じつは私、今日9月7日が誕生日で、8時22分で29歳になりました。流行りの言い方を真似るなら、『20代最後の誕生日』ってやつです。
このタイミングで、どうしても書いておきたかった内容が、今回の記事です。
20代はあと1年あるし、20代を後悔のないカタチで締め括りたいと思ったからこそ、敢えて辛かった瞬間を切り抜いておきたい、と思いました。
この記事を通して、告発したいとか、同情が欲しい…ということではなく、同じような状況にいる人の背中を押すキッカケになったり、自分と関係ないと思っている方も、ちょっとでも考えてもらえるキッカケになれば幸いです。
絵本『いじめているきみへ』
大学卒業後、私は金融機関に就職し、丸5年間をそこで過ごしましたが、昨年3月末で退職をし、転職を決意。今は社会人になって二社目で働いています。
そして、金融機関を退職するキッカケになったのが、職場でのパワハラでした。
精神的に徐々に追い詰められ、辞表を提出するも、営業店の人材不足を理由に手続きを引き延ばされ、最終的には出勤途中に職場の最寄駅で倒れ、救急搬送されました。
正直、辛かった記憶を掘り起こすことになるので、思い出したくない気持ちもあります。
未だに当時の夢を見たり、頻度はかなり少なくなりましたが、フラッシュバックもあります。
でも、文章にまとめてみようと思ったキッカケをくれたのが、この絵本でした。
2018年8月20日に朝日新聞出版から刊行、「はるかぜちゃん」こと春名風花さんが執筆、イラストレーターのみきぐちさん挿画の絵本『いじめているきみへ』です。
2012年8月17日付朝日新聞に掲載のコラム「いじめている君へ」に大幅な改稿を加えたものとのこと。
綴られている言葉はシンプルだけど、それだけに色々と考えるキッカケをくれる絵本です。
必ず、自分の居場所はある。
何の意味もなく、この世に生を受けた人なんていない。
今ではそう思えるし、絵本を読んで、そのことを改めて実感できました。
辛くて、苦しくて、何度も自ら命を絶つことを考たし、そのことを口にして、親に涙させてしまったこともありました。
非常に申し訳ないことをしてしまったという記憶ですが、今、こうして、当時の状況を自分の口から語ることができるようになったことは、前向きに大きく前進できている証拠だと考えています。
今は、親に「この世に産んでくれてありがとう」という気持ちでいっぱいです。
この想いが、あえて誕生日の今日、記事をアップしようと思った根底にあります。
そして、自分が発信していくことで、似たような経験をした人の心の支えになったり、今、まさに悩んでいる人の助けになれば、と思います。
私の5年間① 〜第一志望へ就職
私が金融機関で働き始め、倒れて辞めるまでの5年間を振り返ります。
大学を卒業し、都内の金融機関に就職したのは2012年でした。
この年は東日本大震災があり、就職活動中に被災した記憶は、忘れられません。
就職氷河期と呼ばれた時代も相まって、就職活動は困難を極め、震災の影響で採用を取り止めた企業による内定切りに悩まされた友達もいました。
そんな中、何とか第一志望だった金融機関で辛くも内定をもらい、親や親戚からは「安定した企業に就職できて良かったね」と言われました。
自分で言うのもなんですが、物覚えがよく、仕事の要領もそこそこいい方なので、入社してからは、"期待の新人"と呼ばれていました。
入社一年目は、二年目から営業で出るための基礎づくりということで、半年スパンで預金業務と融資業務の基礎・事務をOJTで学びました。
二年目からは営業になり、自分の担当地区を割り振られました。もともと、人と話をするのは好きでしたし、そんな自分のことを好いてくれるお客さんも多くいました。
しかし、本部から支店に割り振られたノルマを達成するための、お客さんが望まない定期預金の作成や保険契約、年金受給口座の獲得などをはじめとした自分たち本位のお願いセールスに、疑問も感じていました。
ただ、住宅ローンや法人・個人事業主の融資借換など、お客さんに喜んでもらえる仕事もあり、大変ながら、そこにやり甲斐も感じていました。
私の5年間② 〜入社三年目の違和感
ちょっと歯車が狂い始めてきたなぁ…と感じたのは、入社三年目の頃でした。
金融機関の営業は、バリバリ体育会系ノリです。飲み会でのイッキもあるし、夜にプライベートの予定があっても、上司や先輩が「今日、飲みに行くぞ!」と言ったら、キャンセルせざるを得ませんでした。
