記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日刊 太宰治全小説】#177「義理」(『新釈諸国噺』)

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【冒頭】

義理のために死を致す事、これ弓馬の家のならい、むかし摂州伊丹に神崎式部という筋目正しき武士がいた。

【結句】

式部うつむき涙を流し、まことに武士の義理ほどかなしき物はなし、ふるさとを出(い)でし時、人も多きに我を択(えら)びて頼むとの一言、そのままに捨てがたく、万事に劣れる子ながらも大事に目をかけここまで来て不慮の災難、丹後どのに顔むけなりがたく、何の罪とがも無き勝太郎をむざむざ目前に於いて死なせたる苦しさ、さりとては、うらめしの世、丹後どのには他の男の子ふたりあれば、歎きのうちにもまぎれる事もありなんに、それがしには勝太郎ひとり。国元の母のなげきもいかばかり、われも寄る年波、勝太郎を死なせていまは何か願いの楽しみ無し、出家、と観念して、表面は何気なく若殿に仕えて、首尾よく蝦夷見物の大役を果し、その後、城主にお暇(いとま)を乞い、老妻と共に出家して播州の清水の山深くかくれたのを、丹後その経緯を聞き伝えて志に感じ、これもにわかにお暇を乞い請け、妻子とも四人いまさらこの世に生きて居られず、みな出家して勝太郎の菩提をとむらったとは、いつの世も武家の義理ほど、あわれにして美しきは無しと。 

 

「義理」(『新釈諸国噺』)について

新潮文庫お伽草紙』所収。

・昭和19年3月末頃までに脱稿。

・昭和19年5月1日、『文藝』五月号に「武家義理物語(新釈諸国話)」として発表。

お伽草紙 (新潮文庫)

 

全文掲載(「青空文庫」より)

