記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日刊 太宰治全小説】#208「パンドラの匣」十三

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【冒頭】

謹啓。きょうは、かなしいお知らせを致します。もっとも、かなしいといっても、恋しいという字にカナしいと振仮名をつけたみたいな、妙な気持のカナしさだ。

【結句】

「私はなんにも知りません。しかし、伸びて行く方向に()が当るようです。」
さようなら。 
 十二月九日
 

パンドラの匣」について

新潮文庫パンドラの匣』所収。
・昭和20年11月9日頃に脱稿。
・昭和20年10月22日付「河北新報」と「東奥日報」に連載開始。「東奥日報」は10月29日付「パンドラの匣」第八回で連載中断。「河北新報」は翌21年1月7日付まで、64回連載、完結。


パンドラの匣 (新潮文庫)

 

全文掲載(「青空文庫」より)  

 

竹さん




 謹啓。きょうは、かなしいお知らせを致します。もっとも、かなしいといっても、恋しいという字にカナしいと振仮名をつけたみたいな、妙な気持のカナしさだ。竹さんがお嫁に行くのだ。どこへお嫁入りするかというと、場長さんだ。ここの健康道場場長、田島医学博士その人のところに、お輿入こしいれあそばすのだ。僕はきょうマア坊からその事を聞いた。
 まあ、はじめから話そう。
 けさは、お母さんが僕の着換えやら、何やらどっさり持って道場へお見えになった。お母さんは、月に二度ずつ僕の身のまわりのものを整理しにやって来るのだ。僕の顔をのぞき込んで、
「そろそろ、ホームシックかな?」とからかう。まいどの事だ。
あるいはね。」と僕も、わざとうそを言う。これも、まいどの事だ。
「きょうはお母さんを、小梅橋までお見送りして下さるんだそうですね。」
だれが?」
「さあ、どなたでしょうか。」
「僕? 外へ出てもいいの? お許しが出たの?」
 お母さんは首肯うなずいて、
「でも、いやだったら、よござんす。」
「いやなもんか。僕はもう一日に十里だって歩けるんだ。」
「或いはね。」とお母さんは、僕の口真似くちまねをして言った。
 四箇月振りで、寝巻を脱ぎかすりの着物を着て、お母さんと一緒に玄関へ出ると、そこに場長が両手をうしろに組んで黙って立っていた。
「歩けますか、どうですか。」とお母さんがひとりごとのようにして言って笑ったら、
「男のお子さんは、満一歳から立って歩けます。」と場長さんは、にこりともせず、そんな下手な冗談を言って、「助手をひとりお供させます。」
 事務所からマア坊が白い看護婦服の上に、椿つばきの花模様の赤い羽織をひっかけて、小走りに走って出て来て、お母さんに、どぎまぎしたような粗末なお辞儀をした。お供は、マア坊だ。
 僕は新しい駒下駄こまげたをはいて、まっさきに外へ出た。駒下駄がへんに重くて、よろめいた。
「おっとと、あんよは上手。」と場長は、うしろではやした。その口調に、愛情よりも、冷く強い意志を感じた。だらしないぞ! としかられたような気がして、僕は、しょげた。振り向きもせず、すたすた五、六歩いそぎ足で歩いたら、また、うしろで場長が、
「はじめは、ゆっくり。はじめは、ゆっくり。」と、こんどは露骨に叱り飛ばすようなきびしい口調で言ったが、かえってその言葉のほうに、うれしい愛情が感ぜられた。
 僕は、ゆっくり歩いた。お母さんとマア坊が、小声で何かささやき合いながら、僕の後を追って来た。松林を通り抜けて、アスファルトの県道へ出たら、僕は軽い眩暈めまいを感じて、立ちどまった。
「大きいね。道が大きい。」アスファルト道が、やわらかい秋の日ざしを受けて鈍く光っているだけなのだが、僕には、それが一瞬、茫洋混沌ぼうようこんとんたる大河のように見えたのだ。
「無理かな?」お母さんは笑いながら、「どうかな? お見送りは、このつぎに、お願いするとしましょうか?」