「お前みたいな細くてナヨナヨしたヤツ、どうせ文系だろ?」なんて言われてましたが、私も高校まではずっと陸上部で、800mを専門に走っていました。
ストイックに自分を追い込んでいくのは好きですが、大人数でワイワイ騒ぐのは、あまり好きではありませんでした。
普段も、飲み会の時も、とにかく上司にゴマをすっている先輩もいましたが、進んでそういうことをしなかったため、上司や先輩から、少し煙たがられていた節はありました。
「元気が足りない。だから、数字も伸びない」
こんなことをよく言われていました。
最初は、入社三年目の4月。新入社員の歓迎会でした。
私の営業店は、毎年男女が交互に配属される店舗だったので、新入社員の歓迎会は恒例行事となっていたのですが、その席でのことです。
その出来事の前後の記憶は定かではありませんが、4つ年上で身長が高く、体格の良い先輩が苦手だった私は、飲みの場でも、その先輩を極力避けていました。
しかし、飲み会も終盤に近づいた頃、その先輩に絡まれた私は、ネクタイをグイと掴まれて引き寄せられ、そのまま後ろに突き飛ばされました。
勢いよく倒れ込んだので、何人か周りの人も心配してくれましたが、その時は酔っていたのもあって、痛みは全く感じませんでした。
その後も、その先輩に「おい〇〇、次はカラオケだぞ!」と言われ、二次会のカラオケへ移動するためのタクシーを拾うために奔走していたので、そのことは頭から綺麗に消えてしまっていました。
翌日土曜の朝に目覚めると、右脇腹に痛み。
その時は、突き飛ばされた時に軽くぶつけた打撲だろ…くらいに思っていました。
日曜、月曜、火曜と過ごし、右脇腹に若干の違和感を感じ続けながらも、日々の忙しさの中で慌ただしく生活していました。
水曜日。
その日は、有給でした。
当時付き合いはじめた彼女が不定休だったので、休みを合わせて、久し振りのデートの予定でした。
アトラクション施設に出掛けるも、強くなる右脇腹の違和感。両手を挙げて万歳すると、激痛が走ります。
お昼までは我慢していたのですが、さすがに耐えられなくなったため、デートを切り上げ、家の近くの整形外科に向かいました。
レントゲン撮影の結果は、右脇腹 第6肋骨骨折でした。
医者には「結構痛かったでしょ。なんでこんなに我慢してたの?もうちょっと酷かったら、肝臓とか臓器傷ついてたよ」と怒られました。
さすがに腹が立った私は、営業の直属の上司を通して、営業課の課長に全てを伝えました。
課長は、先日の飲み会の席で私が突き飛ばされたのを見ており、「あの時のやつか?」といった感じでした。
その日の営業課の夕礼。
課長は他の営業課員の前で「◯◯がアバラ折れたってよ。重たい荷物とか1ヶ月くらい持てないから、荷物運びとかサボってても仕方ないから」と言い、「俺もスノボで転んでアバラくらい折ったことあるし、大したことないのにな」と付け加えました。
夕礼の後、突き飛ばした先輩に呼び出され、「お前、あぁ言うことは、まず俺に言えよ。課長に、気を付けろよ!って怒られたじゃねーか。てか、あれくらいでアバラ折ってんじゃねーよ。お前が弱いのが悪いんだよ」と怒られました。
私の5年間③ 〜終わらない日々
肋骨を折られ、その後の対処も含め、会社・職場に対してのモヤモヤを強烈に抱くようになりました。
しかし、営業の部屋ではほぼ無口ながらも、お客さんとの会話・提案は面白く、それがやり甲斐で、会社を辞める選択肢というのは、その時はまだありませんでした。
その後、私に対して行われた上司・先輩の言動を列挙していきます。
週の半分くらいは、仲が良い同期と一緒に飲みに行っていたため、みんなでグチをこぼしながらも、サラリーマンの営業なんてこんなもんかなぁ…と思っていましたが、少し感覚がマヒしていたのかもしれません。
①
営業での飲み会の後、肋骨を折られた先輩に、駅のホームから突き落とされました。
ちょうど、電車が来ていないタイミングで、ほか一緒にいた上司・先輩が、笑いながら、ホームに落とされた私に手を伸ばし、引き上げてくれました。
その場にいた上司は、突き落とした先輩に「お前、危ねーよ。気を付けろよ」と笑いながら注意しました。
私はレールに尻もちをつき、お尻の左側を打撲。10日間程、自転車をこいでいても、デスクに座っていても、痛みに悩まされる日々を過ごしました。
②
