記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日刊 太宰治全小説】#172「大力」(『新釈諸国噺』)

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【冒頭】
むかし讃岐の国、高松に丸亀屋とて両替屋を営み四国に名高い歴々の大長者、その一子に才兵衛とて生れ落ちた時から骨太く眼玉はぎょろりとしてただならぬ風貌の男児があったが、三歳にして手足の筋骨いやに節くれだち、無心に物差しを振り上げ飼猫の頭をこつんと打ったら、猫は声も立てずに絶命し、乳母は驚き猫の死骸を取上げて見たら、その頭の骨が微塵に打ち砕かれているので、ぞっとして、おひまを乞い、六歳の時にはもう近所の子供たちの餓鬼大将で、裏の草原につながれてある子牛を抱きすくめて頭の上に載せその辺を歩きまわって見せて、遊び仲間を戦慄させ、それから毎日のように、その子牛をおもちゃにして遊んで、次第に牛は大きくなっても、はじめからかつぎ慣れているものだから何の仔細もなく四肢をつかまえて眼より高く差し上げ、いよいよ牛は大きくなり、才兵衛九つになった頃には、その牛も、ゆったりと車を引くほどの大黒牛になったが、それでも才兵衛はおそれず抱きかかえて、ひとりで大笑いすれば、遊び友達はいまは全く薄気味わるくなり、誰も才兵衛と遊ぶ者がなくなって、才兵衛はひとり裏山に登って杉の大木を引抜き、牛よりも大きい岩を崖の上から蹴落として、つまらなそうにして遊んでいた。

【結句】
本町二十不孝の番附(ばんづけ)の大横綱になったという。 

 

大力(だいりき)」(新釈諸国噺(しんしゃくしょこくばなし))について

新潮文庫お伽草紙』所収。
・昭和20年1月27日、生活社から刊行の『新釈諸国噺』に収載。


お伽草紙 (新潮文庫)

 

全文掲載(「青空文庫」より)

 

 大力  (讃岐さぬき) 本朝二十不孝ほんちょうにじゅうふこう、四十五歳

 

