記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を、自由に旅する。太宰治が、ソウルフレンド。

【日刊 太宰治全小説】#157「右大臣実朝」九

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【冒頭】

御耽溺(ごたんでき)とは申しても、下衆(げす)の者たちのように正体を失うほどに酔いつぶれ、奇妙な事ばかり大声でわめきちらし、婦女子をとらえてどうこうというような、あんなものかとお思いになると、とんでもない間違いでございまして、将軍家に於いては、その頃お酒の量が多くなったとは申しながら、いつも微醺(びくん)の程度で、それ以上に乱酔なさるような事は決して無く、お膝さえお崩しにならず、そうして、女房たちを召し集めておからかいになるとは言っても、ただ御上品の御冗談をおっしゃって一座を陽気に笑わせるというくらいのもので、あさましい御享楽をなさって居られたわけでもないのでございますが、いやしくも征夷大将軍、武門の総本家のお方が、武芸を怠り和歌にのみ熱中し、わけもない御酒宴をおひらきになり婦女子にたわむれていらっしゃる時には、御身分が御身分でもあり、ひどく目立つ事もございますから、やっぱり御耽溺と申し上げなければならぬような結果になり、私たちお傍の者も、終始変らず将軍家を御信頼申し、お慕い申していながら、それでも、時たま、ふいと何とも知れず心細くなる事がございました。

【結句】

将軍家も、いそいそと落ちつかぬ御様子で、宋へ御出発前にどうしても見て置かなければならぬ御政務は、片端から精出して御覧になって、また、いままで御決裁をお怠りになつていたために、諸方の訴訟がずいぶんたまってしまっているという事をお聞きになって、それも必ず年内に片づけるようにしたいと仰せになってお役人を督励してどしどしお片づけに相成り、今はなんとしても渡宋せずにはやまぬという御意気込みのようで、このように将軍家を異様にせきたてるものは、いったい、なんであろうと私は将軍家のその頃の日夜、そわそわと落ちつかず御いそがしそうになさって居られるのを拝して、考えた事でございましたが、御目的は、勿諭医王山ではない、陳和卿のいやしい心をお見抜き出来ぬ将軍家ではございませんし、何でもちゃんとご存じの上で和卿をほんの一時、御利用なされているだけの事に違いないので、行先きは宋でなくてもいいのだ、御目的は、たった一年でも半歳でも、ただこの鎌倉の土地から遁れてみたいというところにあるのだ、建保三年十一月の末、和田左衛門尉義盛以下将卒の亡霊が、将軍家の御枕上に、ぞろりと群をなして立ったという、その翌朝、にわかに、さかんな仏事を行いましたけれど、心ならずもその寵臣の一族を皆殺しにしてしまった主君の御胸中は、なかなか私どもには推察できぬ程に荒涼たるものがあるのではございませんでしょうか、これ必ず一つの原因と私には思われてならなかったのでございます。

 

「右大臣実朝」について

新潮文庫『惜別』所収。

・昭和18年3月末に脱稿。

・昭和18年9月25日、書下ろし中編小説『右大臣実朝』を、「新日本文藝叢書」の一冊として錦城出版社から刊行。

惜別 (新潮文庫)

 

全文掲載(「青空文庫」より)

 

 