私の営業店では、毎年職員旅行がありました。
その年は箱根で、金曜の夜に大型バスに乗り込み一泊し、翌日に観光して帰って来るという日程でした。
それは、行きのバスの中で起こりました。
私の2歳年上の先輩は、動画編集が得意で、過去1年間の営業店でのイベント時に撮影した写真をスライドショーにして、持参していました。
バス内に1年間の様々な出来事が流され、みんな笑ったり、しみじみと思い出に浸ったりしていました。
そのままスライドショーが終わるかと思った時、「まだまだ続きます」といったスライドの後に、私の家族写真や彼女と一緒に撮った写真が流されました。
バスの中は爆笑の渦に巻き込まれましたが、私は写真提供しておらず、全く状況理解ができませんでした。
支店長が、作成した先輩に「お前、この写真どうしたの?◯◯からもらったの?」と聞くと、「この前の飲み会の時、◯◯がトイレに行った時、テーブルにスマホ置きっ放しで、電源入れたらロックかかってなかったんで、面白そうな写真もらっときました」と、得意げに話したところ、「お前、すごいな!」と支店長は再び大爆笑していました。
③
日常的な営業の部屋での出来事でした。
私は考えごとをする時、右手で顎の下を触る癖がありました。
それを見た課長が「ん〜、マンダム」と言ったのが始まりでした。
最初は「◯◯、マンダム止めろよ〜」というようなイジりから始まりましたが、顎に手を当てる度に「マンダム!マンダム!」と指を指され、笑われる日々が続きました。
④
私の勤める金融機関では、年に一度、お客さんと一緒に行く一泊旅行がありました。
その年は草津旅行。企画の営業店担当者は私で、支店長と同行することになっていました。
豪華な旅程ですが、その分旅費が高いのと、町内会の旅行と日程が被ったのとで、なかなか参加してくれるお客さんが集まりませんでした。
私は課長から「旅行での集客率は、お客さんからの人気のバロメーターだ。特に、今回はお前が担当なんだから、お前が一番集めなきゃいけない。しかも、うちの支店は支店長が同行するんだから、バスの中の人が少なくて、支店長に恥をかかせるつもりか?地域のお客さんがダメなら、親を呼んででも数字作れよ!」と何度も言われました。
夕方までに参加するお客さんの名簿を旅行会社に提出しなければいけないリミットの日。
午前中訪問したお客さんにも、ことごとく断られ、お昼の公園で、私は実家・青森の母親に電話しました。
ちょうど祖母の誕生日の時期とも重なったため、2人で参加してくれることになりましたが、青森から旅行の前日に上京して一泊しないと間に合わないため、東京一泊→草津一泊→東京一泊→東京観光して帰る、という強行スケジュールとなりました。
最終的には、最低人数より数名多い人数が集まり、支店長のメンツは潰さずに済んだようでした。
後から母親に聞いた話、支店長はバスの中で私の母親と祖母に「今回は、わざわざ青森からありがとうございます。昨日から東京にいらしたんですか?大変だったでしょ?息子さん、いつも頑張ってますよ。彼女もいるみたいで、良かったですね」という主旨のことだけを何度も話していたそうで、祖母は「不思議な方ね」と話していたそうです。
母親には後輩の歓迎会で突き飛ばされたことや、線路に突き落とされたことを話していましたが、バスの中で支店長に挨拶された時、「こっちが何か言う前に、当たり障りのない不自然な会話で畳み掛けるように話し掛けられ、そそくさと去って行った」ので、すごく不自然な印象だったと後から言われました。
旅行が終わった後、支店長はご満悦のようでした。
他にも色々とありましたが、ざっと思い出せる記憶を列挙してみました。
正直、自分が悪いのかな?と何度も悩みました。する側にもされる側にも原因があるんじゃないかと。
しかし、実際は、冷静に考えることすらできないほど、日々の生活の中で精神的に追い詰められていきました。
私の5年間④ 〜辞表提出
一番最初に身体に起こった変化は、朝、目覚ましで起きられなくなったことでした。
もともと、朝の目覚めは悪い方でしたが、どんなに爆音で複数の目覚ましをセットしても、目覚ましの音に気づいて起きることが出来なくなりました。
また、家を出る直前には、激しい嘔吐と下痢が襲って来ました。
しかし、その日に約束しているお客さんのことを思うと、出勤しないという選択肢は自分の中には生まれず、何とか重い身体にムチを打って出勤していました。
