【冒頭】
津軽半島の東海岸は、昔から外ヶ浜と呼ばれて船舶の往来の繁盛だったところである。青森市からバスに乗って、この東海岸を北上すると、
【結句】
Sさんはその翌日、小さくなって酒を飲み、そこへ一友人がたずねて行って、「どう? あれから奥さんに叱られたでしょう?」と笑いながら尋ねたら、Sさんは、処女の如くはにかんで、
「いいえ。まだ」と答えたという。
叱られるつもりでいるらしい。
「津軽」について
・新潮文庫『津軽』所収。
・昭和19年7月末までに脱稿。
・昭和19年11月15日、「新風土記叢書7」として小山書店から刊行。
全文掲載(「青空文庫」より)
二 蟹田
津軽半島の東海岸は、昔から外ヶ浜と呼ばれて船舶の往来の繁盛だつたところである。青森市からバスに乗つて、この東海岸を北上すると、
蟹田のN君の家では、赤い猫脚の大きいお膳に蟹を小山のやうに積み上げて私を待ち受けてくれてゐた。
「リンゴ酒でなくちやいけないかね。日本酒も、ビールも駄目かね。」と、N君は、言ひにくさうにして言ふのである。
駄目どころか、それはリンゴ酒よりいいにきまつてゐるのであるが、しかし、日本酒やビールの貴重な事は「
「それあ、どちらでも。」私は複雑な微笑をもらした。
N君は、ほつとした面持で、
「いや、それを聞いて安心した。僕は、どうも、リンゴ酒は好きぢやないんだ。実はね、女房の奴が、君の手紙を見て、これは太宰が東京で日本酒やビールを飲みあきて、故郷の匂ひのするリンゴ酒を一つ飲んでみたくて、かう手紙にも書いてゐるのに相違ないから、リンゴ酒を出しませうと言ふのだが、僕はそんな筈は無い、あいつがビールや日本酒をきらひになつた筈は無い、あいつは、がらにも無く遠慮をしてゐるのに違ひないと言つたんだ。」
「でも、奥さんの言も当つてゐない事はないんだ。」
「何を言つてる。もう、よせ。日本酒をさきにしますか? ビール?」
「ビールは、あとのはうがいい。」私も少し図々しくなつて来た。
「僕もそのはうがいい。おうい、お酒だ。お燗がぬるくてもかまはないから、すぐ持つて来てくれ。」
私は、中学時代には、よその家へ遊びに行つた事は絶無であつたが、どういふわけか、同じクラスのN君のところへは、実にしばしば遊びに行つた。N君はその頃、寺町の大きい酒屋の二階に下宿してゐた。私たちは毎朝、誘ひ合つて一緒に登校した。さうして、帰りには裏路の、海岸伝ひにぶらぶら歩いて、雨が降つても、あわてて走つたりなどはせず、全身濡れ鼠になつても平気で、ゆつくり歩いた。いま思へば二人とも、頗る鷹揚に、抜けたやうなところのある子であつた。そこが二人の友情の鍵かも知れなかつた。私たちはお寺の前の広場で、ランニングをしたり、テニスをしたり、また日曜には弁当を持つて近くの山へ遊びに行つた。「思ひ出」といふ私の初期の小説の中に出て来る「友人」といふのはたいていこのN君の事なのである。N君は中学校を卒業してから、東京へ出て、或る雑誌社に勤めたやうである。私はN君よりも二、三年おくれて東京へ出て、大学に籍を置いたが、その時からまた二人の交遊は復活した。N君の当時の下宿は池袋で、私の下宿は高田馬場であつたが、しかし、私たちはほとんど毎日のやうに逢つて遊んだ。こんどの遊びは、テニスやランニングではなかつた。N君は、雑誌社をよして、保険会社に勤めたが、何せ鷹揚な性質なので、私と同様、いつも人にだまされてばかりゐたやうである。けれども私は、人にだまされる度毎に少しづつ暗い卑屈な男になつて行つたが、N君はそれと反対に、いくらだまされても、いよいよのんきに、明るい性格の男になつて行くのである。