【冒頭】
茶店の老婆が、親子どんぶりを一つ、盆に捧げて持って来た。
「食べたら、どうかね。」
少年は、急に顔を真赤にして、「君は?食べないの?」と人が変ったようなおどおどした口調で言って、私の顔を覗き込む。
「僕は、要らない。」私は、出来るだけ自然の風を装って番茶を飲み、池の向うの森を眺めた。
「いただきます。」と少年の、つつましい小さい声が聞えた。
【結句】
神宮通りをすたこら歩いた。葉山家、映画の会は、今夜だという。急がなければならぬ。
「ここです。」少年は立ちどまった。
古い板塀の上から、こぶしの白い花が覗いていた。素人下宿らしい。
「くまもとう!」と少年は、二階の障子に向って叫んだ。
「くまもと、くん。」と私も、いつしか学生になってたつもりで、心易く大声で呼びたてた。
「乞食学生 第三回」について
・昭和15年7月24日頃までに脱稿。
・昭和15年9月1日、『若草』九月号に発表。
全文掲載(「青空文庫」より)
第三回
茶店の老婆が、親子どんぶりを一つ、
「食べたら、どうかね。」
少年は、急に顔を真赤にして、「君は? 食べないの?」と人が変ったようなおどおどした口調で言って、私の顔を
「僕は、
「いただきます。」と少年の、つつましい小さい声が聞えた。
「どうぞ。」と私は、少年をてれさせないように努めて淡泊の返事をして、また、ゆっくりと番茶を
「
その時には、私は、ただ困った。何事も知らぬ顔して、池のほうへ、そっと視線を返し、自分の心を落ちつかせる為に袂から
「僕の名はね、」あきらかに泣きじゃくりの声で、少年は、とぎれとぎれに言い出した。「僕の名はね、
「小学校の先生が、なぜそんなに恥ずかしい商売なんだ。」私は、思わず大声になり、口を
「知らないんだよ、君は。」少年の声も、すこし大きくなった。「知らないんだよ。村の金持の子供には、先生のほうから御機嫌をとらなくちゃいけないんだ。校長や、村長との関係も、それや、ややこしいんだぜ。言いたくもねえや。僕は、先生なんていやだ。僕は、本気に勉強したかったんだ。」
「勉強したら、いいじゃないか。」根が、狭量の私は、先刻この少年から受けた侮辱を未だ忘れかねて、やはり意地悪い言いかたをしていた。「さっきの元気は、どうしたんだい。だらしの無い奴だ。男は、泣くものじゃないよ。そら、鼻でもかんで、しゃんとし給え。」私は、やはり池の面を眺めたままで、懐中の一帖の鼻紙を、少年の膝のほうに、ぽんと抛ってやった。
少年は、くすと笑って、それから素直に鼻をかんで、
「なんと言ったらいいのかなあ。へんな気持なんだよ。
「君はそれを
「ヴァレリイってのは、フランスの人でしょう?」
「そうだ。一流の文明批評家だ。」
「フランスの人だったら、だめだ。」
「なぜ?」
「戦敗国じゃないか。」少年の大きな黒い眼には、もう涙の跡も無く、涼しげに笑っている。「亡国の言辞ですよ。君は、人がいいから、だめだなあ。そいつの言ってる秩序ってのは、古い昔の秩序の事なんだ。古典擁護に違いない。フランスの伝統を誇っているだけなんですよ。うっかり、だまされるところだった。」
「いや、いや、」私は狼狽して、あぐらを組み直した。「そういう事は無い。」
「秩序って言葉は、素晴しいからなあ。」少年は、私の拒否を無視して、どんぶりを片手に持ったまま、ひとりで詠嘆の言葉を発し、うっとりした眼つきをして見せた。「僕は、フランス人の秩序なんて信じないけれど、強い軍隊の秩序だけは信じているんだ。僕には、ぎりぎりに苛酷の秩序が欲しいのだ。うんと自分を、しばってもらいたいのだ。僕たちは、みんな、戦争に行きたくてならないのだよ。生ぬるい自由なんて、飼い殺しと同じだ。何も出来やしないじゃないか。
「何を言ってやがる。君は、一ばん骨の折れるところから、のがれようとしているだけなんだ。千の主張よりも、一つの忍耐。」
「いや、千の知識よりも、一つの行動。」
「そうして君に出来る唯一の行動は、まっぱだかで人喰い川を泳ぐだけのものじゃないか。ぶんを知らなくちゃいけない。」私は、勝ったと思った。
「さっきは、あれは、特別なんだよ。」少年は、大人のような老いた苦笑をもらした。「どうも、ごちそうさま。」と神妙にお辞儀して、どんぶりを傍に片附け、「事情があったんだよ。聞いてくれるかね?」
「言ってみ給え。」