私の勤めていた営業店には"若手の営業課員は、営業店の職員通用口を開錠する8:00前に出勤して、店舗周辺の掃き掃除をする"という暗黙のルールがありました。
しかし、上記のような状態だったので、走って最寄り駅まで向かって電車に乗り、駅から営業店まで走って向かうという日々が続き、7:55や8:00ギリギリに到着するのが精一杯でした。
当然、先輩たちは先に来て掃き掃除をしているため、面白くなく、毎日のように、支店長や営業課長から叱責を受ける日々が続きました。
呼び出しを受け、「どうして8:00の10〜15分前に出勤して、掃き掃除が出来ないのか?そんなに難しいことか?」という問いに対し、私は、自分の現状ありのままを伝えました。すると、「朝起きられなかったり、嘔吐したりするのは、営業として、誰しも通る道だ。そんな事を言い訳にしていたら、社会人として失格だ。朝、先輩たちと同じように掃き掃除すら出来ないなら、辞めてしまえ」と言われました。
その後で、「どうする?会社辞めるか?明日から掃き掃除するか?」と問われ、自信がないながらも「明日から早く来ます」と答えるのでした。
その夜は、翌朝に怒られるのが怖く、寝る前に何度も心の中で「明日は早く起きて出社する」と唱えます。結局、そのことばかりが気になって、熟睡もできぬまま朝を迎えてしまうのですが…。
誓いを立てた翌日や翌々日は何とかなっても、4日目には朝起きられなくなってしまい、文字通り三日坊主でした。
最終的には、ほとんどの職員が通用口の前に集まって解錠を待っている7:55に到着し、みんなの前で「朝来れないようなヤツは辞めちまえ!明日の朝、早く起きれるように今日はもう帰っていいぞ!」と怒鳴られることも多くありました。
その後、精神科に通い始めてから、その事を医師に話すと、朝起きられなくなるのはうつ病の兆候、と言われましたが、当時の上司からしたら、そもそも"うつ病になること自体が社会人として失格"だったのかもしれません。
そんな状況下で、さらに追い詰められるような事態が続きました。
二個下の男性後輩の退職です。
私のいた会社では、男性の新入社員は二年目から営業担当になり、女性の新入社員は二年目から預金窓口担当になるというのが、オーソドックスなパターンでした。
しかし、私の後に営業デビューするはずだった二個下の後輩は、私がパワハラを受けているのを見ているうちに、営業になるのが怖くなったようで、営業に上がる人事が発令される直前に辞表を提出し、退職してしまいました。
そのタイミングの退職では、代わりの人事異動もままならず、その年の営業課は一名欠の状態で営業しなくてはならなくなりました。それぞれの営業担当が各々の地区を担当しているため、当然、空白地区が1つできる形になりました。
そこで、様々な要因が重なり、白羽の矢が立ったのが、私だったのです。
その頃は、「不甲斐ない〇〇も、この地区を担当すれば、少しは自分の仕事に責任を持てるだろう」という支店長の計らいで、当初の担当地区から、重点地区である店周地区の担当に地区替えとなっていました。
しかし、たまたま今回の後輩の退職で空白地区になったのが、私が以前担当していた地区。しかも、その地区を分割したり、誰かに引き継ぐ時間的な余裕もない…。前年の店舗業績があまり良くなかったため、4月からの獲得目標スタートダッシュは必然…。
ということで、私が以前の担当地区も含めて、二地区を担当することになったのでした。
担当地区が広がり、ルーティンだけで1日が終わってしまう程、スケジュールは埋まってしまっていましたが、もちろん与えられるノルマも増える。
昼食を摂る時間もなく、自転車をこいで駆けずり回るため、体重は激減。お客さんにまで、「体重減った?」と気にされるまでになってしまいました。
また、営業店には食堂が設けられており、毎月の給料から自動で7,000円天引きされる代わりに、11:00〜14:00の間で昼食が用意されていました。
しかし、その時間に食堂に行く余裕が無く、昼食を摂れないことが多く、それでも夕方には空腹に耐えられなくなってしまい、コンビニでおにぎりを1〜2個買って近くの公園で流し込んでいたので、昼食代も2倍かかっていました。
続く執拗ないじめ、自分ではどうしようもない朝の時間、回っても回り切れない担当地区…。
自分の限界を感じた私は、たまたま支店長と同行でお客さん訪問した帰りに、支店長に辞表を提出しました。