N君は不思議な男だ、ひがまないのが感心だ、あの点は祖先の遺徳と思ふより他はない、と口の悪い遊び仲間も、その素直さには一様に敬服してゐた。N君は、中学時代にも金木の私の生家に遊びに来た事はあるが、東京に来てからも、戸塚の私のすぐの兄の家へ、ちよいちよい遊びに来て、さうして、この兄が二十七で死んだ時には、勤めを休んでいろいろの用事をしてくれて、私の肉親たち皆に感謝された。そのうちにN君は、田舎の家の精米業を継がなければならなくなつて帰郷した。家業を継いでからも、その不思議な人徳に依り、町の青年たちの信頼を得て、二、三年前、蟹田の町会議員に選ばれ、また青年団の分団長だの、何とか会の幹事だのいろいろな役を引き受けて、今では蟹田の町になくてならぬ男の一人になつてゐる模様なのである。その夜も、N君の家へこの地方の若い顔役が二、三人あそびに来て一緒にお酒やビールを飲んだけれども、N君の人気はなかなかのものらしく、やはり一座の花形であつた。芭蕉翁の行脚掟として世に伝へられてゐるものの中に、一、好みて酒を飲むべからず、饗応により固辞しがたくとも微醺にして止むべし、乱に及ばずの禁あり、といふ一箇条があつたやうであるが、あの、論語の酒無量不及乱といふ言葉は、酒はいくら飲んでもいいが失礼な振舞ひをするな、といふ意味に私は解してゐるので、敢へて翁の教へに従はうともしないのである。泥酔などして礼を失しない程度ならば、いいのである。当り前の話ではないか。私はアルコールには強いのである。芭蕉翁の数倍強いのではあるまいかと思はれる。よその家でごちそうになつて、さうして乱に及ぶなどといふ、それほどの馬鹿ではないつもりだ。此時一盞無くんば、何を以てか平生を叙せん、である。私は大いに飲んだ。なほまた翁の、あの行脚掟の中には、一、俳諧の外、雑話すべからず、雑話出づれば居眠りして労を養ふべし、といふ条項もあつたやうであるが、私はこの掟にも従はなかつた。芭蕉翁の行脚は、私たち俗人から見れば、ほとんど蕉風宣伝のための地方御出張ではあるまいかと疑ひたくなるほど、旅の行く先々に於いて句会をひらき蕉風地方支部をこしらへて歩いてゐる。俳諸の聴講生に取りまかれてゐる講師ならば、それは俳諸の他の雑話を避けて、さうして雑話が出たら狸寝入りをしようが何をしようが勝手であらうが、私の旅は、何も太宰風の地方支部をこしらへるための旅ではなし、N君だつてまさか私から、文学の講義を聞かうと思つて酒席をまうけたわけぢやあるまいし、また、その夜、N君のお家へ遊びに来られた顔役の人たちだつて、私がN君の昔からの親友であるといふ理由で私にも多少の親しみを感じてくれて、盃の献酬をしてゐるといふやうな実情なのだから、私が開き直つて、文学精神の在りどころを説き来り説き去り、しかうして、雑談いづれば床柱を背にして狸寝入りをするといふのは、あまりおだやかな仕草ではないやうに思はれる。私はその夜、文学の事は一言も語らなかつた。東京の言葉さへ使はなかつた。かへつて気障なくらゐに努力して、純粋の津軽弁で話をした。さうして日常瑣事の世俗の雑談ばかりした。そんなにまでして勤めなくともいいのにと、酒席の誰かひとりが感じたに違ひないと思はれるほど、私は津軽の津島のオズカスとして人に対した。(津島修治といふのは、私の生れた時からの戸籍名であつて、また、オズカスといふのは叔父糟といふ漢字でもあてはめたらいいのであらうか、三男坊や四男坊をいやしめて言ふ時に、この地方ではその言葉を使ふのである。)