記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】如是我聞(三)

f:id:shige97:20210214143058j:plain

今週のエッセイ

◆『如是我聞(にょぜがもん)(三)』
 1948年(昭和23年)、太宰治 39歳。
 1948年(昭和23年)5月12日から14日までの間に脱稿。
 『如是我聞(三)』は、1948年(昭和23年)6月1日発行の「新潮」第四十五年第六号に掲載された。

「如是我聞(三)

 謀叛(むほん)という言葉がある。また、官軍、賊軍という言葉もある。外国には、それとぴったり合うような感じの言葉が、あまり使用せられていないように思われる。裏切り、クーデタ、そんな言葉が主として使用せられているように思われる。「ご謀叛でござる。ご謀叛でござる。」などと騒ぎまわるのは、日本の本能寺あたりにだけあるように思われる。そうして、所謂官軍は、所謂賊軍を、「すべて烏合(うごう)の衆なるぞ」と歌って気勢をあげる。謀叛は、悪徳の中でも最も甚だしいもの、所謂賊軍は最もけがらわしいもの、そのように日本の世の中がきめてしまっている様子である。謀叛人も、賊軍も、よしんば勝ったところで、所謂三日天下であって、ついには滅亡するものの如く、われわれは教えられてきているのである。考えてみると、これこそ陰惨な封建思想の露出である。
 むかしも、あんなことをやった奴があって、それは権勢慾、或いは人気とりの軽業に過ぎないのであって、言わせておいて黙っているうちに、自滅するものだ、太宰も、もうこれでおしまいか、忠告せざるべからず、と心配して下さる先輩もあるようであるが、しかも古来、負けるにきまっていると思われている所謂謀叛人が、必ずしも、こんどは、負けないところに民主革命の意義も存するのではあるまいか。
 民主主義の本質は、それは人によっていろいろに言えるだろうが、私は、「人間は人間に服従しない」あるいは、「人間は人間を征服出来ない、つまり、家来にすることが出来ない」それが民主主義の発祥の思想だと考えている。
 先輩というものがある。そうして、その先輩というものは、「永遠に」私たちより偉いもののようである。彼らの、その、「先輩」というハンデキャップは、(ほとん)ど暴力と同じくらいに荒々しいものである。例えば、私が、いま所謂先輩たちの悪口を書いているこの姿は、ひよどり越えのさか落しではなくて、ひよどり越えのさか上りの(てい)のようである。岩、かつら、土くれにしがみついて、ひとりで、よじ登って行くのだが、しかし、先輩たちは、山の上に勢ぞろいして、煙草をふかしながら、私のそんな浅間しい姿を見おろし、馬鹿だと言い、きたならしいと言い、人気とりだと言い、逆上気味と言い、そうして、私が少し上に登りかけると、極めて無雑作に、彼らの足もとの石ころを一つ蹴落(けおと)してよこす。たまったものではない。ぎゃっという醜態の悲鳴とともに、私は落下する。山の上の先輩たちは、どっと笑い、いや、笑うのはまだいいほうで、蹴落して知らぬふりして、マージャンの卓を囲んだりなどしているのである。
 私たちがいくら声をからして言っても、所謂世の中は、半信半疑のものである。けれども、先輩の、あれは駄目だという一言には、ひと頃の、勅語の如き効果がある。彼らは、実にだらしない生活をしているのだけれども、所謂世の中の信用を得るような暮し方をしている。そうして彼らは、ぬからず、その世の中の信頼を利用している。 永遠に、私たちは、彼らよりも駄目なのである。私たちの精一ぱいの作品も、彼らの作品にくらべて、読まれたものではないのである。彼らは、その世の中の信頼に便乗し、あれは駄目だと言い、世の中の人たちも、やっぱりそうかと容易に合点し、所謂先輩たちがその気ならば、私たちを気狂(きちが)い病院にさえ入れることが出来るのである。
 奴隷(どれい)根性。
 彼らは、意識してか或いは無意識か、その奴隷根性に最大限にもたれかかっている。
 彼らのエゴイズム、冷たさ、うぬぼれ、それが、読者の奴隷根性と実にぴったりマッチしているようである。或る評論家は、ある老大家の作品に三拝九拝し、そうして曰く、「あの先生にはサーヴィスがないから偉い。太宰などは、ただ読者を面白がらせるばかりで、……」
 奴隷根性も極まっていると思う。つまり、自分を、てんで問題にせず恥しめてくれる作家が有り難いようなのである。評論家には、このような謂わば「半可通」が多いので、胸がむかつく。墨絵の美しさがわからなければ、高尚な芸術を解していないということだ、とでも思っているのであろうか。光琳(こうりん)の極彩色は、高尚な芸術でないと思っているのであろうか。渡辺崋山(かざん)の絵だって、すべてこれ優しいサーヴィスではないか。