 むかし讃岐さぬきの国、高松に丸亀まるがめ屋とて両替屋を営み四国に名高い歴々の大長者、その一子に才兵衛さいべえとて生れ落ちた時から骨太く眼玉めだまはぎょろりとしてただならぬ風貌ふうぼう男児があったが、三歳にして手足の筋骨いやに節くれだち、無心に物差しを振り上げ飼猫かいねこの頭をこつんと打ったら、猫は声も立てずに絶命し、乳母は驚き猫の死骸しがいを取上げて見たら、その頭の骨が微塵みじんに打ち砕かれているので、ぞっとして、おひまをい、六歳の時にはもう近所の子供たちの餓鬼大将で、裏の草原につながれてある子牛を抱きすくめて頭の上に載せその辺を歩きまわって見せて、遊び仲間を戦慄せんりつさせ、それから毎日のように、その子牛をおもちゃにして遊んで、次第に牛は大きくなっても、はじめからかつぎ慣れているものだから何の仔細しさいもなく四肢ししをつかまえて眼より高く差し上げ、いよいよ牛は大きくなり、才兵衛九つになったころには、その牛も、ゆったりと車を引くほどの大黒牛になったが、それでも才兵衛はおそれず抱きかかえて、ひとりで大笑いすれば、遊び友達はいまは全く薄気味わるくなり、だれも才兵衛と遊ぶ者がなくなって、才兵衛はひとり裏山に登ってすぎの大木を引抜き、牛よりも大きい岩をがけの上から蹴落けおとして、つまらなそうにして遊んでいた。十五、六の時にはもうほおひげも生えて三十くらいに見え、へんに重々しく分別ありげな面構つらがまえをして、すこしも可愛かわいいところがなく、その頃、讃岐に角力すもうがはやり、大関には天竺仁太夫てんじくにだゆうつづいて鬼石、黒駒くろこま大浪おおなみ、いかずち、白滝、青鮫あおざめなど、いずれも一癖ありげな名前をつけて、里の牛飼、山家やまが柴男しばおとこ、または上方かみがたから落ちて来た本職の角力取りなど、四十八手しじゅうはってに皮をすりむき骨を砕き、無用の大怪我おおけがばかりして、またこの道にも特別の興ありと見えて、やめられず椴子どんすのまわしなどして時々ゆるんでまわしがずり落ちてもにこりとも笑わず、上手うわてがどうしたの下手したてがどうしたの足癖がどうしたのと、何の事やらこの世の大事のごとく騒いで汗もかず矢鱈やたらにもみ合って、稼業かぎょうも忘れ、家へ帰ると、人一倍大めしをくらって死んだようにぐたりと寝てしまう。かねて力自慢の才兵衛、どうしてこれを傍観し得べき。椴子のまわしを締め込んで、土俵に躍り上って、さあ来い、と両手をひろげて立ちはだかれば、皆々、才兵衛の幼少の頃からの馬鹿力ばかぢからを知っているので、にわかに興覚めて、そそくさと着物を着て帰り仕度をする者もあり、若旦那わかだんな、およしなさい、へへ、ご身分にかかわりますよ、とお世辞だか忠告だか非難だか、わけのわからぬ事を人の陰に顔をかくして小声で言う者もあり、その中に、上方からくだって来た鰐口わにぐちという本職の角力、上方では弱くて出世もできなかったが田舎へ来ればやはり永年たたき込んだ四十八手がものを言い在郷ざいごうの若い衆の糞力くそぢからを軽くあしらっている男、では一番、と平気で土俵にあがって、おのれと血相変えて飛び込んで来る才兵衛の足を払って、苦もなくじ伏せた。才兵衛は土俵のまんなかに死んだかえるのように見っともなくいつくばって夢のような気持、実に不思議な術もあるものだと首を振り、間抜けた顔で起き上って、どっと笑いはやす観衆をちょっとにらんで黙らせ、腹が痛い、とてれ隠しのつまらぬうそをついて家へ帰って来たが、くやしくてたまらぬ。鶏を一羽ひねりつぶして煮て骨ごとばりばり食って力をつけて、その夜のうちに鰐口の家へたずねて行き、さきほどは腹が痛かったので思わぬ不覚をとったが、今度は負けぬ、庭先で一番やって見よう、と申し出た。鰐口は晩酌ばんしゃくの最中で、うるさいと思ったが、いやにしつこくいどんで来るので着物を脱いで庭先に飛び降り、突きかかって来る才兵衛の巨躯きょくを右に泳がせ左に泳がせ、自由自在にあやつれば、才兵衛次第に目まいがして来て庭の松の木を鰐口と思い込み、よいしょと抱きつき、いきせき切って、この野郎と叫んで、苦も無く引き抜いた。