こんどの旅に依つて、私をもういちど、その津島のオズカスに還元させようといふ企画も、私に無いわけではなかつたのである。都会人としての私に不安を感じて、津軽人としての私をつかまうとする念願である。言ひかたを変へれば、津軽人とは、どんなものであつたか、それを見極めたくて旅に出たのだ。私の生きかたの手本とすべき純粋の津軽人を捜し当てたくて津軽へ来たのだ。さうして私は、実に容易に、随所に於いてそれを発見した。誰がどうといふのではない。乞食姿の貧しい旅人には、そんな思ひ上つた批評はゆるされない。それこそ、失礼きはまる事である。私はまさか個人々々の言動、または私に対するもてなしの中に、それを発見してゐるのではない。そんな探偵みたいな油断のならぬ眼つきをして私は旅をしてゐなかつたつもりだ。私はたいていうなだれて、自分の足もとばかり見て歩いてゐた。けれども自分の耳にひそひそと宿命とでもいふべきものを囁かれる事が実にしばしばあつたのである。私はそれを信じた。私の発見といふのは、そのやうに、理由も形も何も無い、ひどく主観的なものなのである。誰がどうしたとか、どなたが何とおつしやつたとか、私はそれには、ほとんど何もこだはるところが無かつたのである。それは当然の事で、私などには、それにこだはる資格も何も無いのであるが、とにかく、現実は、私の眼中に無かつた。「信じるところに現実はあるのであつて、現実は決して人を信じさせる事が出来ない。」といふ妙な言葉を、私は旅の手帖に、二度も繰り返して書いてゐた。
慎しまうと思ひながら、つい、下手な感懐を述べた。私の理論はしどろもどろで、自分でも、何を言つてゐるのか、わからない場合が多い。嘘を言つてゐる事さへある。だから、気持の説明は、いやなのだ。何だかどうも、見え透いたまづい虚飾を行つてゐるやうで、慚愧赤面するばかりだ。かならず後悔ほぞを噛むと知つてゐながら、興奮するとつい、それこそ「廻らぬ舌に鞭打ち鞭打ち」口をとがらせて呶々と支離滅裂の事を言ひ出し、相手の心に軽蔑どころか、憐憫の情をさへ起させてしまふのは、これも私の哀しい宿命の一つらしい。
その夜は、しかし、私はそのやうな下手な感懐をもらす事はせず、芭蕉翁の遺訓にはそむいてゐるやうだつたけれども、居眠りもせず大いに雑談にのみ打興じ、眼前に好物の蟹の山を眺めて夜の更けるまで飲みつづけた。N君の小柄でハキハキした奥さんは、私が蟹の山を眺めて楽しんでゐるばかりで一向に手を出さないのを見てとり、これは蟹をむいてたべるのを大儀がつてゐるのに違ひないとお思ひになつた様子で、ご自分でせつせと蟹を器用にむいて、その白い美しい肉をそれぞれの蟹の甲羅につめて、フルウツ何とかといふ、あの、果物の原形を保持したままの香り高い涼しげな水菓子みたいな体裁にして、いくつもいくつも私にすすめた。おそらくは、けさ、この蟹田浜からあがつたばかりの蟹なのであらう。もぎたての果実のやうに新鮮な軽い味である。私は、食べ物に無関心たれといふ自戒を平気で破つて、三つも四つも食べた。この夜、奥さんは、来る人来る人みんなにお膳を差し上げて、この土地の人でさへ、そのお膳の料理の豊潤に驚いてゐたくらゐであつた。顔役のお客さんたちが帰つてしまふと、私とN君は奥の座敷から茶の間へ酒席を移して、アトフキをはじめた。アトフキといふのは、この津軽地方に於いて、祝言か何か家に人寄せがあつた場合、お客が皆かへつた後で、身内の少数の者だけが、その残肴を集めてささやかにひらく慰労の宴の事であつて、或いは「
「しかし、君も、」と私は、深い溜息をついて、「相変らず、飲むなあ。何せ僕の先生なんだから、無理もないけど。」