建保二年甲戌。二月大。一日、丙申、晴、亥刻地震。四日、己亥、晴、将軍家聊か御病悩、諸人奔走す、但し殊なる御事無し、是若し去夜御淵酔の余気か、爰に葉上僧正御加持に候するの処、此事を聞き、良薬と称して、本寺より茶一盞を召進ず、而して一巻の書を相副へ、之を献ぜしむ、茶徳を誉むる所の書なり、将軍家御感悦に及ぶと云々。七日、壬寅、晴、寅剋大地震。十四日、己酉、霽、将軍家烟霞の興を催され、杜戸浦に出でしめ給ふ、漸く黄昏に及びて、明月の光を待ち、孤舟に棹して、由比浜より還御と云々。
同年。三月小。九日、甲辰、晴、晩に及びて、将軍家俄かに永福寺に御出、桜花を御覧ぜんが為なり。
同年。四月大。三日、丁酉、晴、亥剋大地震
同年。六月大。三日、丙申、霽、諸国炎旱を愁ふ、仍つて将軍家、祈雨の為に八戒を保ち、法花経を転読し給ふ。五日、戊戌、甘雨降る、是偏に将軍家御懇祈の致す所か。十三日、丙午、関東の諸御領の乃貢の事、来秋より三分の二を免ぜらる可し、仮令ば毎年一所づつ、次第に巡儀たる可きの由、仰出さると云々。
同年。八月小。七日、己亥、甚雨洪水。廿九日、辛酉、陰、去る十六日、仙洞秋十首の歌合、二条中将雅経朝臣写し進ず、将軍家殊に之を賞翫せしめ給ふと云々。
同年。九月大。廿二日、癸未、霽、丑剋大地震
同年。十月小。六日、丁酉、晴、亥剋大地震。十日、辛丑、霽、申刻甚雨雷鳴。
同年。十一月大。廿五日、乙酉、晴、六波羅の飛脚到著して申して云ふ、和田左衛門尉義盛、大学助義清等の余類洛陽に住し、故金吾将軍家の御息を以て大将軍と為し、叛逆を巧むの由、其聞有るに依りて、去る十三日、前大膳大夫の在京の家人等、件の旅亭を襲ふの処、禅師忽ち自殺す、伴党又逃亡すと云々。
同年。十二月大。四日、甲午、晴、亥剋、由比浜辺焼亡す、南風烈しきの間、若宮大路数町に及ぶ、其中間の人家皆以て災す。
建保三年乙亥。正月小。八日、戊辰、霽、伊豆国の飛御参ず、申して云ふ、去る六日、戌剋、入道遠江守時政、北条郡に於て卒去す、日来腫物を煩ひ給ふと云々。十一日、辛未、晴、若宮辻の人家焼亡す、酉戌両時の間、廿余町悉く灰燼と為る。
同年。二月大。廿四日、癸丑、晴、戌刻、雷電数声。
同年。三月大。五日、甲子、快霽、将軍家、花を覧んが為、三浦の横須賀に御出。廿日、己卯、今日仰下されて云ふ、京進の貢馬のことは、其役人面々に、逸物三疋を以て、兼日用意せしめ、見参に入る可し、選び定むることは、御計ひ有る可きなりと云々。
同年。六月小。廿日、戊寅、今夜子剋、御霊社鳴動す、両三度に及ぶと云々。
同年。七月大。六日、癸巳、晴、坊門黄門、去る六月二日仙洞歌合の一巻を将軍家に進ぜらる、是内々の勅諚に依りてなりと云々。
同年。八月小。十八日、乙巳、甚雨、午剋大風、鶴岳八幡宮[#「鶴岳八幡宮の」は底本では「鶴岡八幡宮の」]鳥居顛倒す。十九日、丙午、陰、地震矣。廿一日、戊申、晴、巳剋、鷺、御所の西侍の上に集る、未剋地震と云々。廿二日、己酉、霽、地震、鷺の怪の事、御占を行はるるの処、重変の由之を申す、仍つて御所を去つて、相州の御亭に入御、亭主は他所に移らると云々。
同年。九月小。六日、壬戌、晴、丑刻大地震。八日、甲子、陰、寅刻大地震。十一日、丁卯、晴、寅刻大地震、未剋又少し動ず。十三日、己巳、晴、未剋地震。十四日、庚午、晴、酉剋地震、戌剋地震、同時に雷鳴す。十六日、壬申、晴、卯剋地震。十七日、癸酉、晴、戌剋三度地震。廿一日、丁丑、晴、連々の地震に依りて、御祈を行はる。廿六日、壬午、亥刻、雷鳴数声、降雹の大なること李子の如し。
同年。十月大。二日、丁亥、晴、寅刻地震
同年。十一月小。八日、癸亥、快晴、将軍家相州御亭より御所に還御、鷺の怪に依りて、御旅宿已に七十五日を経訖んぬ。廿五日、庚辰、幕府に於て、俄かに仏事を行はしめ給ふ、導師は行勇律師と云々、是将軍家去夜御夢想有り、義盛已下の亡卒御前に群参すと云々。
同年。十二月大。十五日、己亥、晴、亥刻地震。十六日、庚子、霽、終日風烈し、連々の天変等の事、将軍家殊に御謹慎有る可きの変なりと云々。