社会人四年目の夏のことでした。
本来ならば、上司や営業課長へ先に辞めたい旨を伝えるのが筋ですが、もはや信頼のカケラすらなかったので、直接、支店長に提出することにしました。
支店長は差し出された辞表に驚くも、今は受け取れない、と言われ、営業店の人員が足りないため、辞められると困ること、今我慢すれば時が解決してくれることもある、と説かれました。
その後、私が辞表を提出しようとしたことは営業課長の耳にも届いたようで、「順序がちげーだろ!」と怒り、私の先輩たちにも「〇〇、会社辞めたいってよ!」と大声で言いふらしていました。
当然、私への当たりは、一層強くなっていきました。
私の5年間⑤ 〜限界
辞表を提出するも拒否され、自分の限界を感じながらの苦痛な日々が続きました。
朝起きられないのは変わらず、8:00ギリギリに出社すると「お前なんか辞めちまえ!明日起きられるように、今日はもう帰っていいぞ!」と怒鳴られながらも、実際には辞めさせてもらえない日々が続きました。
そして、忘れもしない2016年12月29日。
その日を含め、あと2日出社すれば正月休み、という日の朝。
私の身体は限界を迎えました。
電車の中でも、意識が少し朦朧としていましたが、「あと2日頑張れば…」と自分に言い聞かせ、つり革に捕まっていました。
職場の最寄駅で降車し、改札を通り、地上階に上がるためのエスカレーターに乗ろうとした時、瞼の上からゆっくりとシャッターが降りるようなイメージで、目の前が徐々に暗くなっていきました。
エスカレーターに乗るのは危ないと咄嗟に判断し、近くの壁に寄り掛かると、全身から力が抜けていくと同時に、目の前が真っ暗になり、その場に崩れ落ちました。
駅員さんが駆けつけ、何やら遠くで呼びかけていましたが、あまり記憶にありません。
ただ、遠くで自分が救急搬送されている救急車のサイレンが鳴っていました。
その日は点滴を打って帰宅し、翌日は有給をもらいました。
その年の正月は全く記憶にありません。実家にも帰れず、ずっと部屋で一人で過ごしていました。
異変があったのは、初出勤の2017年1月4日。
前日に、明日から出勤だなぁ…と布団に入って目を閉じて、次に目を開けたのが、翌日の夕方6時でした。
無断欠勤を心配した営業課長がお昼頃に私の住まいまで来て、インターホンを鳴らし続けていたそうですが、全く気付きませんでした。
連絡がとれず、支店長が、倒れたり死んでいると困るから部屋に入りたいと、不動産屋に連絡するも、両親の許可なく部屋には入れられないと、実家の両親に連絡がいき、母親から何度も携帯に着信が入っていました。
あと一回鳴らしても出なかった場合は、不動産屋さんのスペアキーを使って部屋に入ることになり、母親が最後のワンコールをした時に、ようやく目を覚まし、電話を取りました。
母親は、電話口で「よかった…。よかった…。」と泣いていました。
部屋のドアを開けると、外には支店長と不動産屋さんが突入の準備で待機していました。
支店長からは「正月開けで、まだ取引先もそんなに仕事始まってないから、ひとまず明日もゆっくり休んで、病院に行け」と言われました。
私の5年間⑥ 〜退職まで
精神科を受診し、「パニック障害」と診断され、「2ヶ月間の休職を要する」という診断書をもらった私は、2017年3月末を以って退職できることになりました。
診断書には「動悸を訴え平成29年1月10日初診。」とありますが、当時、常に自分の心臓の音が大きく聴こえ、「耳元で心臓が鼓動しているような感じがする」と言って受診したのを記憶しています。心臓の音が異様に大きく、そのことがとても不安でした。
しかし、3月末までは会社に籍を置く事になるため、書類関係の引き継ぎをするために出勤し、引き継ぎ作業を行うことと、毎朝、営業課長宛に電話をし、その日の担当地区のルーティン業務を伝える、という条件付きでした。
引き継ぎに関しては、「お客さんの前には出せない状態」と判断されたため、机上の引き継ぎのみで、"体調の良い日に半日でも可"という条件で出勤し、引き継ぎ書類作成を行いました。
2〜3回の出勤で終わるだろ、と思われていたようですが、結局1週間かかって書類は完成しました。
担当していた件数が多かったのが要因ですが、引き継ぎ資料を見て初めて「お前、こんなにたくさん担当持ってたんだな」と言われました。
そして、一番辛かったのは毎朝の営業課長への電話引き継ぎです。