 頑固。怒り。冷淡。健康。自己中心。それが、すぐれた芸術家の特質のようにありがたがっている人もあるようだ。それらの気質は、すべて、すこぶる男性的のもののように受取られているらしいけれども、それは、かえって女性の本質なのである。男は、女のように容易には怒らず、そうして優しいものである。頑固などというものは、無教養のおかみさんが、持っている(すこぶ)る下等な性質に過ぎない。先輩たちは、も少し、弱いものいじめを、やめたらどうか。所謂「文明」と、最も遠いものである。それは、腕力でしかない。おかみさんたちの、井戸端会議を、お聞きになってみると、なにかお気附きになる筈である。
 後輩が先輩に対する礼、生徒が先生に対する礼、子が親に対する礼、それらは、いやになるほど私たちは教えられてきたし、また、多少、それを遵奉(じゅんぽう)してきたつもりであるが、しかし先輩が後輩に対する礼、先生が生徒に対する礼、親が子に対する礼、それらは私たちは、一言も教えられたことはなかった。
 民主革命。
 私はその必要を痛感している。所謂有能な青年女子を、荒い破壊思想に追いやるのは、民主革命に無関心なおまえたち先輩の頑固さである。
 若いものの言い分も聞いてくれ! そうして、考えてくれ! 私が、こんな如是我聞(にょぜがもん)などという拙文をしたためるのは、気が狂っているからでもなく、思いあがっているからでもなく、人におだてられたからでもなく、(いわ)んや人気とりなどではないのである。本気なのである。昔、誰それも、あんなことをしたね、つまり、あんなものさ、などと軽くかたづけないでくれ。昔あったから、いまもそれと同じような運命をたどるものがあるというような、いい気な独断はよしてくれ。
 いのちがけで事を行うのは罪なりや。そうして、手を抜いてごまかして、安楽な家庭生活を目ざしている仕事をするのは、善なりや。おまえたちは、私たちの苦悩について、少しでも考えてみてくれたことがあるだろうか。
 結局、私のこんな手記は、愚挙ということになるのだろうか。私は文を売ってから、既に十五年にもなる。しかし、いまだに私の言葉には何の権威もないようである。まともに応接せられるには、もう二十年もかかるのだろう。二十年。手を抜いたごまかしの作品でも何でもよい、とにかく抜け目なくジャアナリズムというものにねばって、二十年、先輩に対して礼を尽し、おとなしくしていると、どうやらやっと、「信頼」を得るに到るようであるが、そこまでは、私にもさすがに、忍耐力の自信が無いのである。
 まるで、あの人たちには、苦悩が無い。私が日本の諸先輩に対して、最も不満に思う点は、苦悩というものについて、全くチンプンカンプンであることである。
 何処(どこ)に「暗夜」があるのだろうか。ご自身が人を、許す許さぬで、てんてこ舞いしているだけではないか。許す許さぬなどというそんな大それた権利が、ご自身にあると思っていらっしゃる。いったい、ご自身はどうなのか。人を審判出来るがらでもなかろう。
 志賀直哉という作家がある。アマチュアである。六大学リーグ戦である。小説が、もし、絵だとするならば、その人の発表しているものは、(しょ)である、と知人も言っていたが、あの「立派さ」みたいなものは、つまり、あの人のうぬぼれに過ぎない。腕力の自信に過ぎない。本質的な「不良性」或いは、「道楽者」を私はその人の作品に感じるだけである。高貴性とは、弱いものである。へどもどまごつき、赤面しがちのものである。所詮あの人は、成金に過ぎない。
 おけらというものがある。その人を尊敬し、かばい、その人の悪口を言う者をののしり殴ることによって、自身の、世の中に於ける地位とかいうものを危うく保とうと汗を流して懸命になっている一群のものの(いい)である。最も下劣なものである。それを、男らしい「正義」かと思って自己満足しているものが大半である。国定忠治の映画の影響かも知れない。
 真の正義とは、親分も無し、子分も無し、そうして自身も弱くて、何処かに収容せられてしまう姿に於て認められる。重ね重ね言うようだが、芸術に於ては、親分も子分も、また友人さえ、無いもののように私には思われる。
 全部、種明しをして書いているつもりであるが、私がこの如是我聞という世間的に言って、明らかに愚挙らしい事を書いて発表しているのは、何も「個人」を攻撃するためではなくて、反キリスト的なものへの戦いなのである。
 彼らは、キリストと言えば、すぐに軽蔑(けいべつ)の笑いに似た苦笑をもらし、なんだ、ヤソか、というような、安堵(あんど)に似たものを感ずるらしいが、私の苦悩の殆ど全部は、あのイエスという人の、「己れを愛するがごとく、汝の隣人を愛せ」という難題一つにかかっていると言ってもいいのである。
 一言で言おう、おまえたちには、苦悩の能力が無いのと同じ程度に、愛する能力に於ても、全く欠如している。おまえたちは、愛撫(あいぶ)するかも知れぬが、愛さない。
 おまえたちの持っている道徳は、すべておまえたち自身の、或いはおまえたちの家族の保全、以外に一歩も出ない。
 重ねて問う。世の中から、追い出されてもよし、いのちがけで事を行うは罪なりや。
 私は、自分の利益のために書いているのではないのである。信ぜられないだろうな。
 最後に問う。弱さ、苦悩は罪なりや。