建保四年丙子。正月小。十七日、辛未、霽、将軍家の御持仏堂の御本尊、運慶造り奉り、京都より渡し奉らる、開眼供養の事有る可し、信濃守行光奉行として其沙汰有り。廿八日、壬午、晴、姶めて御本尊を御持仏堂に安置す、即ち供養の儀有り。
同年。三月大。七日、庚申、海水色を変ず、赤きこと紅を浸せるが如しと云々。廿五日、戊※(「刀」の「丿」が横向き、第3水準1-14-58)、御台所厳閤の薨去に依りて、信濃守行光の山庄に渡御、密儀なりと云々。
同年。四月小。九日、壬辰、常の御所の南面に於て、終日諸人の愁訴を聴断し給ふ、各藤の御壺に候して、子細を言上す。
同年。五月大。廿四日、丙子、将軍家山内辺を歴覧せしめ給ふ、期せざるの間、諸人追つて馳せ参ると云々。
同年。六月大。八日、庚※(「刀」の「丿」が横向き、第3水準1-14-58)、晴、陳和卿参著す、是東大寺の大仏を造れる宋人なり、彼寺供養の日、右大将家結縁し給ふの次に、対面を遂げらる可きの由、頻りに以て命ぜらると雖も、和卿云ふ、貴客は多く人命を断たしめ給ふの間、罪業惟重し、値遇し奉ること其憚有りと云々、仍つて遂に謁し申さず、而るに当将軍家に於ては、権化の再誕なり、恩顔を拝せんが為に参上を企つるの由、之を申す、即ち筑後左衛門尉朝重の宅を点ぜられ、和卿の旅宿と為す、先づ広元朝臣をして子細を問はしめ給ふ。十五日、丁酉、晴、和卿を御所に召して、御対面有り、和卿三反拝し奉り、頗る涕泣す、将軍家其礼を憚り給ふの処、和卿申して云ふ、貴客は、昔宋朝医王山の長老たり、時に吾其門弟に列すと云々、此事、去る建暦元年六月三日丑剋、将軍家御寝の際、高僧一人御夢の中に入りて、此趣を告げ奉る、而して御夢想の事、敢て以て御詞を出されざるの処、六ヶ年に及びて、忽ち以て和卿の申状に符合す、仍つて御信仰の外他事無しと云々。
同年。閏六月小。十四日、丙寅、広元朝臣、今月一日大江姓に遷り訖んぬ。
同年。九月小。十八日、戊戌、相州広元朝臣を招請して仰せられて云ふ、将軍家大将に任ずる事、内々思食し立つと云々、右大将家は、官位の事宣下の毎度、之を固辞し給ふ、是佳運を後胤に及ばしめ給はんが為なり、而るに今御年齢未だ成立に満たず、壮年にして御昇進、太だ以て早速なり、御家人等亦京都に候せずして、面々に顕要の官班に補任すること、頗る過分と謂ひつ可きか、尤も歎息する所なり、下官愚昧短慮を以て、縦ひ傾け申すと雖も、還つて其責を蒙る可し、貴殿盍ぞ之を申されざる哉と云々、広元朝臣答申して云ふ、日来此の事を思ひて、丹府を悩ますと雖も、右大将家の御時は、事に於て下問有り、当時は其儀無きの間、独り腸を断つて、微言を出すに及ばす、今密談に預ること、尤も以て大幸たり、凡そ本文の訓する所、臣は己を量りて職を受くと云々、今先君の遺跡を継ぎ給ふ計なり、当代に於ては、指せる勲功無し、而るに啻に諸国を管領し給ふのみに匪ず、中納言中将に昇り給ふ、摂関の御息子に非ずば、凡人に於ては、此儀有る可からず、争か嬰害積殃の両篇を遁れ給はんか、早く御使として、愚存の趣を申し試む可しと云々。廿日、己亥、晴、広元朝臣御所に参じ、相州の中使と称して、御昇進の間の事、諷諫し申す、須らく御子孫の繁栄を乞願はしめ給ふ可くば、御当官等を辞し、只征夷将軍として漸く御高年に及びて、大将を兼ねしめ給ふ可きかと云々、仰せて云ふ、諫諍の趣、尤も甘心すと雖も、源氏の正統此時に縮まり畢んぬ、子孫敢て之を相継ぐ可からず、然らば飽くまで官職を帯し、家名を挙げんと欲すと云々、広元朝臣重ねて是非を申す能はず、即ち退出して、此由を相州に申さると云々。
同年。十月大。五日、甲※(「刀」の「丿」が横向き、第3水準1-14-58)、将軍家、諸人の庭中に言上する事を聞かしめ給ふ。
同年。十一月小。廿四日、癸卯、晴、将軍家先生の御住所医王山を拝し給はんが為、渡唐せしめ給ふ可きの由、思食し立つに依りて、唐船を修造す可きの由、宋人和卿に仰す、又扈従の人六十余輩を定めらる、朝光之を奉行す、相州、奥州頻りに以て之を諫め申さると雖も、御許容に能はず、造船の沙汰に及ぶと云々。
同年。十二月大。一日、己酉、諸人の愁訴相積るの由、聞食すに依りて、年内に是非せしむ可きの旨、奉行人等に仰せらると云々。