これは、退職するまでの3ヶ月間、毎日続けました。
電話をすると、課長は面倒臭そうに受話器を取り、「はい、はい。忙しいんだから…、余計な仕事増やしやがって…」と言いながら要件を聞いたあと、「もう終わり?終わり?」と言って、ガシャン!と思い切り強く受話器を置いて電話を切りました。
ガシャン!という通話終了の音が耳に残り、脅迫されているような気分になって怖くなり、何度も嘔吐しました。電話の後、半日以上体調不良が続いたことも、何度もありました。
電話引き継ぎと精神科への通院を3ヶ月続け、なんとか退職の日を迎えました。
その日、会社からもらった「雇用保険被保険者離職票」の退職事由の欄には「(個人的理由で)転職」と書かれてありました。
(ハローワーク提出時、担当者に説明し、直筆で加筆してあります。)
退職をしてからは、精神的に不安定な日が続き、電車にも乗れず、日中外に出ることもままならず、夜になると飲み歩き、記憶を無くして家に帰る…といった日々でした。
手や足から血を流して帰ったり、頭をどこかにぶつけて血を流し、叫んだこともあります。
突然、何かに襲われるような妄想に取り憑かれ、「殺してやる!殺してやる!」と喚き散らし、近所の人に通報され、警察が来たこともありました。
辛い日々が続きましたが、そんな日々の中に居続けることも怖くなり、「もう少し体調が良くなるまで、待った方がいい」という周囲の忠告を振り切って、転職活動を開始。2017年7月1日から、現在の会社で働き始めました。
最初は、休みがちで迷惑をかけてしまいましたが、それでも事情を理解してくれ、辛抱強く回復に期待してくれたおかげで、今では、楽しく元気に仕事ができるまでになりました。
かなり辛い5年間で、29年間の短い人生の中でも、群を抜いて印象深い期間でした。
しかし、金融機関で働いていたからこそ、出会えたお客さんも多く、そこで教えてもらった知識は、何物にも代え難い宝物だと感じています。
また、同じ職場で、自分のことを心配して声を掛けてくれた人たちもいたので、その人たちには感謝の気持ちでいっぱいです。
そして、辛い経験を自分がしたからこそ、他の人には同じような思いをして欲しくない、とも強く思います。
いじめ・パワハラは自分の意図している、していないに関わらず、意図せずして加害者になってしまっているケースもあるので、注意も必要です。
今、同じように悩んでいる人がいたとしたら、この文章が、勇気ある行動を起こすための後押しになること、それだけが願いです。
大丈夫。
悩んでいるのは、あなた一人ではないのだから。
【あとがきにかえて】
2018年8月25日。
渋谷ヒカリエにて、絵本の出版記念サイン会および、はるかぜちゃんと村本大輔さん(ウーマンラッシュアワー)の特別対談イベント「いじめているきみへ 伝えたいこと」が行われました。
私は、対談の時間に先約が入っていたので、サイン会のみの参加でした。
はるかぜちゃんは、NHK教育テレビのストレッチマンの頃から見ていましたが、今や17歳。
実際にお会いするのは初めてでした。
今回の絵本の内容について、色々と思うところもあったので、その話をしようと思っていたのですが、本人を前にすると、あまりの可愛さに、まともな会話もできずに終わってしまいました。
でも、絵本にサインをもらっている時、何も話せないでいる私に「しげさんって、呼びやすい名前ですね」って言ってもらったのが嬉しかったです。
いっそのこと、「しげさんって、呼んでもらってもいいですか?」って、お願いすれば良かった…と激しく後悔です。(←アホか。)
- 作者: 春名風花,みきぐち
- 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
- 発売日: 2018/08/20
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログを見る
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
※本ブログの内容は、私が働いていた営業店での体験であり、その他同社の営業店および、その他の金融機関については、この限りではありません。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
Sponsored by イーアイデム