 これを書き終えたとき、私は偶然に、ある雑誌の座談会の速記録を読んだ。それによると、志賀直哉という人が、「二、三日前に太宰君の『犯人』とかいうのを読んだけれども、実につまらないと思ったね。始めからわかっているんだから、しまいを読まなくたって落ちはわかっているし……」と、おっしゃって、いや、言っていることになっているが、(しかし、座談会の速記録、或いは、インタヴィユは、そのご本人に覚えのないことが多いものである。いい加減なものであるから、それを取り上げるのはどうかと思うけれども、志賀という個人に対してでなく、そういう言葉に対して、少し言い返したいのである)作品の最後の一行に於て読者に背負い投げを食わせるのは、あまりいい味のものでもなかろう。所謂「落ち」を、ひた隠しに隠して、にゅっと出る、それを、並々ならぬ才能と見做(みな)す先輩はあわれむべき哉、芸術は試合でないのである。奉仕である。読むものをして傷つけまいとする奉仕である。けれども、傷つけられて喜ぶ変態者も多いようだからかなわぬ。あの座談会の速記録が志賀直哉という人の言葉そのままでないにしても、もしそれに似たようなことを言ったとしたなら、それはあの老人の自己破産である。いい気なものだね。うぬぼれ鏡というものが、おまえの家にもあるようだね。「落ち」を避けて、しかし、その暗示と興奮で書いて来たのはおまえじゃないか。
 なお、その老人に茶坊主の如く阿諛追従(あゆついしょう)して、まったく左様でゴゼエマス、大衆小説みたいですね、と言っている卑しく()せた俗物作家、これは論外。