 御耽溺とは申しても、下衆の者たちのやうに正体を失ふほどに酔ひつぶれ、奇妙な事ばかり大声でわめきちらし、婦女子をとらへてどうかうといふやうな、あんなものかとお思ひになると、とんでもない間違ひでございまして、将軍家に於いては、その頃お酒の量が多くなつたとは申しながら、いつも微醺の程度で、それ以上に乱酔なさるやうな事は決して無く、お膝さへお崩しにならず、さうして、女房たちを召集めておからかひになるとは言つても、ただ御上品の御冗談をおつしやつて一座を陽気に笑はせるといふくらゐのもので、あさましい御享楽をなさつて居られたわけでもないのでございますが、いやしくも征夷大将軍、武門の総本家のお方が、武芸を怠り和歌にのみ熱中し、わけもない御酒宴をおひらきになり婦女子にたはむれていらつしやる時には、御身分が御身分でもあり、ひどく目立つ事でもございますから、やつぱり御耽溺と申し上げなければならぬやうな結果になり、私たちお傍の者も、終始変らず将軍家を御信頼申し、お慕ひ申してゐながら、それでも、時たま、ふいと何とも知れず心細くなる事がございました。あくる建保二年のお正月には、れいの二所詣に御進発になり、私たちもお供を致しましたが、二月三日には、御一行無事に鎌倉へ御帰着に相成り、その夜は、お供の者のこらず御ところに参候して御盃酒を賜り、たいへん結構の御馳走ばかりつぎつぎと出て、夜の更けるにつれて飲めや歌への大騒ぎになり、将軍家も、夜明け近くまで皆におつき合ひ下され、その時ばかりは、さすがに御正座も困難に見受けられたほどにいたくお酔ひの御様子でございました。さうして、その翌る日は、お床におつきになられたきりで、ひどくお苦しみの御模様に拝され、大勢の御家人たちが続々とお見舞ひに駈けつけて、御ところにただならぬ不安の気がただよひ、けれどもその折ちやうど御加持に伺候して居られた葉上僧正さまが、その御容態の御宿酔に過ぎざる事を見てとり、お寺から或る種の名薬を取りよせて一盞献じましたところが、たちまち御悩も薄らぎ、僧正さまは頗る面目をほどこしましたが、その名薬といふのは、ただのお茶でございましたさうで、もつともその頃は、鎌倉に於いてお茶といふものは未だほとんど用ゐられてゐなかつたし、全く、珍らしかつた時代でございまして、僧正さまは、その場に於いて、その名薬のお茶である事をお明し申し、お茶の徳をほめたたへるところの書一巻をついでに献上なさいました。それは、僧正さまが御坐禅の余暇に御自身でお書きになつた御本だとか、めづらしい本をお書きになつたものだと、けげんさうにお首を傾けて居られたお方もございました。この葉上僧正栄西さまは、御承知のとほり、天平のころからの二大宗教、すなはち伝教大師このかたの天台宗弘法大師を御祖師とする真言宗と、この二つが、だんだんと御開祖のお気持から離れて御加持御祈祷専門の俗宗になつてしまつたのにあきたらず思召され、再度の御渡宋より御帰朝以来、達磨宗すなはち禅宗といふ新宗派を御開立しようとなされて諸方を奔走し、一方、黒谷の御上人が念仏宗すなはち浄土宗を称へられたのもその頃の事でございましたが、両宗派ともそれぞれ上下の信仰を得て、たうとう南都北嶺の嫉視を招き、共にさまざまの迫害を受けられたやうでございまして、栄西さまは、鎌倉へのがれてまゐり、寿福寺を御草創なされ、建保三年六月に痢病でおなくなりなさるまで、ほとんどそこに居られまして、往年に新宗派を称へ、新智識を以て片端から論敵を説破なされた御元気は、その御晩年には、片鱗だも見受けられず、さらに大きくお悟りになつたところでもあつたのでございませうか、別段、御宗派にこだはるやうなところも無く、御加持御祈祷もすすんでなさいましたし、おひまの折には、お茶のお徳をほめたたへる御本などと、珍奇なものまでお書きあらはしになるくらゐでございましたから、私たちの眼には、ただおずるいやうな飄逸の僧正さまとしか見えませんでした。さて、将軍家に於いては、僧正さまの所謂お茶のお徳によつて、御病気がおなほりになると、すぐに、れいの風流武士の面々を召集めて、お船遊びやらお花見やらにおでかけになり、たまには、おひとりでこつそり御ところを脱け出し裏山などにおいでになつて、あとで大騒ぎをしてお捜し申す事もございましたほどで、この建保二年から三年にかけて、ほとんど連日の大地震、それに火事やら、大風やら、或いは旱魃に悩むかと思ふと、こんどは大雨洪水、また実に物凄い雷鳴もしばしばございまして、天体に於いてさへ日蝕、月蝕の異変があり、関東の人心恟々たるもので、それにつけても将軍家のそのやうな御風流の御遊興は非難せられ、この天変地異は、すべて将軍家御謹慎有るべしとの神々のお告げなりと御占ひを立てるものさへ出てまゐりまして、或いはまた、御ところのお屋根におびただしい鷺の群が降り立つたのを見て、これただ事に非ず、御ところに重変起るの兆なりといふおそろしい予言をする者もございまして、その時には、将軍家は相州さまにすすめられて御ところをのがれ、相州さまのお宅にお移りになり、それから七十五日間も相州さまのお宅で窮屈な御暮しをなさつたのでございましたが、重変も何も起りませんでしたので、また御ところへお帰りになつたなどといふ、何がなんだか、わけのわからぬ騒ぎもございましたほどで、これといふのも、すべて、将軍家の御趣味に御惑溺の御日常が、ひどく皆の目ざはりになつてゐるせゐではなからうかとお傍の私たちにも思はれました。けれども、呆けてお遊びになつてゐるやうでも、やはり、将軍家のお力でなければ、どうしても出来ない事もございまして、建保二年の五月から六月にかけての大旱魃の折には、鶴岳宮に於いて諸僧が大勢で連日雨乞の御祈を致しましたが、わづかに白雲が流れて幽かな遠雷が聞えただけで、一滴の雨も降りませんでしたのに、六月三日、将軍家が御精進御潔斎なされて法華経を一心に読誦いたしましたところが、翌朝から、しとしとと慈雨が降りはじめまして、むかし皇極女帝の御時、天下炎旱に悩み、諸方に於いて雨乞の祈祷があつたけれども何の験も無きゆゑ、時の大臣、蘇我蝦夷みづから香炉を捧げて祈念いたしましたさうで、それでも空はからりと晴れ渡つたままで、一片の白雲もあらはれず、蝦夷は大いに恥ぢて、至尊に御祈念下されるやうお願ひ申しましたので、すなはち玉歩を河辺に運ばせられ、四方を御拝なされるや、たちまち雷電、沛然と大雨あり、ために国土の百穀豊稔に帰したとか、一臣下たる将軍家の事などは、もちろんその尊い御治蹟とは較べものにも何も、もつたいなくて出来るものでございませぬが、純正無染の心で祈願いたしたならば必ずや天に通ずるものがあるらしく、それは不徳の僧侶や蝦夷大臣などには出来ぬ道理で、風流の御遊興に身をやつして居られても、やはり将軍家には高い御品性がそなはつていらつしやるのだらうと、急に御評判がよろしくなつて、同じ月の十三日には、将軍家がその頃の頻々たる天変地異に依る関東一帯の不作をお見越しなされて、年貢の減免を仰出され、いよいよ御高徳を讃嘆せられ、また、時々は、ふいと思ひ出されたやうに前庭に面してお出ましなされ、さまざまの下民の直訴に、終日、黙々とお耳を傾けて居られる事などもございましたけれども、しかし、すぐにまたお遊びの御計画をおはじめになり、もとはお口の重いお方でございましたのに、やや御多弁になられたやうでもあり、お顔も以前にくらべてすこしお若くなつたやうにさへ見受けられました。いつかお傍の者が、このごろめつきりお太りになられたやうに拝せられますが、と申し上げたら、