「おい、おい、無茶をするな。」鰐口もさすがに才兵衛の怪力にあきれて、こんなものを永く相手にしていると、どんな事になるかもわからぬと思い、縁側にあがってさっさと着物を着込んで、「小僧、酒でも飲んで行け。」と懐柔の策に出た。
 才兵衛は松の木を引き抜いて目よりも高く差し上げ、ふと座敷の方を見ると、鰐口が座敷で笑いながらお酒を飲んでいるので、ぎょっとして、これは鬼神に違いないと幼く思い込み、松の木も何も投げ捨て庭先に平伏し、わあと大声を挙げて泣いて弟子にしてくれよと懇願した。
 才兵衛は鰐口を神様の如くあがめて、その翌日から四十八手の伝授にあずかり、もともと無双の大力ゆえ、その進歩は目ざましく、教える鰐口にも張合いが出て来るし、それにもまして、才兵衛はただもう天にも昇る思いで、うれしくてたまらず、寝ても覚めても、四十八手、四十八手、あすはどの手で投げてやろうと寝返り打って寝言ねごとを言い、その熱心が摩利支天まりしてんにも通じたか、なかなかの角力上手になって、もはや師匠の鰐口も、もてあまし気味になり、弟子に投げられるのも恰好かっこうが悪く馬鹿々々しいと思い、る日もっともらしい顔をして、なんじも、もう一人前の角力取りになった、その心掛けを忘れるな、とわけのわからぬ訓戒を垂れ、ついては汝に荒磯あらいそという名を与える、もう来るな、と言っていそいで敬遠してしまった。才兵衛は師匠から敬遠されたとも気附きづかず、わしもいよいよ一人前の角力取りになったか、ありがたいわい、きょうからわしは荒磯だ、すごい名前じゃないか、ああまことに師の恩は山よりも高い、と涙を流してよろこび、それからは、どこの土俵にいても無敵の強さを発揮し、十九の時に讃岐の大関天竺仁太夫を、土俵の砂に埋めて半死半生にし、それほどまで手ひどく投げつけなくてもいいじゃないかと角力仲間の評判を悪くしたが、なあに、角力は勝ちゃいいんだ、と傲然ごうぜんとうそぶき、いよいよ皆に憎まれた。丸亀屋の親爺おやじは、かねてよりわが子の才兵衛の力自慢をにがにがしく思い、何とか言おうとしても、才兵衛にぎょろりと睨まれると、わが子ながらも気味悪く、あの馬鹿力で手向いされたら親の威光も何もあったものでない、この老いの細い骨は微塵みじん、と震え上って分別し直し、しばらく静観と自重していたのだが、このごろは角力に凝って他人様ひとさま怪我けがさせて片輪にして、にくしみの的になっている有様を見るに見かねて、或る日、おっかなびっくり、
「才兵衛さんや、」わが子にさんを附けて猫撫声ねこなでごえで呼び、「人は神代かみよから着物を着ていたのですよ。」遠慮しすぎて自分でも何だかわからないような事を言ってしまった。
「そうですか。」荒磯は、へんな顔をして親爺を見ている。親爺は、いよいよ困って、
「はだかになって五体あぶない勝負も、夏は涼しい事でしょうが、冬は寒くていけませんでしょうねえ。」と伏目になってひざをこすりながら言った。さすがの荒磯も噴き出して、
角力をやめろと言うのでしょう?」と軽く問い返した。親爺はぎょっとして汗をき、
「いやいや、決してやめろとは言いませんが、同じ遊びでも、楊弓ようきゅうなど、どうでしょうねえ。」
「あれは女子供の遊びです。大の男が、あんな小さい弓を、ふしくれ立った手でひねくりまわし、百発百中の腕前になってみたところで、どろぼうに襲われて射ようとしても、どろぼうが笑い出しますし、さかなを引く猫にあてても描はかゆいとも思やしません。」
「そうだろうねえ。」と賛成し、「それでは、あの十種香じしゅこうとか言って、さまざまの香をぎわける遊びは?」
「あれもつまらん。香を嗅ぎわけるほどの鼻があったら、めしのこげるのを逸早いちはやく嗅ぎ出し、下女にかまの下のまきをひかせたら少しは家の仕末のたしになるでしょう。」