義理   (摂津) 武家義理物語、四十七歳
 
 義理のために死を致す事、これ弓馬の家のならい、むかし摂州伊丹せっしゅういたみに神崎式部という筋目正しき武士がいた。伊丹の城主、荒木村重あらきむらしげにつかえて横目役を勤め、年久しく主家を泰山の安きに置いた。主家の御次男、村丸という若殿、御総領の重丸のよろず大人びて気立やさしきに似ず、まことに手にあまる腕白者にて、神崎はじめ重臣一同の苦労の種であったが、城主荒木は、優雅な御総領よりも、かえってこの乱暴者の御次男を贔屓ひいきしてその我儘わがままを笑ってお許しになるので、いよいよ増長し、ついにる時、蝦夷えぞとはどのような国か、その風景をひとめ見たい、と途方もない事を言い出し、家来たちがなだめると尚更なおさら、図に乗って駄々だだをこね、蝦夷を見ぬうちはめしを食わぬと言っておぜん蹴飛けとばす仕末であった。かねて村丸贔屓の城主荒木は、このたびもまた笑って、よろしい、蝦夷一覧もよかろう、行っておいで、若い頃の長旅は一生の薬、と言って事もなげにその我儘の願いを聞きれてやった。御供は神崎式部はじめ、家中粒選かちゅうつぶよりの武士三十人。
 そのお供の人数の中に、二人の少年が、御次男のお話相手として差加えられていた。一人は神崎勝太郎とて十五歳、式部の秘蔵のひとり息子で容貌ようぼう華麗、立居振舞い神妙の天晴あっぱれ父の名を恥かしめぬ秀才の若武者、いまひとりは式部の同役森岡丹後の三人の男の子の中の末子丹三郎とて十六歳、勝太郎にくらべて何から何まで見劣りして色は白いが眼尻めじりは垂れ下り、くちびる厚く真赤で猪八戒ちょはっかいに似ているくせになかなかのおしゃれで、額の面皰にきびを気にして毎朝ひそかに軽石でこすり、それがために額は紫色に異様にてかてか光っている。でっぷりと太って大きく、一挙手一投足のろくさく、武芸はきらい、色情はさかん、いぎたなく横坐よこずわりに坐って、何を思い出しているのか時々、にやりと笑ったりして、いやらしいったら無い子であった。けれどもこの子は、どういうものか若殿村丸のお気にいりで、たこよ蛸よと呼ばれて、いつもおそばちかくはべって若殿にけしからぬ事を御指南申したりして、若殿と共にげらげら下品に笑い合っているのである。もとより式部はこの丹三郎を好かなかった。このたびの蝦夷見物のお供にもこの子を加えたく無かったのだが、自分の一子勝太郎が城主の言いつけでお供の一人に差加えられているし、同役の森岡丹後の子を無下にしりぞける事は出来なかった。同役への義理である。森岡丹後も親の慾目よくめから末子の丹三郎をそれほど劣った子とは思っていないらしく、
「神崎どの、このたびは運悪く私が留守番にまわりましたが、私のかわりに末子の丹三郎が仕合せとお供の端に加えられましたから、まあ、あれの土産話でも、たのしみにして待っている事に致しましょう。それにつけてもあれも初旅、なりばかり大きくてもまだほんの子供ゆえ、諸事よろしくたのみますぞ。」と親の真情、ぴたりと畳に両手をついてお辞儀をしたのだ。いや、あの子はどうも、とは言われない。その上、若殿から蛸もぜひとの内命があったのだから、どうしても蛸をお供の人数に差加えないわけにはゆかぬ。しぶしぶ丹三郎を連れて国元を出発したが、京を過ぎて東路あずまじをくだり、草津くさつ宿しゅくに着いた頃には、そろそろ丹三郎、皆の足手まといになっていた。だいいち、ひどく朝寝坊だ。若殿と二人で夜おそくまで、宿の女中にたわむれて賭事かけごとやら狐拳きつねけんやら双六すごろくやら、いやらしく忍び笑いして打興じて、式部は流石さすがに見るに見兼ね、
「あすは早朝の出発ゆえ、もはや、おやすみなさるよう。」と思い切って隣室から強く言っても、若殿は平気で、
遊山ゆさんの旅だ。かまわぬ。のう、蛸め。」
「はあ。」と蛸は答えて、にやにや笑っている。そうして、翌朝、蛸は若殿よりもおそく起きる。この丹三郎ひとりの朝寝坊のために、一行の宿からの出発が、いつもおくれる。若殿は、のんきに、
「捨て置け。あとから追いつく。」と言い、蛸ひとりを宿に置いてさっさと発足しようとなさるが、神崎式部は丹三郎の親の丹後から、あの子をよろしくと、一言たのまれているのだ。捨て置いて発足するわけには行かぬ。わが子の勝太郎に言いつけて、丹三郎を起させる。勝太郎は丹三郎よりも一つ年下である。それゆえすこし遠慮の言葉使いで丹三郎を起す。
「もし、もし。御出発でございます。」
「へえ? ばかに早いな。」
「若殿も、とうにお仕度がお出来になりました。」
「若殿は、あれから、ぐっすりお休みになられたらしいからな。おれは、あれから、いろいろな事を考えて、なかなか眠られなかった。それに、お前の親爺おやじのいびきがうるさくてな。」