男ハ苦悩ニヨツテ太リマス。ヤツレルノハ、女性ノ苦悩デス。

 と御冗談めかしておつしやいましたけれども、或いは、御陽気に見えながらその御胸中には深い御憂悶を人知れず蔵して居られたのでもございませうか、その辺の事は私どもには推量も及ばぬところでございまして、

ナンニモ、スルコトガナイ。

 と幽かにお笑ひになつておつしやつて居られた事もございますし、また、

政所、侍所ナドト等シク、都所トイフモノヲ設ケタラドウカ。ソノ都所ノ別当ニダケハ、ナツテモヨイ。

 とお酒のお席で誰にともなくおつしやつて、おひとりで大笑ひなさつて居られた事もございました。派手な京風ばかりを真似るゆゑ、都所別当が御適任といふ御自身をおからかひの意味でおつしやつたのかも知れませぬが、私たちの日常拝しましたところでは、決してそんな事だけではなく、別のもつと厳粛な意味に於いても、その都所別当が首肯できる気持でございました。まことに、当時、御朝廷との御交通は、ただこの御方おひとりに依つてのみなされてゐたやうな御有様でございまして、建保三年の七月には、おそれおほくも仙洞御所より内々の御勅諚に依つて、仙洞歌合一巻が将軍家に下し送られ、将軍家もまた、そのとしには、京都の御所へ御進上仕るべき名馬の撰定に当つて、お役人の面々に、それぞれ逸物三匹づつを用意せしめ、御自身いやしき伯楽の如くお手づから馬の口の中まで綿密にお調べになつたくらゐで、建保五年の七月から八月にかけての仙洞御所の御悩の折には、すぐさまお見舞ひの使節を上洛せしめ、荒駒三百三十頭を献上いたし、また御修法を仰出され院の御悩御平癒を祈念なされるなど、その御朝廷に対し奉る恭順の御態度は、万民の手本とも申し上げたいほどで、鎌倉に御下向の御勅使をおもてなしなさるに当つても、誠心敬意を表し、莫大の贈物を捧げ、ひたすら忠君の御赤心を披瀝なされ、かの御母君尼御台所さまが、建保六年に二度目の熊野詣をなさつてそのついでに京都にもお立寄りになり、しばらく京に御滞在中、院の特別のお思召しにより尼御台さまを従三位に叙せしむべき由の宣下がその御旅亭に達し、さらに、かしこくも仙洞御所御直々の御対面をも賜ふべき由仰下され、その破格の御朝恩に感泣いたすべきところを尼御台さまは、田舎の薄汚い老尼でございます、竜顔に咫尺し奉るなど、とんでもない、どうかその儀はおゆるし下されと申して、京都の諸寺参拝のおつもりも何も打棄て、即時に鎌倉さして御発足になつたとか、そのやうな依怙地な不敬の御態度などに較べると、実の御母子でありながら、まさに雲泥の差がございまして、院も、このお若い将軍家の一途に素直な忠誠の念をおいつくしみ下され、官位の陞叙もすみやかに、建仁三年九月七日叙従五位下、任征夷大将軍、同十月二十四日任右兵衛佐、元久元年正月七日叙従五位上、三月六日任右近少将、同二年正月五日正五下、同二十九日任右中将、兼加賀介、建永元年二月二十二日叙従四下、承元々年正月五日従四上、同二年十二月九日正四下、同三年四月十日叙従三位、五月二十六日更任右中将、建暦元年正月五日正三位、同二年十二月十日従二位、建保元年二月二十七日正二位、このころから将軍家に於いても官位の御昇進を無邪気にお楽しみなされて除書をお待兼ねのあまり京都へ御催促なされる事さへございまして、同じく建保四年の六月二十日には、わづか御二十五歳のお若さを以て権中納言に任ぜられ、七月二十日には左近中将を兼ね、同六年正月十三日には任権大納言、三月六日にいたつて左近大将、十月九日、内大臣、十二月二日、右大臣。然して、左近大将の時、ならびに右大臣の時にはその拝賀の御儀式に用ゐるべき御装束御車以下さまざまの御調度一切、仙洞御所より鎌倉へ送り下され、その御寵恩のほどはまことに量り知るべからざるもので、下司無礼の輩は之に就いてもまた、けしからぬ取沙汰を行ひ、院に於かせられては将軍家を官打ちに致される御所存ではなかつたらうか、と愚かしき疑ひなどをさしはさみまして、御承知でもございませうが、もともとそれに価せぬ身分のものが、にはかに高位高官に昇ると、その官位に負けて命を失ふとも言はれて居りますから、憎むべき者の官位を急速に進めてその一命を奪はんと図る事を官打ちと申しますのださうで、その官打ちの御所存ではなかつたらうかといふつまらぬ疑ひを抱いて心配顔をしてゐた人も無いわけではなかつたのでございまして、けれどもそれは、仙洞御所と将軍家との間に於いて、つねに天真爛漫の麗はしい君臣の情が交流してゐたといふ事実をご存じないからであつて、共にすぐれた御歌人ではあり、承久元年の正月に将軍家があのやうな御最期を遂げられ、院におかれては内蔵頭忠綱さまを御使として鎌倉へ御差遣に相成り、御叡慮殊のほか御歎息の由を申伝へしめあそばしましたさうで、しかも将軍家がおなくなりになると直ちに、あの不吉の兵乱がはじまりましたところから考へても、将軍家が御風流にのみ身をおやつしになつて居られるやうに見えながら、つねに御朝廷と幕府の間に立つて、いかにお心をくだかれて居られたか、真に都所の大別当であらせられたといふ事が、更にはつきりとわかつて来るやうな気が致します。