「なるほどね。では、あの蹴鞠けまりは?」
「足さばきがどうのこうのと言って稽古けいこしているようですが、へいを飛び越えずに門をくぐって行ったって仔細しさいはないし、闇夜やみよには提灯ちょうちんをもって静かに歩けばみぞへ落ちる心配もない。何もあんなに苦労して足を軽くする必要はありません。」
「いかにも、そのとおりだ。でも人間には何か愛嬌あいきょうが無くちゃいけないんじゃないかねえ。茶番の狂言なんか稽古したらどうだろうねえ。家に寄り合いがあった時など、あれをやってみんなにお見せすると、――」
「冗談を言っちゃいけない。あれは子供の時こそ愛嬌もありますが、ひげの生えた口から、まかりでたるは太郎冠者たろうかじゃも見る人が冷汗をかきますよ。お母さんだけが膝をすすめて、うまい、なんてほめて近所のもの笑いの種になるくらいのものです。」
「それもそうだねえ。では、あの活花いけばなは?」
「ああ、もうよして下さい。あなたは耄碌もうろくしているんじゃないですか。あれは雲の上の奥深きお方々が、野辺に咲く四季の花をごらんになる事が少いので、深山の松かしわを、取り寄せて、生きてあるままの姿を御眼の前にながめてお楽しみなさるためにはじめた事で、わしたち下々の者が庭の椿つばきの枝をもぎ取り、鉢植はちうえの梅をのこぎりで切って、床の間に飾ったって何の意味もないじゃないですか。花はそのままに眺めて楽しんでいるほうがいいのだ。」言う事がいちいち筋道がちゃんと立っているので親爺は閉口して、
「やっぱり角力が一ばんいいかねえ。大いにおやり。お父さんも角力がきらいじゃないよ。若い時には、やったものです。」などと、どうにも馬鹿らしい結果になってしまった。お内儀は親爺の無能を軽蔑けいべつして、あたしならば、ああは言わない、と或る日、こっそり才兵衛を奥の間に呼び寄せ、まず華やかに、おほほと笑い、
「才兵衛や、まあここへおすわり。まあたいへんひげが伸びているじゃないか、ったらどうだい。髪もそんなに蓬々ぼうぼうとさせて、どれ、ちょっとでつけてあげましょう。」
「かまわないで下さい。これは角力の乱れ髪と言っていきなものなんです。」
「おや、そうかい。それでも粋なんて言葉を知ってるだけたのもしいじゃないか。お前はことし、いくつだい。」
「知ってる癖に。」
「十九だったね。」と母は落ちついて、「あたしがこの家にお嫁に来たのは、お父さんが十九、お母さんが十五の時でしたが、お前のお父さんたら、もうその前から道楽の仕放題でねえ、十六の時から茶屋酒の味を覚えたとやらで、着物の着こなしでも何でも、それこそ粋でねえ、あたしと一緒になってからも、しばしば上方へのぼり、いいひとをたくさんこしらえて、いまこそあんな、どっちを向いてるのだかわからないような変な顔だが、わかい時には、あれでなかなか綺麗きれいな顔で、ちょっとそんなに俯向うつむいたところなど、いまのお前にそっくりですよ。お前も、お父さんに似てまつげが長いから、うつむいた時の顔にうれえがあって、きっと女には好かれますよ。上方へ行って島原しまばらなどの別嬪べっぴんさんを泣かせるなんてのは、男と生れて何よりの果報だろうじゃないか。」と言って、いやらしくにやりと笑った。
「なんだつまらない。女を泣かせるには殴るに限る。角力で言えば張手はりてというやつだ。こいつを二つ三つくらわせたら、泣かぬ女はありますまい。泣かせるのが、果報だったら、わしはこれからいよいよ角力の稽古をはげんで、世界中の女を殴って泣かせて見せます。」