 

「晩年のころ」の太宰

 太宰最後のエッセイとなる『如是我聞』は、1948年(昭和23年)3月1日発行の「新潮」第四十五年第三号から同年7月1日発行の「新潮」第四十五年第七号にかけて、4回にわたって連載されました(ただし、同年4月1日発行の「新潮」第四十五年第四号は休載)。

 今回は、人間失格が連載された、筑摩書房が発行する総合雑誌「展望」の編集長を務めた臼井吉見(うすいよしみ)(1905~1987)の同時代回想「晩年のころ」(山内祥史 編太宰治に出会った日所収)を引用し、『如是我聞』執筆の頃、太宰の晩年について見ていきます。

 やはり思い出すのは、あの日のことだ。太宰が世を去ったのは二十三年の六月十三日だが、その二十日ほど前かと思う。「人間失格」の「第三の手記」の前半は三鷹で書き、残りの五十枚を書くため、大宮の宿屋へ出かける二三日前だった。たしか日曜日だったと思う。当時ぼくは本郷の筑摩書房の二階に、ひとりで寝おきしていた。ひるすぎ電話が鳴って、いま豊島与志雄の宅に来ているが、よかったら遊びに来ないかと言ってきた。もはや、かなり酔っているらしい声だった。ぼくは豊島さんに面識はあったがお宅へは伺ったことがなかったので、(はなは)だ気が進まなかったが、日曜日のこととてどこへも連絡できないままに、ぼくなどを呼び出したのに相違ないと思ったから、神田の某所へたのんで、ウイスキーを一本都合してもらい、出かけて行った。当時、酒類は簡単には入手できなかったからだ。肴町の停留場から団子坂のほうへ、ぶらぶらやってゆくと、むこうから、サッチャンらしき女が小走りに近づいてくる。サッチャンとは太宰を死の道づれにした女性の通称で、太宰は「スタコラのサッチャン」という愛称で呼んでいた。いかにもスタコラとやってくる。ぼくは立ちどまって、待ちうけたが、すれちがうようになっても、気がつかない様子だった。かの女は強度の近眼だったが、太宰がメガネをきらっていたので、滅多にはかけなかったようだ。呼びかけて聞くと、太宰の今夜服用するクスリを買いに行くのだという。「早く行ってあげてください」と、いそいそとまた小走りにたち去った。

 

f:id:shige97:20210905135405j:image
豊島与志雄(とよしまよしお)(1890~1955) 日本の小説家、翻訳家、仏文学者、児童文学者。明治大学文学部教授も勤めた。太宰は、晩年に豊島を最も尊敬し、愛人・山崎富栄を伴って、度々豊島の自宅を訪れては酒を酌み交わした。豊島も太宰の気持ちを受け入れ、その親交は太宰が亡くなるまで続いた。

 

 豊島さんは自慢の鶏料理の腕前をふるわれている最中だった。御両人とも大分酔いがまわっていて、甚だ御機嫌だった。ぼくが意外に思ったのは、太宰はこのとき豊島さんに初対面だったらしいことだ。太宰の全集が八雲書店から出ることになって、その第一巻が出たばかりだったが、各巻の解説を豊島さんが執筆することになったので、その御礼に出かけて来たものらしかった。ぼくの察したところでは、当時八雲書店にKという向う気の強い、ハッタリの若い編集者がいたが、これが太宰と豊島さんとの双方に近づいていたが、豊島さんが太宰に好意をもっているようなことを伝えたに相違なく、戦後青森の疎開先から上京して、人気の頂上にたち、若い崇拝者にとりかこまれていたかれは、どういうものか、長い間面倒をかけてきた井伏さんから遠ざかるような姿勢を示したり、例の「如是我聞」で、志賀さんに悲壮な反撃を加えたりしていたころだったので、人づてに聞き知った豊島さんの好意に、かれのことだからうれしくてたまらなかったのではなかろうか。花形作家として人気を集め、若い崇拝者たちにとりかこまれていたかれにとって、井伏さんはニガ手だったに相違なく、一種の反撥(はんぱつ)さえ感じていたようにぼくは察している。志賀さんに対しても、かれはかねがね尊敬していたらしいが、自分の作品を酷評されて、猛然反撃に燃えたったというのが真相ではないかと思う。作家は誰だって賞讃されることの嫌いなものはないが、太宰ほどほめられることの好きなものもなかった。処女作ともいうべき短篇「」の冒頭に、「撰ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり」というヴェレェヌの言葉をかきつけているかれは、すでに「ヴィヨンの妻」や「斜陽」の作者として、より多く「恍惚」を感じていたであろうが、同時にまた井伏さんの容赦ない眼や志賀さんの手きびしい批評に対して、一種の「不安」もあったかと思われる。それだけに、たとい人づてにせよ、豊島さんの好意を知って、子どものようにうれしかったにちがいない。