僕に酒を教へたのは、実に、このN君なのである。それは、たしかに、さうなのである。
「うむ。」とN君は盃を手にしたままで、真面目に首肯き、「僕だつて、ずいぶんその事に就いては考へてゐるんだぜ。君が酒で何か失敗みたいな事をやらかすたんびに、僕は責任を感じて、つらかつたよ。でもね、このごろは、かう考へ直さうと努めてゐるんだ。あいつは、僕が教へなくたつて、ひとりで、酒飲みになつた奴に違ひない。僕の知つた事ではないと。」
「ああ、さうなんだ。そのとほりなんだ。君に責任なんかありやしないよ。全く、そのとほりなんだ。」
やがて奥さんも加り、お互ひの子供の事など語り合つて、しんみり、アトフキをやつてゐるうちに、突如、鶏鳴あかつきを告げたので、大いに驚いて私は寝所へ引上げた。
翌る朝、眼をさますと、青森市のT君の声が聞えた。約束どほり、朝の一番のバスでやつて来てくれたのだ。私はすぐにはね起きた。T君がゐてくれると、私は、何だか安心で、気強いのである。T君は、青森の病院の、小説の好きな同僚の人をひとり連れて来てゐた。また、その病院の蟹田分院の事務長をしてゐるSさんといふ人も一緒に来てゐた。私が顔を洗つてゐる間に、三厩の近くの今別から、Mさんといふ小説の好きな若い人も、私が蟹田に来る事をN君からでも聞いてゐたらしく、はにかんで笑ひながらやつて来られた。Mさんは、N君とも、またT君とも、Sさんとも旧知の間柄のやうである。これから、すぐ皆で、蟹田の山へ花見に行かうといふ相談が、まとまつた様子である。
その前日には西風が強く吹いて、N君の家の戸障子をゆすぶり、「蟹田つてのは、風の町だね。」と私は、れいの独り合点の卓説を吐いたりなどしてゐたものだが、けふの蟹田町は、前夜の私の暴論を忍び笑ふかのやうな、おだやかな上天気である。そよとの風も無い。観瀾山の桜は、いまが最盛期らしい。静かに、淡く咲いてゐる。爛漫といふ形容は、当つてゐない。花弁も薄くすきとほるやうで、心細く、いかにも雪に洗はれて咲いたといふ感じである。違つた種類の桜かも知れないと思はせる程である。ノヴアリスの青い花も、こんな花を空想して言つたのではあるまいかと思はせるほど、幽かな花だ。私たちは桜花の下の芝生にあぐらをかいて坐つて、重箱をひろげた。これは、やはり、N君の奥さんのお料理である。他に、蟹とシヤコが、大きい竹の籠に一ぱい。それから、ビール。私はいやしく見られない程度に、シヤコの皮をむき、蟹の脚をしやぶり、重箱のお料理にも箸をつけた。重箱のお料理の中では、ヤリイカの胴にヤリイカの透明な卵をぎゆうぎゆうつめ込んで、そのままお醤油の附焼きにして輪切りにしてあつたのが、私にはひどくおいしかつた。帰還兵のT君は、暑い暑いと言つて上衣を脱ぎ半裸体になつて立ち上り、軍隊式の体操をはじめた。タオルの手拭ひで向う鉢巻きをしたその黒い顔は、ちよつとビルマのバーモオ長官に似てゐた。その日、集つた人たちは、情熱の程度に於いてはそれぞれ少しづつ相違があつたやうであるが、何か小説に就いての述懐を私から聞き出したいやうな素振りを見せた。私は問はれただけの事は、ハツキリ答へた。「問に答へざるはよろしからず。」といふれいの芭蕉翁の行脚の掟にしたがつたわけであるが、しかし、他のもつと重大な箇条には見事にそむいてしまつた。一、他の短を挙げて、己が長を顕すことなかれ。人を譏りておのれに誇るは甚だいやし。私はその、甚だいやしい事を、やつちやつた。