「何を言うのです。まるで話が、ちがいますよ。才兵衛、お前は十九だよ。お前のお父さんは、十九の時にはもう茶屋遊びでも何でも一とおり修行をすましていたのですよ。まあ、お前も、花見がてらに上方へのぼって、島原へでも行って遊んで、千両二千両使ったって、へるような財産でなし、気に入った女でもあったら身請みうけして、どこか景色のいい土地にしゃれた家でも建て、その女のひとと、しばらくままごと遊びなんかして見るのもいいじゃないか。お前の好きな土地に、お前の気ままの立派なお屋敷をこしらえてあげましょう。そうして、あたしのほうから、米、油、味噌みそ、塩、醤油しょうゆ薪炭しんたん、四季折々のお二人の着換え、何でもとどけて、お金だって、ほしいだけ送ってあげるし、その女のひと一人だけでさびしいならば、おめかけを京からもう二、三人呼び奇せて、そのほか振袖ふりそでのわかい腰元三人、それから中居なかい、茶の間、御物おもの縫いの女、それから下働きのおさんどん二人、お小姓二人、小坊主こぼうず一人、あんま取の座頭一人、御酒の相手に歌うたいの伝右衛門でんえもん、御料理番一人、駕籠かごかき二人、御草履おぞうり取大小二人、手代一人、まあざっと、これくらいつけてあげるつもりですから、悪い事は言わない、まあ花見がてらに、――」と懸命に説けば、
「上方へは、いちど行ってみたいと思っていました。」と気軽に言うので、母はよろこび膝をすすめ、
「お前さえその気になってくれたら、あとはもう、立派なお屋敷をつくって、お妾でも腰元でも、あんま取の座頭でも、――」
「そんなのはつまらない。上方には黒獅子くろじしという強い大関がいるそうです。なんとかしてその黒獅子を土俵の砂に埋めて、――」
「ま、なんて情無い事を考えているのです。好きな女と立派なお屋敷に暮して、酒席のなぐさみには伝右衛門を、――」
「その屋敷には、土俵がありますか。」
 母は泣き出した。
 襖越ふすまごしに番頭、手代てだいたちが盗み聞きして、互いに顔を見合せて溜息ためいきをつき、
「おれならば、お内儀さまのおっしゃるとおりにするんだが。」
「当り前さ。蝦夷えぞが島の端でもいい、立派なお屋敷で、そんな栄華のくらしを三日でもいい、あとは死んでもいい。」
「声が高い。若旦那わかだんなに聞えると、あの、張手とかいうすごいのを、二つ三つお見舞いされるぞ。」
「そいつは、ごめんだ。」
 みな顔色を変え、こそこそと退出する。
 その後、才兵衛に意見をしようとする者も無く、才兵衛いよいよ増長して、讃岐一国を狭しとして阿波あわの徳島、伊予いよの松山、土佐の高知などの夜宮角力よみやずもうにも出かけて、情容赦も無く相手を突きとばし張り倒し、多くの怪我人を出して、角力は勝ちゃいいんだ、と憎々しげにせせら笑って悠然ゆうぜんと引き上げ、朝昼晩、牛馬羊の生肉を食って力をつけ、顔は鬼の如く赤く大きく、路傍で遊んでいる子はそれを見て、きゃっと叫んで病気になり、大人は三丁さきから風をくらって疾走し、丸亀屋の荒磯と言えば、讃岐はおろか四国全体、誰知らぬものとて無い有様となった。才兵衛はおろかにもそれを自身の出世と考え、わしの今日あるは摩利支天のお恵みもさる事ながら、第一は恩師鰐口様のおかげ、めったに鰐口様のほうへは足を向けて寝られぬ、などと言うものだから、鰐口は町内の者に合わす顔が無く、いたたまらず、ついに出家しなければならなくなった。そのような騒ぎをいつまでも捨て置く事も出来ず、丸亀屋の身内の者全部ひそかに打寄って相談して、これはとにかく嫁をもらってやるに限る、横町の小平太の詰将棋も坂下の与茂七の尺八も嫁をもらったらぱったりやんだ、才兵衛さんも綺麗なお嫁さんから人間の情愛というものを教えられたら、あんな乱暴なむごい勝負がいやになるに違いない、これは何でも嫁をもらってやる事です、と鳩首きゅうしゅして眼を光らせてうなずき合い、四方に手廻てまわしして同じ讃岐の国の大地主の長女、ことし十六のお人形のように美しい花嫁をもらってやったが、才兵衛は祝言しゅうげんの日にも角力の乱れ髪のままで、きょうは何かあるのですか、大勢あつまっていやがる、と本当に知らないのかどうか、法事ですか、など情無い事を言い、父母をはじめ親戚しんせき一同、拝むようにして紋服を着せ、花嫁のそばに坐らせてとにかく盃事さかずきごとをすませて、ほっとした途端に、才兵衛はぷいと立ち上って紋服を脱ぎ捨て、こんなつまらぬ事をしていては腕の力が抜けると言い、庭に飛び降り庭石を相手によいしょ、よいしょとすさまじい角力の稽古。父母は嫁の里の者たちに面目なく背中にびっしょり冷汗をかいて、
