学」誌上で評論家荒正人が、戦犯として追放されるべきだと彼が考える文学者を名指しで論評し、文学界の話題となっていた、そのことを口にされた。そして、
 「ぼくに云わせれば荒正人自身、思想貧困という理由で、真っ先に追放されるべきだがね。」
と笑いを含んで云われた。そのあとでふと思いついたように、
 「ぼくの追放者名簿によれば、菊田も追放。理由は、愛情うすしだよ。」
 戦争中と変りのない、あたたかで丸味があってマイルドな声音で云われたのだが、その内容には、戦争中はけっして表面に出されなかった厳しさがあった。君子豹変というのか、疎開先金木から三鷹に帰ってこられてからの太宰さんの態度は、戦中のそれとはがらりと違っていた。ぼくはこれから傲慢になるのだ、とどこかに書いてもおられた通り、だらしないぼくらの心の隙を見つけては、容赦ない言葉でビシビシと打ち据えられた。
 いまの言葉が、太宰さんの打ち明け話に対して、たった一言の応答もできなかった(しなかった)ぼくに対する、最後通牒とでもいうか、痛烈きわまる非妥協的な裁決であることは、疑いを容れない。ぼくには、自分に絶望する以外、どう受け取りようもない言葉だった。絶望して、そのあと早々にその場を辞した結果か、ぼくのその日の記憶は、そこまででプツンととぎれている。
 あれからもう四八年経ったが、太宰さんのあの一言に対して、ぼくとしては、未だに一言もかえす言葉がない全く云われるとおりです。愛情薄し。まさしくそれが、わたしというものです。とあのとき思ったように、今でもそう思っているだけである。

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 【了】

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【参考文献】
・『太宰治研究 3』(和泉書院、1996年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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