芭蕉だつて、他門の俳諸の悪口は、チクチク言つたに違ひないのであるが、けれども流石に私みたいに、たしなみも何も無く、眉をはね上げ口を曲げ、肩をいからして他の小説家を罵倒するなどといふあさましい事はしなかつたであらう。私は、にがにがしくも、そのあさましい振舞ひをしてしまつたのである。日本の或る五十年配の作家の仕事に就いて問はれて、私は、そんなによくはない、とつい、うつかり答へてしまつたのである。最近、その作家の過去の仕事が、どういふわけか、畏敬に近いくらゐの感情で東京の読書人にも迎へられてゐる様子で、神様、といふ妙な呼び方をする者なども出て来て、その作家を好きだと告白する事は、その読書人の趣味の高尚を証明するたづきになるといふへんな風潮さへ瞥見せられて、それこそ、贔屓の引きだふしと言ふもので、その作家は大いに迷惑して苦笑してゐるのかも知れないが、しかし、私はかねてその作家の奇妙な勢威を望見して、れいの津軽人の愚昧なる心から、「かれは賤しきものなるぞ、ただ時の武運つよくして云々。」と、ひとりで興奮して、素直にその風潮に従ふ事は出来なかつた。さうして、このごろに到つて、その作家の作品の大半をまた読み直してみて、うまいなあ、とは思つたが、格別、趣味の高尚は感じなかつた。かへつて、エゲツナイところに、この作家の強みがあるのではあるまいかと思つたくらゐであつた。書かれてある世界もケチな小市民の意味も無く気取つた一喜一憂である。作品の主人公は、自分の生き方に就いてときどき「良心的」な反省をするが、そんな箇所は特に古くさく、こんなイヤミな反省ならば、しないはうがよいと思はれるくらゐで、「文学的」な青臭さから離れようとして、かへつて、それにはまつてしまつてゐるやうなミミツチイものが感ぜられた。ユウモアを心掛けてゐるらしい箇所も、意外なほどたくさんあつたが、自分を投げ出し切れないものがあるのか、つまらぬ神経が一本ビクビク生きてゐるので読者は素直に笑へない。貴族的、といふ幼い批評を耳にした事もあつたが、とんでもない事で、それこそ贔屓の引きたふしである。貴族といふものは、だらしないくらゐ闊達なものではないかと思はれる。フランス革命の際、暴徒たちが王の居室にまで乱入したが、その時、フランス国王ルイ十六世、暗愚なりと雖も、からから笑つて矢庭に暴徒のひとりから革命帽を奪ひとり、自分でそれをひよいとかぶつて、フランス万歳、と叫んだ。血に飢ゑたる暴徒たちも、この天衣無縫の不思議な気品に打たれて、思はず王と共に、フランス万歳を絶叫し、王の身体には一指も触れずにおとなしく王の居室から退去したのである。まことの貴族には、このやうな無邪気なつくろはぬ気品があるものだ。口をひきしめて襟元をかき合せてすましてゐるのは、あれは、貴族の下男によくある型だ。貴族的なんて、あはれな言葉を使つちやいけない。
その日、蟹田の観瀾山で一緒にビールを飲んだ人たちも、たいていその五十年配の作家の心酔者らしく、私に対して、その作家の事ばかり質問するので、たうとう私も芭蕉翁の行脚の掟を破つて、そのやうな悪口を言ひ、言ひはじめたら次第に興奮して来て、それこそ眉をはね上げ口を曲げる結果になつて、貴族的なんて、へんなところで脱線してしまつた。一座の人たちは、私の話に少しも同感の色を示さなかつた。「貴族的なんて、そんな馬鹿な事を私たちは言つてはゐません。」と今別から来たMさんは、当惑の面持で、ひとりごとのやうにして言つた。酔漢の放言に閉口し切つてゐるといふやうなふうに見えた。他の人たちも、互ひに顔を見合せてにやにや笑つてゐる。
