【日刊 太宰治全小説】#61「座興に非ず」
【冒頭】
おのれの行く末を思い、ぞっとして、いても立っても居られぬ思いの宵は、その本郷のアパアトから、ステッキずるずるひきずりながら上野公園まで歩いてみる。九月もなかば過ぎた頃のことである。
【結句】
「ありがとう。君を忘れやしないよ。」
私の自殺は、ひとつきのびた。
「座興に非ず」について
・昭和14年7月中旬頃に脱稿。
・昭和14年9月1日、『文学者』九月号に発表。
全文掲載(「青空文庫」より)
おのれの行く末を思い、ぞっとして、いても立っても居られぬ思いの宵は、その本郷のアパアトから、ステッキずるずるひきずりながら上野公園まで歩いてみる。九月もなかば過ぎた頃のことである。私の白地の
上野の駅まで来てしまった。無数の黒色の旅客が、この東洋一とやらの大停車場に、うようよ、
私は立って、待合室から逃げる。改札口のほうへ歩く。七時五分着、急行列車がいまプラットホームにはいったばかりのところで、黒色の
青年たちは、なかなかおしゃれである。そうして例外なく緊張にわくわくしている。可哀想だ。無智だ。親爺と
私は、ひとりの青年に目をつけた。映画で覚えたのか
「おい、おい、滝谷君。」トランクの名札に滝谷と書かれて在ったから、そう呼んだ。「ちょっと。」
相手の顔も見ないで、私はぐんぐん先に歩いた。運命的に吸われるように、その青年は、私のあとへ
上野の山へのぼった。ゆっくりゆっくり石の段々を、のぼりながら、
「少しは親爺の気持も、いたわってやったほうが、いいと思うぜ。」
「はあ。」青年は、固くなって返辞した。
西郷さんの銅像の下には、誰もいなかった。私は立ちどまり、
「君は、いくつ?」
「二十三です。」ふるさとの
「若いなあ。」思わず嘆息を発した。「もういいんだ。帰ってもいいんだ。」ただ、君をおどかして見たのさ、と言おうとして、むらむら、も少し、も少しからかいたいな、という浮気に似たときめきを覚えて、
「お金あるかい?」
もそもそして、「あります。」
「二十円、置いて行け。」私は、
出したのである。
「帰っても、いいですか?」
ばか、冗談だよ、からかってみたのさ、東京は、こんなにこわいところだから、早く国へ帰って親爺に安心させなさい、と私は大笑いして言うべきところだったかも知れぬが、もともと座興ではじめた仕事ではなかった。私は、アパアトの部屋代を支払わなければならぬ。
「ありがとう。君を忘れやしないよ。」
私の自殺は、ひとつきのびた。
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