けれども、当時、将軍家に対する御ところ内外の誤解は甚しく、建保四年の九月に、広元入道さまは、しさいらしく将軍家に御諫言を試み、かへつて大いに恥をおかきになつたなどといふ事もございました。九月十八日に、相州さまがそのお宅に広元入道さまをこつそりお招きになり、どうも困りました、いや将軍家の事ですが、和歌管絃の御風流にも、もういい加減厭きて来たと見えて、このごろはまた、官位の御陞進に御熱中で、しばしば京都へ除書の御催促さへなさいますやうで、実にどうも、みつともなく、あれでは京都の御所のお方たちも呆れてゐるでせう、幕府の威信を保つ上からも、面白くない事です、故右大将家はさすがに御聡明で官位の宣下のある度毎に固く御辞退申上げたもので、これはここだけの話ですが、正二位も大納言も、幕府の私どもにはいそいで頂戴の必要もなく、名よりは実ですから、征夷大将軍一つでたくさんな筈なのに、どういふものですか、当代は、むやみに京都をお慕ひになつて、以前はこれほどでも無かつたのですが、京都の御所の事となると何でもかでも有難くてたまらない様子で、こんな工合では必ず御所のお方たちに足もとを見すかされ、結局、幕府があなどられ、たいへんな事になります、どうもこのたびの御道楽は、たちが悪い、私から将軍家に申し上げてもいいのですが、どうも私は口不調法の短気者と来てゐるので、まづい事を言つて、ただ将軍家を怒らせてしまつてもつまらないし、ここは一つ、あなたのれいの上品な遠廻しの御弁舌におたよりしたいところのやうです、とにこりともせず、広元入道さまのお顔を射るやうにまつすぐに見つめながら申しまして、入道さまは狼狽の気味、いや恐縮です、とおつしやつて二つ三つ空咳をなさつて、その事に就いては、と大袈裟に膝をすすめ、私も日頃ひとしれず悩んでゐない訳ではございませんでした、とやつぱり煮え切らないやうな言ひ方で、まことに之は困つたやうな事でございまして、故右大将家に於いては、いやしくも京都に関する事ならば、この京育ちの私にいちいち御下問がございまして、私も及ばずながら何かと愚見を開陳いたしたものでございましたが、当代に於いては、さつぱり私に御下問なさいません、さうして御自分のお考へだけでどしどし京と御交通なさいますので、私は、ただお傍ではらはらして拝見してゐるばかりでございましたところへ持つて来て、今日のあなたのお言葉、いや有難う存じました、よろしうございます、必ずおいさめ申しませう、ただし之は、とふいとお声を落して、お首を傾け、どうしたものでございませう、あなたの御使として御諫言申し上げた方が、ききめもよろしいかと存ぜられますが、とれいの御責任をおのがれになる御工夫、相州さまは、平気でうなづき、ここに御密談がまとまつたやうな次第で、もちろん之は私が、のちにいろいろの人から聞いて、たぶんかうでもあつたらうかと思はれるままにお話申し上げたのでございますから、その辺はよろしく御斟酌の程をお願ひ申し上げます。さて、その翌々日、入道さまは相州さまからの御使として御前に参り、いたづらに官位をお望みなさる事のよろしからざる理由を、なかなか美事に御申述べに相成りました。日頃あいまいの言ひ方ばかりしていらつしやる入道さまには似合はず、堂々たる御言論で、まづ故右大将家が、あれほどの大功をお立てになりながらも佳運を子孫に残さうといふ思召しからその御一代に於いては官位を望まず、ただ征夷大将軍たるを以て満足して居られたといふ事から説き起し、当代に於いては、さしたる勲功も無くして既に中納言中将に昇り給ふ、かかる事例は摂関の御子息の場合に於いてのみ見受けられる事で、それ以外の者には許されるものではないのでございます、このやうな無理をあくまでも押して行きましたならば、或いは、わざはひその身に及ぶかも知れない、もし御子孫の余栄を願ふおつもりがあつたならば、須らく御当官を辞し、御父君の如くただ征夷大将軍を以て足れりとなし、漸く御高年に及びて然るべき官位を拝受なされたはうがよろしいかと存じます、と淀みなく巧みに諷諫申しましたけれども、将軍家は爽やかに御微笑なされ、