「要するに、」私の声は悲鳴に似てゐた。ああ、先輩作家の悪口は言ふものでない。「男振りにだまされちやいかんといふ事だ。ルイ十六世は、史上まれに見る醜男だつたんだ。」いよいよ脱線するばかりである。
「でも、あの人の作品は、私は好きです。」とMさんは、イヤにはつきり宣言する。
「日本ぢや、あの人の作品など、いいはうなんでせう?」と青森の病院のHさんは、つつましく、取りなし顔に言ふ。
私の立場は、いけなくなるばかりだ。
「そりや、いいはうかも知れない。まあ、いいはうだらう。しかし、君たちは、僕を前に置きながら、僕の作品に就いて一言も言つてくれないのは、ひどいぢやないか。」私は笑ひながら
みんな微笑した。やはり、本音を吐くに限る、と私は図に乗り、
「僕の作品なんかは、滅茶苦茶だけれど、しかし僕は、大望を抱いてゐるんだ。その大望が重すぎて、よろめいてゐるのが僕の現在のこの姿だ。君たちには、だらしのない無智な薄汚い姿に見えるだらうが、しかし僕は本当の気品といふものを知つてゐる。松葉の形の
暴言であつた。「他の短を挙げて、己が長を顕すことなかれ。人を譏りておのれに誇るは甚だいやし。」この翁の行脚の掟は、厳粛の真理に似てゐる。じつさい、甚だいやしいものだ。私にはこのいやしい悪癖があるので、東京の文壇に於いても、皆に不愉快の感を与へ、薄汚い馬鹿者として遠ざけられてゐるのである。「まあ、仕様が無いや。」と私は、うしろに両手をついて仰向き、「僕の作品なんか、まつたく、ひどいんだからな。何を言つたつて、はじまらん。でも、君たちの好きなその作家の十分の一くらゐは、僕の仕事をみとめてくれてもいいぢやないか。君たちは、僕の仕事をさつぱりみとめてくれないから、僕だつて、あらぬ事を口走りたくなつて来るんだ。みとめてくれよ。二十分の一でもいいんだ。みとめろよ。」
みんな、ひどく笑つた。笑はれて、私も、気持がたすかつた。蟹田分院の事務長のSさんが、腰を浮かして、
「どうです。この辺で、席を変へませんか。」と、世慣れた人に特有の慈悲深くなだめるやうな口調で言つた。蟹田町で一ばん大きいEといふ旅館に、皆の昼飯の仕度をさせてあるといふ。いいのか、と私はT君に眼でたづねた。
「いいんです。ごちそうになりませう。」T君は立ち上つて上衣を着ながら、「僕たちが前から計画してゐたのです。Sさんが配給の上等酒をとつて置いたさうですから、これから皆で、それをごちそうになりに行きませう。Nさんのごちそうにばかりなつてゐては、いけません。」
私はT君の言ふ事におとなしく従つた。だから、T君が傍についてゐてくれると、心強いのである。
Eといふ旅館は、なかなか綺麗だつた。部屋の床の間も、ちやんとしてゐたし、便所も清潔だつた。ひとりでやつて来て泊つても、わびしくない宿だと思つた。いつたいに、津軽半島の東海岸の旅館は、西海岸のそれと較べると上等である。昔から多くの他国の旅人を送り迎へした伝統のあらはれかも知れない。昔は北海道へ渡るのに、かならず三厩から船出する事になつてゐたので、この外ヶ浜街道はそのための全国の旅人を朝夕送迎してゐたのである。旅館のお膳にも蟹が附いてゐた。
「やつぱり、蟹田だなあ。」と誰か言つた。
T君はお酒を飲めないので、ひとり、さきにごはんを食べたが、他の人たちは、皆、Sさんの上等酒を飲み、ごはんを後廻しにした。酔ふに従つてSさんは、上機嫌になつて来た。
「私はね、誰の小説でも、みな一様に好きなんです。読んでみると、みんな面白い。なかなか、どうして、上手なものです。だから私は、小説家つてやつを好きで仕様が無いんです。どんな小説家でも、好きで好きでたまらないんです。私は、子供を、男の子で三つになりましたがね、こいつを小説家にしようと思つてゐるんです。名前も、文男と附けました。