「まだ子供です。ごらんのとおりの子供です。お見のがしを。」と言うのだが、見たところ、どうしてなかなか子供ではない。四十くらいの親爺に見える。嫁の里の者たちは、あっけにとられて、
「でも、あんな髭をはやして分別顔でりきんでいるさまは、石川五右衛門かまうでを思い出させます。」と率直な感想を述べ、とんでもない男に娘をやったと顔を見合せて溜息をついた。
 才兵衛はその夜お嫁を隣室に追いやり、間の襖に念入りに固くしんばり棒をして、花嫁がしくしく泣き出すと大声で、
「うるさい!」と呶鳴どなり、「お師匠の鰐口様がいつかおっしゃった。夫婦が仲良くすると、あたら男盛りも、腕の力が抜ける、とおっしゃった。お前も角力取の女房にょうぼうではないか。それくらいの事を知らないでどうする。わしは女ぎらいだ。摩利支天に願掛けて、わしは一生、女に近寄らないつもりなのだ。馬鹿者め。めそめそしてないで、早くそっちへ蒲団ふとん敷いて寝ろ!」
 花嫁は恐怖のあまり失神して、家中が上を下への大騒ぎになり、嫁の里の者たちはその夜のうちに、鬼が来た鬼が来たと半狂乱で泣き叫ぶ娘を駕籠かごに乗せて、里へ連れもどった。
 このような不首尾のために才兵衛の悪評はいよいよ高く、いまは出家遁世とんせいして心静かに山奥のいおりで念仏三昧ざんまいの月日を送っている師匠の鰐口の耳にもはいり、師匠にとって弟子の悪評ほどつらいものはなく、あけくれ気に病み、ついには念仏の障りにもなって、或る夜、決意して身を百姓姿にかえて山を下り、里の夜宮に行って相変らずさかんな夜宮角力を、頬被ほおかぶりして眺めて、そのうちにれいの荒磯が、のっしのっしと土俵にあがり、今夜もわしの相手は無しか、しりごみしないでかかって来い、としゃがれた声で言ってぎょろりとあたりを見廻せば、お宮の松籟しょうらいも、しんと静まり、人々は無言で帰り仕度をはじめ、その時、鰐口和尚おしょうは着物を脱ぎ、頬被りをしたままで、おう、と叫んで土俵に上った。荒磯は片手で和尚の肩をわしづかみにして、この命知らずめが、とせせら笑い、和尚は肩の骨がいまにも砕けはせぬかと気が気でなく、
「よせ、よせ。」と言っても、荒磯は、いよいよ笑って和尚の肩をゆすぶるので、どうにも痛くてたまらなくなり、
「おい、おい。おれだ、おれだよ。」とささやいて頬被りを取ったら、
「あ、お師匠。おなつかしゅう。」などと言ってる間に和尚は、上手投げという派手な手を使って、ものの見事に荒磯の巨体を宙に一廻転させて、ずでんどうと土俵のまん中に仰向けに倒した。その時の荒磯の形のみっともなかった事、大鯰おおなまず瓢箪ひょうたんからすべり落ち、いのしし梯子はしごからころげ落ちたみたいの言語に絶したぶざまな恰好かっこうであったと後々の里の人たちの笑い草にもなった程で、和尚はすばやく人ごみにまぎれて素知らぬ振りで山の庵に帰り、さっぱりした気持で念仏をとなえ、荒磯はあばら骨を三本折って、戸板に乗せられて死んだようになって家へ帰り、師匠、あんまりだ、うらみます、とうわごとを言い、その後さまざま養生してもはかどらず、看護の者を足で蹴飛けとばしたりするので、次第にお見舞いをする者もなくなり、ついには、もったいなくも生みの父母に大小便の世話をさせて、さしもの大兵だいひよう肥満も骨と皮ばかりになって消えるように息を引きとり、本朝二十不孝の番附ばんづけの大横綱になったという。

(本朝二十不孝、巻五の三、無用の力自慢)

 

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