官位ヲ望ンデワルイ理由ハ他ニモアラウ。子孫ノタメトハ唐突デス。子孫ハ、ドコニモ居リマセヌ。

 とれいの御冗談めかしておつしやいましたので、入道さまも拍子抜けがした様子で、ぼんやり将軍家のお顔を見上げて、何もおつしやらずに、やがて静かに一礼して、そのままあつけなく御退出に相成りました。けれども、この時の将軍家の、子孫は無い、といふお言葉が、それは別段あやしむにも足らぬ事で、将軍家にはお子さまも無いし、軽く入道さまをおからかひになつたお言葉にちがひないのでございますが、それでも、どうも奇妙に私どもの胸に悲しく響いて、めつさうもない不吉な御予言のやうにさへ感ぜられ、すべて私たちの愚かな気の迷ひにきまつてゐるとは知りながらも、それから三年目のお正月に、あんな恐しい事が起つてみますると、やつぱり、この時の将軍家のお言葉をも不思議の一つに数へ上げたいやうな気がしてまゐりますのでございます。渡宋の御計画を仰出されたのも、このとしの事でございまして、この御計画も将軍家にとつては別に深い意味も無く、たまたまその頃、宋人の陳和卿が鎌倉へまゐつて居りまして、陳和卿は造船も巧みとお聞及びになつて、ふいと渡宋を思ひ立つた御様子で、私ども貧しい身上の者にとつてこそ大船を作り宋に渡るといふのは、とても企て及ばぬ事でございますが、いやしくも関東の大長者とも言はれる御身分のお方にとつては、別段、不自然の御計画ではなく、おとしのお若いうちに変つた土地を御覧になつて来るのも、なかなか有益の事とも思はれますし、かねがね将軍家の御傾倒申上げてゐる、あの厩戸の皇子さまなどは、その六百年も前にもう、隋と御交通なさつて居られた程でございまして、また鎌倉の寿福寺の僧正さまだつて二度も宋へ行つて来られたお方ですし、無学の田舎者が、ただ遠い遠い唐天竺を夢見てゐるのとは違つて、将軍家のやうに広く御学問なさつて居られると、渡宋もさしたる難事でないと御明察なされ、お気軽に御計画なされたのではなからうかと、私などには思はれましたが、これがまた、幕府の御視界の狭いお方たちには、ほとんど気違ひ沙汰と思はれたらしく、実に烈しい反対がございまして、或る者は、将軍家が北条家の圧迫に堪へかねて鎌倉からのがれて、さうしてあてもなく海上をさまよひ歩き果ては自殺でもなさる気であらうと言ひ、或る者は、宋に渡ると見せて実は京都へ行き上皇さまの御軍勢をこの大船にお乗せ申して北条家討伐のために再び鎌倉へひきかへして来るおつもりに違ひ無いと言ふし、また或る者は、こんな事をして幕府にむだなお金を使はせ幕府も将軍家も北条家も何もかもみんな一緒に倒れるやうに仕組んで、以て上皇さまへの最後の忠誠の置土産になさらうといふ深いお考へがあるのかも知れないと言ひ、また或る者は、なあに、すねてゐるのさ、渡宋なんて、でたらめだよと言ひ、また、いやいや、そのやうにただ悪くばかり推量するものではない、これはやはり、かねてあこがれの宋の医王山に御参詣なさるための渡宋で、その他には何の御異図もないのだ、まことに将軍家の御信仰の篤いこと、恐れいるばかりだ、などと妙な感懐をもらす者もありまして、その評定のうるさかつたこと、まるで、近日また鎌倉に大合戦でも起るやうな騒ぎ方でございました。けれども、さすがに相州さま、入道さま、また尼御台さまに於いてはお考へも慎重で、同じ反対をするにしても、そのやうな紛々たる諸説の如く浅はかな疑念を抱いて反対なさるのではなく、尼御台さまは、やつぱり生みの母御らしく、だいいちに将軍家の御健康を御案じなされて、この御計画はおやめになるやう仰出され、将軍家はそれにお答して、なに、永くてたつた一年で帰つて来ます、六百年もむかしの厩戸の皇子さまの頃だつて気楽に隋と往来をしてゐたものです、御心配には及びません、と事もなげにおつしやつてお聞きいれの色は無く、また相州さま、入道さまがそろつてお諫め申し、
「たとひ一年間でも、将軍家が幕府をお留守になさるとは、先例の無い事で、おだやかでございません。」