私の頭が、鉢が開いてゐるとは初耳であつた。私は、自分の容貌のいろいろさまざまの欠点を残りくま無く知悉してゐるつもりであつたが、頭の形までへんだとは気がつかなかつた。自分で気の附かない欠点がまだまだたくさんあるのではあるまいかと、他の作家の悪口を言つた直後でもあつたし、ひどく不安になつて来た。Sさんは、いよいよ上機嫌で、
「どうです。お酒もそろそろ無くなつたやうですし、これから私の家へみんなでいらつしやいませんか。ね。ちよつとでいいんです。うちの女房にも、文男にも、逢つてやつて下さい。たのみます。リンゴ酒なら、蟹田には、いくらでもありますから、家へ来て、リンゴ酒を、ね。」と、しきりに私を誘惑するのである。御好志はありがたかつたが、私は頭の鉢以来、とみに意気が沮喪して、早くN君の家へ引上げて、一寝入りしたかつた。Sさんのお家へ行つて、こんどは頭の鉢どころか、頭の内容まで見破られ、ののしられるやうな結果になるのではあるまいかと思へばなほさら気が重かつた。私は、れいに依つてT君の顔色を伺つた。T君が行けと言へば、これは、行かなくてはなるまいと覚悟してゐた。T君は、真面目な顔をしてちよつと考へ、
「行つておやりになつたら? Sさんは、けふは珍らしくひどく酔つてゐるやうですが、ずいぶん前から、あなたのおいでになるのを楽しみにして待つてゐたのです。」
私は行く事にした。頭の鉢にこだはる事は、やめた。あれはSさんが、ユウモアのつもりでおつしやつたのに違ひないと思ひ直した。どうも、容貌に自信が無いと、こんなつまらぬ事にもくよくよしていけない。容貌に就いてばかりでなく、私にいま最も欠けてゐるものは「自信」かも知れない。
Sさんのお家へ行つて、その津軽人の本性を暴露した熱狂的な接待振りには、同じ津軽人の私でさへ少しめんくらつた。Sさんは、お家へはひるなり、たてつづけに奥さんに用事を言ひつけるのである。「おい、東京のお客さんを連れて来たぞ。たうとう連れて来たぞ。これが、そのれいの太宰つて人なんだ。挨拶をせんかい。早く出て来て拝んだらよからう。ついでに、酒だ。いや、酒はもう飲んぢやつたんだ。リンゴ酒を持つて来い。なんだ、一升しか無いのか。少い! もう二升買つて来い。待て。その縁側にかけてある
私は決して誇張法を用みて描写してゐるのではない。この疾風怒濤の如き接待は、津軽人の愛情の表現なのである。
後で聞いたが、Sさんはそれから一週間、その日の卵味噌の事を思ひ出すと恥づかしくて酒を飲まずには居られなかつたといふ。ふだんは人一倍はにかみやの、神経の繊細な人らしい。これもまた津軽人の特徴である。生粋の津軽人といふものは、ふだんは、決して粗野な野蛮人ではない。なまなかの都会人よりも、はるかに優雅な、こまかい思ひやりを持つてゐる。その抑制が、事情に依つて、どつと堰を破つて奔騰する時、どうしたらいいかわからなくなつて、「ぶえんの平茸ここにあり、とうとう。」といそがす形になつてしまつて、軽薄の都会人に顰蹙せられるくやしい結果になるのである。Sさんはその翌日、小さくなつて酒を飲み、そこへ一友人がたづねて行つて、
「どう? あれから奥さんに叱られたでせう?」と笑ひながら尋ねたら、Sさんは、処女の如くはにかんで、「いいえ、まだ。」と答へたといふ。
叱られるつもりでゐるらしい。
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