「おそれいります。」
「忠義もつらいよ。おれだって、毎夜、若殿の遊び相手をやらされて、へとへとなんだよ。」
「お察し申してります。」
「うん、まったくやり切れないんだ。たまには、お前が代ってくれてもよさそうなものだ。」
「は、お相手を申したく心掛けて居りますが、私は狐拳など出来ませんので。」
「お前たちは野暮だからな。固いばかりが忠義じゃない。狐拳くらい覚えて置けよ。」
「はあ、」と気弱く笑って、「それにしても、もう皆様が御出発でございますから。」
「何が、それにしても、だ。お前たちは、おれを馬鹿にしているんだ。ゆうべも、その事を考えて、くやしくて眠れなかったんだ。おれも親爺と一緒に来ればよかった。親から離れて旅に出ると、どんなに皆に気がねをしなけりゃならぬものか、お前にはわかるまい。おれは国元を出発してこのかた、肩身のせまい思いばかりしている。人間って薄情なものだ。親の眼のとどかないところでは、どんなにでもその子を邪険に扱うんだからな。いや、お前たちの事を言っているんじゃない。お前たち親子は立派なものさ。立派すぎて、おつりが来らあ。このたびの蝦夷見物がすんだなら、おれはお前たち親子の事を逐一、国元の殿様と親爺にお知らせするつもりだ。おれには、なんでもわかっているんだ。お前の親爺は、ずいぶんお前を可愛かわいがっているらしいじゃないか。隠さなくたっていい。ゆうべこの宿に着いた時、お前の親爺は、これ勝太郎、足の豆には焼酎しょうちゅうでも吹いて置け、と言ったのをおれは聞いたぞ。おれには、あんな事は言わない。皆の見ている前では、いやにおれに親切にしてみせるが、へン、おれにはちゃんとわかっているんだ。実の親子の情は、さすがに争われないものだ。焼酎でも吹いて置け、か。あとでその残りの焼酎を、親子二人で仲良く飲み合ったろう、どうだ。おれには一滴も酒を飲ませないばかりか、狐拳さえやめさせようとしやがるんだから面白くないよ。ゆうべは、つくづく考えた。ごめんこうむっておれはもう少し寝るよ。」
 襖越ふすまごしに神崎式部はこれを聞いていた。よっぽどこのまま捨て置いて発足しようかと思った。本当に、うっちゃって行ったほうがよかったのだ。そうすれば、のちのさまざまの不幸が起らずにすんだのかも知れない。けれども、式部は義理を重んずる武士であった。諸事よろしくたのむ、とぴたりと畳に両手をついて頼んだ丹後の声が、姿が、忘れられぬ。式部はその日も黙って、丹三郎の起床を待った。
 丹三郎の不仕鱈ふしだらには限りが無かった。草津水口みなくち土山つちやまを過ぎ、鈴鹿峠すずかとうげにさしかかった時には、もう歩けぬとわめき出した。もとから乗馬は不得手で、さりとてその自分の不得手を人に看破されるのも口惜くやしく無理して馬に乗ってはみたが、どうにもおしりが痛くてたまらなくなって、やっぱり旅は徒歩に限る、どうせ気散じの遊山旅だ、馬上の旅は固苦しい、野暮である、と言って自分だけでは体裁が悪いので勝太郎にも徒歩をすすめて馬を捨てさせ、共に若殿の駕籠かごの左右に附添ってここまで歩いて来たのだが、峠にさしかかって急に、こんどは徒歩も野暮だと言いはじめた。
「こうして、てくてく歩いているのも気のきかない話じゃないか。」蛸は駕籠に乗って峠を越したかったのである。
「やっぱり、馬のほうがいいでしょうか。」勝太郎には、どっちだってかまわない。
「なに、馬?」馬は閉口だ。とんでもない。「馬も悪くはないが、しかし、まあ一長一短というところだろうな。」あいまいに誤魔化ごまかした。
「本当に、」と勝太郎は素直に首肯うなずいて、「人間も鳥のように空を飛ぶ事が出来たらいいと思う事がありますね。」
「馬鹿な事を言っている。」丹三郎はせせら笑い、「空を飛ぶ必要はないが、」駕籠に乗りたいのだ。けれどもそれをあからさまに言う事は流石に少しはばかられた。「空を飛ぶ必要はないが、」とまた繰返して言い、「眠りながら歩く、という事は出来ないものかね。」と遠廻とおまわしになぞをかけた。
「それは、むずかしいでしょうね。」勝太郎には、丹三郎の底意がわからぬ。無邪気に答える。「馬の上なら、眠りながら歩くという事も出来ますけれど。」
「うん、あれは。」あれは、あぶない。蛸には、馬上で眠るなんて芸当は出来ない。眠ったら最後、落馬だ。「あれは、また、野暮なものだ。眼が覚めて、ここはどこか、と聞いても、馬は答えてくれないからね。」駕籠だと、駕籠かきが、へえ、もうそろそろ桑名です、と答えてくれる。ああ、駕籠に乗りたい。
「うまい事をおっしゃる。」勝太郎には、蛸の謎が通じない。ただ無心に笑っている。