タツタ一年ノオ留守番モデキヌヤウデハ、重臣ノ甲斐ガアリマセヌ。

「どのやうな御資格で御渡宋なさるのでございませうか。」

日本ノ旅人デス

「案内役が陳和卿では不安でございます。」

知ツテヰマス。異人ハタヨルベカラズ、就イテ少シク学ブダケデス。

 取りつくしまも無く、相州さまと入道さまは互ひにお顔を見合せて溜息をおつきになるばかりのやうでございました。将軍家も未だ二十五歳、前にも申上げたとほり、お若いうちに異国に渡り、その御見聞をおひろめになられるのは決して悪い事ではなく、たつた半歳か一箇年のお留守番は相州さまにしても入道さまにしても出来ぬといふわけはございませんし、それは京都へおいでになり一年も二年も御滞在になつて京都の御所のお方たちと共鳴なさつたりなどするよりは、幕府にとつても安全の事ではあり、相州さまたちは、このたびの外遊の御計画は、あの官位陞進の御道楽に較べると、まだしも、たちがいいとお思ひになつてゐたやうでもございましたが、しかし、あの陳和卿といふ人物を信頼する気にはどうしてもなれなかつた御様子で、あの者が案内役をつとめるといふならば、この御計画にはあくまでも反対しなければならぬ、といふお考へのやうに見受けられました。この陳和卿といふのは甚だ不思議な人物で、異国の人の気持といふものは、私どもにはなかなかわかりにくいものでございますが、この人は建保四年の六月にひよつこり鎌倉へまゐりまして、当将軍家は御仏のお生れ変りでいらつしやると奇妙な事を言ひふらして歩きましたさうで、やがて将軍家のお耳にもはひり、かねて将軍家御尊崇の厩戸の皇子さまは、たしかに御神仏の御化身だつたさうでございますし、そのやうな事からも興をお覚えになつたのでございませうか、十五日には、和卿を御ところに召して御対面に相成りました。この和卿といふお方は、その当時こそひどく落ちぶれて居られたやうでございましたが、以前はなかなか有名な唐人だつたさうで、人の話に依りますと、その建保四年から数へて約二十年むかし、建久六年三月、故右大将家再度の御上洛の折、東大寺の大仏殿に御参りになつて、たまたま宋朝の来客、陳和卿の噂をお聞きになり、その陳和卿が総指揮をして鋳造したといふ盧舎那仏の修飾のさまを拝するに、まことに噂にたがはぬ天晴れの名工、ただの人間ではない、と御感なされて、重源上人をお使として、和卿をお招きになりましたところが、和卿は失礼にも、将軍多く人命を断ち、罪業深重なり、謁に及ばざる由、御返答申し上げ、故右大将家はお使の上人からその無礼の返辞を聞き、お怒りになるどころか、いよいよ和卿に御傾倒なされた御様子で、奥州征伐の時に著け給ひし所の甲冑、ならびに鞍馬三疋金銀など、おびただしくお贈りになられ、けれども和卿は一向にありがたがらず、甲冑は熔かして伽藍造営の釘と為し、その他のものは、領納する能はず、と申して悉く御返却に及んだとか、これほど驕慢の陳和卿も寄る年波には勝てず、鋳造の腕もおとろへ、またことさらに孤高を衒ひ、ときどき突飛な振舞ひをして凡庸の人間に非ざる所以を誇示したがる傾きもあり、またそのやうな人にありがちな嫉妬の情にも富んでゐた様子で、次第に周囲の者から疎んぜられ、つひには東大寺から追放されて失意の流浪生活にはひり、建保四年六月、まるで乞食のやうな姿で鎌倉へあらはれ、往年の気概はどこへやら、あの罪業深重とやらの故右大将家の御実子を御仏の再誕と称してその御温顔をひとめ拝したいと歎願に及んだとか、私どもには、名人気取りの職人が、威勢のいい時には客の註文も鼻であしらひ、それもまた商策の狡猾な一手段で、故右大将家のやうにいよいよ傾倒なさるお方もあり、註文がぱつたり無くなると、もともと身振りだけの潔癖ゆゑ、たちまち愚痴つぽくなつて客に泣きつくといふ事はままある例でございますし、その時の陳和卿の言行も、すべて見え透いた卑屈な商策としか思はれませんでしたけれども、将軍家にとつては、何せ、御仏の再誕といふ一事のために、おのづから、かの厩戸の皇子さまの御事などもお思ひ合せになられるらしく、どこやら気になる御様子で、十五日に御ところへお召しになりましたが、陳和卿もなかなかのお人で、将軍家のお顔をひとめ仰ぎ見て、大声挙げて泣いておしまひになりました。異人といふものは、そんなに悲しくなくても、自由にどんどん涙を流す事が出来るものかも知れませぬが、痩せこけた醜い老爺が身悶えして泣き叫んでゐる有様には、ただごとで無いやうな気配も感ぜられ、将軍家もこれにはお眉をひそめ、途方に暮れた御様子をなさいまして、やがて、陳和卿の泣く泣く申し上げる事には、将軍家はその御前身に於いて宋朝医王山の長老たり、我はその時、一門弟としてお仕へ申して居りました、おなつかしう存じます。

ソレハ、夢デ見タコトガアリマス。

 将軍家は少しも驚かずに即座にお答へになりました。六年前の建暦元年六月三日丑剋、将軍家御寝の際、高僧一人御夢の中にあらはれて、汝はもと宋朝医王山の長老たり、とお告げになつたのださうで、

誰ニモ言ハズニ居リマシタガ、ソナタノ物語ト符合シテヰルトハ面白イ。

 とお首を振つて、しきりに興じて居られました。陳和卿も、これほど事が、うまく行くとは思ひまうけなかつたでございませう。それから御信任を得て、たびたび御ところに召されて宋朝の事情など御下問に預り、そのうちに将軍家は陳和卿のお話だけでは満足できなくなつた御様子で、たうとう御自身渡宋の御計画を思ひつき、陳和卿には唐船の修造をお言ひつけになり、また正式に渡宋の案内役に任命なされ、周囲の反対も何も押切つて、そのとしの十一月二十四日には、さらに渡宋のお供として、れいの風流武者六十余人を御指定に相成り、私などもその光栄の人数の端にさし加へられ、御指定にあづかつた風流武者の面々は、もともと豪傑のお方ばかりでございますし、いつもの船遊びの少し大がかりのものくらゐに考へて居られたらしく、何事も将軍家を御信頼しておまかせ申し、のんきに唐の美人の話など持ち出して、早くも浮かれてゐるやうな有様で、いまはただ和卿の唐船の完成を待つばかりとなりました。将軍家も、いそいそと落ちつかぬ御様子で、宋へ御出発前にどうしても見て置かなければならぬ御政務は、片端から精出して御覧になつて、また、いままで御決裁をお怠りになつてゐたために、諸方の訴訟がずいぶんたまつてしまつてゐるといふ事をお聞きになつて、それも必ず年内に片づけるやうにしたいと仰せになつてお役人を督励してどしどしお片づけに相成り、今はなんとしても渡宋せずにはやまぬといふ御意気込みのやうで、このやうに将軍家を異様にせきたてるものは、いつたい、なんであらうと私は将軍家のその頃の日夜、そはそはと落ちつかず御いそがしさうになさつて居られるのを拝して、考へた事でございましたが、御目的は、勿諭医王山ではない、陳和卿のいやしい心をお見抜き出来ぬ将軍家ではございませんし、何でもちやんとご存じの上で和卿をほんの一時、御利用なされてゐるだけの事に違ひないので、行先きは宋でなくてもいいのだ、御目的は、たつた一年でも半歳でも、ただこの鎌倉の土地から遁れてみたいといふところにあるのだ、建保三年十一月の末、和田左衛門尉義盛以下将卒の亡霊が、将軍家の御枕上に、ぞろりと群をなして立つたといふ、その翌朝、にはかに、さかんな仏事を行ひましたけれど、心ならずもその寵臣の一族を皆殺しにしてしまつた主君の御胸中は、なかなか私どもには推察できぬ程に荒涼たるものがあるのではございませんでせうか、これ必ず一つの原因と私には思はれてならなかつたのでございます。

 

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