 

f:id:shige97:20220428192833j:image

 

 サッチャンも戻ってきて、いよいよ酒席はにぎやかになった。ぼくは師匠の選択をまちがった、ぼくは豊島先生の作品がむかしから大好きだったのに、先生を師匠にしなかったのは残念だ、というようなオベンチャラを太宰はくりかえした。ぼくはこの雰囲気に居たたまらないようなものを感じたので、いいかげんのところで逃げることにした。外へ出ると、サッチャンが追っかけてきて、太宰さんのからだがひどく悪くて、今日など歩くのさえ苦痛らしい、病院へ入って、そこで気のむいたときだけ書くというのがいちばんいいと思うが、わたしというものがついているでしょう、奥さんにすぐわかってしまうし、だからどんなにすすめても入院なんかしないと言っているし、……というようなことをせきこむように話しかけて来た。ぼくはへんなことを言う女だナ、「わたしというものがついているでしょう」とは何だ、入院すれば看護婦でも家政婦でもたのめるわけであり、何も「わたしというもの」などくっついてる必要などどこにあるんだと思ったので、怒ったようにフン、フンと聞きとっただけで、かの女と別れた。これはどうしても、入院させなくちゃならない、少くとも新聞小説を書くなどは無茶だと思い、あれこれと対策を考えながら帰ってきた。太宰は近いうちに、朝日新聞の連載小説を書くことになっていたのである。

 

f:id:shige97:20200322120820j:image
■「サッチャン」こと、太宰の愛人・山崎富栄

 

 

 気になったので、翌日夕刻になって、もう一度豊島さんのところへ出かけ、太宰をつれ出してサッチャンと三人づれで帰ってきた。かれはあれから飲みつづけて、豊島さんの宅に一泊し、朝からまた酒になったものらしい。ぼくは自分ながら不興げな顔で、君はむかしから豊島さんの小説が大好きだったというが、いったいどんなのが好きなんだと聞くと、ニヤリと笑って、頬を(でて、「いやア、実は何にも読んでいないんだよ」と答えた。こいつ(、、、と思ってぼくはそれきり口をきかなかった。途中で筑摩書房へ寄るという。書房には、ちょうど唐木順三も来合せており、編集者のおおかたは残っていた。階下の応接室で若い編集者たちにとりかこまれると、にわかに元気づいて、ひどくはしゃいで、さかんな談笑がはじまった。少し若い者どもを教育しなくちゃ、などと言って、かれは大気焔(だいきえんで、若い者たちをからかった。いつのまにか、酒もはじまるという始末だった。そのときの太宰の気焔はなかなか、おもしろかったが、特に忘れられないのは、自分は決しておりない(、、、、という説だった。花札をやる場合に、手がわるいとおりる(、、、だろう、小説だって手がわるいとおりて(、、、しまう、井伏さんだってそうだよ、あんなのは話にならんね、手がわるけりゃおりる(、、、、楽なことだよ、僕あ、どんなに手がわるくたって決しておりないね、というような気熖だった。これは、いまのからだの状態で朝日新聞の小説は無理ではないかという、さっきの帰り道にぼくが遠まわしに言ったことを勘定に入れての言葉にちがいないとぼくは思っていた。唐木などもしきりに、おりる(、、、ときにはおりる(、、、のがいいんだ、君もときどきおりろ(、、、よというようなことを言っていた。ぼくの(うれいは、旅に出たり、釣りに行って慰めるようなものじゃないよ、井伏さんの愁いなどは釣り竿をかつぎ出せば消えちまうものなんだからなアというようなことも言っていた。へんに井伏さんにこだわっているのが気になった。しかし、かれが陽気にはしゃげばはしゃぐほど、さびしげな影がつきまとうような感じだった。間もなく、かれとしてはめずらしいほど、がっくり酔って倒れてしまい、動かすことさえできない状態だった。ぼくのフトンを二階からおろして、板の間に敷き、みんなでかれを運びこんだ。その夜、一組しかないフトンを太宰にゆずって、ぼくは知り合いの家へ行って泊った。翌朝行ってみると、太宰はひどく上機嫌で、若い編集者をつかまえて、井伏鱒二選集第四巻のあとがきを口述していた。