 丹三郎はいまいましげに勝太郎を横目でにらんで、
「お前もまた、野暮な男だ。思いやりというものがない。」とあらたまった口調で言った。
「はあ?」と勝太郎はきょとんとしている。
「見ればわかるじゃないか。おれはもう、歩けなくなっているのだ。おれはこんなに太っているからまたずれが出来て、人に知られぬ苦労をして歩いているのだ。見れば、わかりそうなものだ。」と言って急に顔を苦しげにしかめ片足をひきずって歩きはじめた。
「肩を貸してやれ。」とお駕籠の後に扈従こじゅうしていた神崎式部は、その時、苦笑して勝太郎に言いつけた。
「はい。」と言って勝太郎は、丹三郎の傍に走り寄り、蛸の右手をったら、蛸は怒って、
「ごめんこうむる。こう見えても森岡丹後の子だ。お前のような年少の者の肩にしなだれかかって峠を越えたという風聞がもし国元に達したならば、父や兄たちの面目が丸つぶれじゃないか。お前たち親子はぐるになって、森岡の一家を嘲弄ちょうろうする気なのであろう。」とやけくそみたいに、わめき立てた。神崎親子は、顔色を変えた。
「式部、」と駕籠の中から若殿が呼んで、「蛸にも駕籠をやれ。」と察しのいいところを見せた。
「は、ただいま。」と式部は平伏する。蛸は得意だ。
 それから、関、亀山かめやま四日市よっかいち、桑名、宮、岡崎、赤坂、御油ごゆ、吉田、蛸は大威張りで駕籠にゆられて居眠りしながら旅をつづけた。宿に着けば相変らず夜ふかしと朝寝である。この丹三郎ひとりのために、国元を発足した時の旅の予定より十日ちかくもおくれて、卯月うづきのすえ、ようようきょうの旅泊りは駿河するがの国、島田の宿と、いそぎ掛川かけがわを立ち、小夜さよの中山にさしかかった頃から豪雨となって途中の菊川も氾濫はんらんし濁流は橋をゆるがし道を越え、しかも風さえ加って松籟しょうらいものすごく、一行の者の袖合羽そでがっぱすそ吹きかえされて千切れんばかり、うようにして金谷かなやの宿にたどりつき、ここにて人数をあらため一行無事なるを喜び、さて、これから名高い難所の大井川を越えて島田の宿に渡らなければならぬのだが、式部は大井川の岸に立って川の気色を見渡し、
「水かさ刻一刻とつのる様子なれば、きょうはこの金谷の宿に一泊。」とお供の者どもに言いつけた。
 けれども、乱暴者の若殿には、式部のこの用心深い処置が気にいらなかった。川を眺めてせせら笑い、
「なんだ、これがあの有名な大井川か。淀川よどがわの半分も無いじゃないか。国元の猪名川いながわよりも武庫川むこがわよりも小さいじゃないか。のう、蛸。これしきの川が渡れぬなんて、式部も耄碌もうろくしたようだ。」
「いかにも、」と蛸は神崎親子を横目で見てにやりと笑い、「私などは国元の猪名川を幼少の頃より毎日のように馬で渡ってなれて居りますので、こんな小さい川が、たといどんなに水を増してもおそろしいとは思いませぬが、しかし、生れつき水癲癇みずてんかんと申して、どのように弓馬の武芸に達していても、この水を見るとおそろしくぶるぶる震えるという奇病があって、しかもこれは親から子へ遺伝するものだそうで。」
 若殿は笑って、
「奇妙な病気もあるものだ。まさか式部は、その水癲癇とやらいう病気でもあるまいが、どうだ、蛸め、われら二人抜けけてこの濁流にこまをすすめ、かの宇治川うじがわ先陣、佐々木と梶原かじわらごとく、相競って共に向う岸に渡って見せたら、臆病おくびょうの式部はじめ供の者たちも仕方なく後からついて来るだろう。なんとしてもきょうのうちに、この大井川を渡って島田の宿に着かなければ、西国武士の名折れだぞ。蛸め、つづけ。」と駒に打ち乗り、濁流めがけて飛び込もうとするので式部もここは必死、しのつく雨の中をみのかさもほうり投げて若殿の駒のくつわに取りすがり、
「おやめなさい、おやめなさい。式部かねて承るに大井川の川底の形状変転常なく、その瀬そのふちの深浅は、川越しの人夫さえ踏違ふみたがえることしばしば有りとの事、いわんや他国のわれら、抜山ばつざんの勇ありといえども、血気だけでは、この川渡ることむずかしく、式部はきょう一日、その水癲癇とやら奇病にでも何にでも相成りますから、どうか式部の奇病をあわれに思召おぼしめして、川を越える事はあすになさって下さい。」と涙を流して懇願した。
 まことの臆病者の丹三郎は、口ではあんな偉そうな事を言ったものの、蛸め、つづけ! と若殿に言われた時には、くらくらと眩暈めまいがして、こりゃもうどうしようと、うろうろしたが、式部が若殿をいさめてくれたので、ほっとして、真青な顔に奇妙な笑いを無理に浮べ、「ちえ、残念。」と言った。