「言ってみたって、どうにもならんけど、このごろ僕は、目茶苦茶なんだよ。中学だけは、家のお金で卒業できたのだけれど、あとが続かなかったんだ。貧乏なんだよ。僕は数学を、もっと勉強したかったから、父に無断で高等学校に受けて、はいったんだ。葉山さんを知ってるかい? 葉山圭造。いつか、鉄道の参与官か何かやっていた。代議士だよ。」
「知らないね。」私は、なぜだか、いらいらして来た。どうも私は、人の身の上話を聞く事は、下手である。われに何の
「まあ、そうだ。」少年は、ひどく落ちついた口調である。「僕の郷土の先輩なんだ。郷土の先輩なんて、
「教えながら教わっていたのかね。」私は、早くこの話を、やめてもらいたかった。少しも興味が無い。
「女学校三年の娘がひとりいるんだ。
「ほのかな恋愛かね。」私は、いい加減な事ばかり言っていた。
「ばか言っちゃいけない。」少年は、むきになった。「僕には、プライドがあるんだ。このごろ、だんだんそいつが、僕を小使みたいに扱って来たんだよ。奥さんも、いけないんだがね。とうとう、きのう我慢出来なくなっちゃって、――」
「僕は、つまらないんだよ、そういう話は。世の中の概念でしか無い。歩けば疲れる、という話と同じ事だ。」私は、この少年と共に今まで時を費したのを後悔していた。
「君は、お坊ちゃん育ちだな。人から金をもらう、つらさを知らないんだ。」少年は、負けていなかった。「概念的だっていい。そんな、平凡な苦しさを君は知らないんだ。」
「僕だって、それや知っているつもりだがね。わかり切った事だ。胸に
「それじゃ君は、映画の説明が出来るかね?」少年と私とは、先刻から、視線を平行に池の面に放って、並んで坐ったままなのである。
「映画の説明?」
「そうさ。娘が、この春休みに北海道へ旅行に行って、そうして、十六ミリというのかね、北海道の風景を、どっさり撮影して来たというわけさ。おそろしく長いフィルムだ。僕も、ちょっと見せてもらったがね。しどろもどろの実写だよ。こんどそれを葉山さんのサロンで公開するんだそうだ。
「それあいい。」私は、大声で笑ってしまった。「いいじゃないか。北海道の春は、いまだ浅くして、――」
「本気で言ってるのかね?」少年の声は、怒りに震えているようであった。
私は、あわてて頬を固くし、真面目な口調に返り、
「僕なら、平気でやってのけるね。自己優越を感じている者だけが、真の道化をやれるんだ。そんな事で憤慨して、制服をたたき売るなんて、意味ないよ。ヒステリズムだ。どうにも仕様がないものだから、川へ飛びこんで泳ぎまわったりして、センチメンタルみたいじゃないか。」
「傍観者は、なんとでも言えるさ。僕には、出来ない。君は、嘘つきだ。」
私は、むっとした。
「じゃ、これから君は、どうするつもりなんだい。わかり切った事じゃないか。いつまでも、川で泳いでいるつもりなのか。帰るより他は無いんだ。元の生活に帰り給え。僕は忠告する。君は、自分の幼い正義感に甘えているんだ。映画説明を、やるんだね。なんだい、たった一晩の屈辱じゃないか。堂々と、やるがいい。僕が代ってやってもいいくらいだ。」最後の一言がいけなかった。とんでも無い事になったのである。私は少年から、嘘つき、と言われ、奇妙に痛くて逆上し、あらぬ事まで口走り、のっぴきならなくなったのである。
「君に、出来るものか。」少年は、力弱く笑った。
「出来るとも。出来るよ。」とむきになって言い切った。
それから一時間のち、私は少年と共に、渋谷の神宮通りを歩いていた。ばかばかしい行為である。私は、ことし三十二歳である。自重しなければならぬ。けれども私は、この少年に、口さきばかり、と思われたくないばかりに、こうして共に歩いている。所詮は私も、自分の幼い潔癖に甘えていたのかも知れない。私は自分の不安な
私には、もとより制服も制帽も無い。佐伯にも無い。きのう迄は、あったんだけれど、靴もろとも売ってしまったというのである。借りに行かなければならぬ。佐伯は私の実行力を疑い、この企画に
神宮通りをすたこら歩いた。葉山家、映画の会は、今夜だという。急がなければならぬ。
「ここです。」少年は立ちどまった。
古い板塀の上から、こぶしの白い花が覗いていた。
「くまもとう!」と少年は、二階の
「くまもと、くん。」と私も、いつしか学生になったつもりで、心易く大声で呼びたてた。
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