 

f:id:shige97:20200607083123j:plain
■太宰と井伏 杉並区清水町にて、「小説新潮」のグラビア撮影に臨む。1948年(昭和23年)、撮影:北野邦雄

 

「人間の一生は、旅である。私なども、女房の傍に居ても、子供と遊んで居ても、恋人と街を歩いても、それが自分の所謂(いわゆる)ついに落ち着くことを得ないのであるが、この旅もまた、旅行上手というものと、旅行下手というものと両者が存するようである。旅行下手というものは、旅行の第一日に(おい)て、既に旅行をいやになるほど満喫し、二日目は、旅費の(ほと)んど全部を失っていることに気がつき、旅の風景を享楽するどころか、まことに俗な、金銭の心配だけで、へとへとになり、旅行も地獄、這うようにして女房の(もと)に帰り、そうして女房に怒られているものである。旅行上手の者に到っては事情がまるで正反対である。ここで具体的に井伏さんの旅行のしかたを紹介しよう……」と、井伏さんがいかに旅行上手であるかを語りつづけた。ぼくはこの(よど)みない口述をききながら、改めて太宰のケンランたる才華と、したたかな精神に驚嘆した。昨夜のかれの井伏論をこのようにメタモルホーゼして、しかしそ知らぬ顔で、同じことを述べているわけである。かれは、ぼくのほうをチラッと見て、いたずら子らしく笑い、どう君、ゆうべの議論とまるで正反対だろうと言った。こいつめ(、、、、)と思いながら、とにかくこの異常な才能にぼくは舌をまいた。
 ぼくは思うのだが、このときの太宰の末期の眼には、志賀、井伏の文学と自分のそれとのちがいが、透きとおるほどはっきり映っていたのではなかろうか。「如是我聞」にしても、尊敬する老大家に自分の文学をはっきり対立させている。最近「志賀直哉論」をかいた中村光夫が、「如是我聞」のなかにはおれの言いたいことをみんな言っているよと語ったが、ぼくもそう思う。(前にかいた「『人間失格』のころ」という雑文と一部重複するが、この小文はそれにわざと書きもらしたことを書こうとしたからである。)(「展望」編集長)

f:id:shige97:20220426073441j:image
臼井吉見 編集者、評論家、小説家。日本藝術院会員。

 【了】

********************
【参考文献】
・山内祥史 編『太宰治に出会った日』(ゆまに書房、1998年)
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

太宰治39年の生涯を辿る。
 "太宰治の日めくり年譜"はこちら!】

太宰治の小説、全155作品はこちら!】

太宰治の全エッセイ、
 バックナンバーの一覧はこちら!】