 それがいけなかった。その出鱈目でたらめの言葉が若殿の気持をいっそうたけり立たせた。
「蛸め。式部は卑怯ひきょうだ。かまわぬ、つづけ!」と式部の手のゆるんだすきを見て駒に一鞭ひとむちあて、暴虎馮河ぼうこひょうが、ざんぶと濁流に身をおどらせた。式部もいまはこれまでと観念し、
「それ! 若殿につづけ。」とお供の者たちにはげしく下知した。いずれも屈強の供の武士三十人、なんの躊躇ちゅうちょも無くつぎつぎと駒を濁流に乗り入れ、大浪おおなみをわけて若殿のあとを追った。
 岸には、丹三郎と跡見役の式部親子とが残った。丹三郎は、ぶるぶる震えながら勝太郎の手を固く握り、
「若殿は野暮だ。思いやりも何も無い。おれは実は馬は何よりも苦手なのだ。何もかも目茶苦茶だ。」と泣くような声で訴えた。
 式部は静かにあたりを見廻し、跡に遺漏のものの無きを見とどけ、さて、丹三郎に向い、
「これも皆、あなたの言葉から起った難儀です。でもまあいまは、そんな事を言っていたって仕様がありません。すぐに若殿の後を追いましょう。わしたちは果して生きて向う岸に行き着けるかどうか、この大水では、心もとない。けれども、わしは国元を出る時、あなたの親御の丹後どのから、丹三郎儀はまだほんの子供、しかも初旅の事ゆえ、諸事よろしくたのむと言われました。その一言が忘れかね、わしはきょうまで我慢に我慢を重ねて、あなたの世話を見て来ました。いまこの濁流を渡って、あなたの身にもしもの事があったなら、きょうまでのわしの苦労もそれこそ水のあわになります。馬は一ばん元気のいいのを、あなたのために取って置きました。せがれの勝太郎を先に立て、瀬踏みをさせますから、あなたは何でもただ馬の首にしがみついて勝太郎の後について行くといい。すぐあとに、わしがついて守って行きますから、心配せず、大浪をかぶってもあわてず、馬の首から手を離したりせぬように。」とおだやかに言われて流石の馬鹿も人間らしい心にかえったか、
「すみません。」と言って、わっと手放しで泣き出した。
 諸事頼むとの一言、ここの事なりと我が子の勝太郎を先に立て、次に丹三郎を特に吟味して選び置きし馬に乗せて渡らせ、わが身はすぐ後にひたと寄添ってすすみ渦巻うずまく激流を乗り切って、難儀の末にようやく岸ちかくなり少しく安堵あんどせし折も折、丹三郎いささかの横浪をかぶって馬のくらくつがえり、あなやの小さい声を残してはるか流れて浮き沈み、騒ぐ間もなくはや行方しれずになってしまった。
 式部、呆然ぼうぜんたるうちに岸に着き、見れば若殿は安泰、また我が子の勝太郎も仔細しさいなく岸に上って若殿のお傍にはべっている。
 世に武家の義理ほどかなしきは無し。式部、覚悟をめて勝太郎を手招き、
「そちに頼みがある。」
「はい。」と答えて澄んだ眼で父の顔を仰ぎ見ている。家中随一の美童である。
「流れに飛び込んで死んでおくれ。丹三郎はわしの苦労の甲斐かいも無く、横浪をかぶって鞍がくつがえり流れにまれて死にました。そもそもあの丹三郎儀は、かの親の丹後どのより預りきたれる義理のある子です。丹三郎ひとりがおぼれ死んで、お前が助かったとあれば、丹後どのの手前、この式部の武士の一分いちぶんが立ちがたい。ここを聞きわけておくれ。時刻をうつさずいますぐ川に飛び込み死んでおくれ。」とおもてこわくして言い切れば、勝太郎さすがは武士の子、あ、と答えて少しもためらうところなく、立つ川浪に身を躍らせて相果てた。
 式部うつむき涙を流し、まことに武家の義理ほどかなしき物はなし、ふるさとをでし時、人も多きに我をえらびて頼むとの一言、そのままに捨てがたく、万事に劣れる子ながらも大事に目をかけここまで来て不慮の災難、丹後どのに顔向けなりがたく、何の罪とがも無き勝太郎をむざむざ目前にいて死なせたる苦しさ、さりとては、うらめしの世、丹後どのには他の男の子ふたりあれば、なげきのうちにもまぎれる事もありなんに、それがしには勝太郎ひとり。国元の母のなげきもいかばかり、われも寄る年波、勝太郎を死なせていまは何か願いの楽しみ無し、出家、と観念して、表面は何気なく若殿に仕えて、首尾よく蝦夷見物の大役を果し、その後、城主においとまい、老妻と共に出家して播州ばんしゅうの清水の山深くかくれたのを、丹後その経緯を聞き伝えて志に感じ、これもにわかにお暇を乞いけ、妻子とも四人いまさらこの世に生きて居られず、みな出家して勝太郎の菩提ぼだいをとむらったとは、いつの世も武家の義理ほど、あわれにして美しきは無しと。
武家義理物語、巻一の五、死なば同じ浪枕なみまくらとや)

 

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