「平気、平気。」ことさらに駒下駄の音をカタカタと高く響かせて歩いて、「もうれた。」と言った途端に、トラックが、すさまじい勢いで僕を追い抜き、思わず僕は、わぁっ! と叫んだ。
「大きいね。トラックが大きいね。」とお母さんはすぐに僕の口真似をしてからかった。
「大きくはないけど、強いんだ。すごい馬力だ。たしかに十万馬力くらいだった。」
「さては、いまのは原子トラックかな?」お母さんも、けさは、はしゃいでいる。
 ゆっくり歩いて、小梅橋のバスの停留場が近くなったころ、僕は実に意外な事を聞いた。お母さんと、マア坊が、歩きながらよもやまの話の末に、
「場長さんが近く御結婚なさるとか、聞きましたけど?」
「はあ、あの、竹中さんと、もうすぐ。」
「竹中さんと? あの、助手さんの。」と、お母さんも驚いていたようであったが、僕はその百倍も驚いた。十万馬力の原子トラックに突き倒されたほどの衝動を受けた。
 お母さんのほうはすぐ落ちついて、
「竹中さんは、いいお方ですものねえ。場長さんはさすがに、がお高くていらっしゃる。」と言って、明るく笑い、それ以上突っ込んだ事も聞かず、おだやかにほかの話に移って行った。
 僕は停留場で、どんな具合いにお母さんとお別れしたか、はっきり思い出せない。ただ眼のさきが、もやもやして、心臓がコトコトと響を立てて躍っているみたいな按配あんばいで、あれは、まったく、かなわない気持のものだ。
 僕は白状する。僕は、竹さんを好きなのだ。はじめから、好きだったのだ。マア坊なんて、問題じゃなかったのだ。僕は、なんとかして竹さんを忘れようと思って、ことさらにマア坊のほうに近寄って行って、マア坊を好きになるように努めて来たのだが、どうしても駄目だめなんだ。君に差し上げる手紙にも、僕はマア坊の美点ばかりを数え挙げて、竹さんの悪口をたくさん書いたが、あれは決して、君をだますつもりではなく、あんな具合いに書くことにって僕は、僕の胸の思いを消したかったのだ。さすがの新しい男も、竹さんの事を思うと、どうも、からだが重くなって、翼が萎縮いしゅくし、それこそ豚のしっぽみたいな、つまらない男になりそうな気がするので、なんとかして、ここは、新しい男の面目にかけても、あっさりと気持を整理して、竹さんに対して全く無関心になりたくて、われとわが心を、はげまし、はげまし、竹さんの事をただ気がいいばかりの人だの、大鯛おおだいだの、買い物が下手くそだのと、さんざん悪口を言って来た僕の苦衷のほどを、君、すこしは察してくれたまえ。そうして、君も僕に賛成して一緒に竹さんの悪口を言ってくれたら、あるいは僕も竹さんを本当にいやになって、身軽になれるかも知れぬとひそかに期待していたのだけれども、あてがはずれて、君が竹さんに夢中になってしまったので、いよいよ僕は窮したのさ。そこで、こんどは、僕は戦法をかえて、ことさらに竹さんをほめ挙げ、そうして、色気無しの親愛の情だの、新しい型の男女の交友だのといって、何とかして君を牽制けんせいしようとたくらんだ、というのが、これまでのいきさつの、あわれな実相だ。僕は色気が無いどころか、大ありだった。それこそ意馬心猿いばしんえんとでもいうべき、全くあさましい有様だったのだ。


 君は竹さんを、すごいほどの美人だと言って、僕はやっきとなってそれを打ち消したが、それは僕だって、竹さんを凄いほどの美人だと思っていたのさ。この道場へ来た日に、僕は、ひとめ見てそう思った。
 君、竹さんみたいなのが本当の美人なのだ。あの、洗面所の青い電球にぼんやり照らされ、夜明け直前の奇妙な気配のやみの底に、ひっそりしゃがんで床板をいていた時の竹さんは、おそろしいくらい美しかった。負け惜しみを言うわけではないが、あれは、僕だからこそ踏みこたえる事が出来たのだ。他の人だったら、必ずあの場合、何か罪を犯したに違いない。女は魔物だなんて、かっぽれなんかよく言っているが、或いは女は意識せずに一時、人間性を失い、魔性のものになってしまっている事があるのかも知れない。
 今こそ僕は告白する。僕は竹さんに、恋していたのだ。古いも新しいもありゃしない。
 お母さんとわかれて、それから、膝頭ひざがしらが、がくがく震えるような気持で歩いて、たまらなく水が飲みたくなって、
「どこかで、少し休みたいな。」と言ったが、その声は、自分ながらおやと思ったほどしわがれていて、誰か他の人が遠方でつぶやいている言葉のような感じがした。
「お疲れでしょう。もう少し行くと、あたしたちが時々寄って休ませてもらう家があるんですけど。」
 大戦の前には三好野みよしのか何かしていたような形の家に、マア坊の案内ではいった。薄暗い広い土間には、こわれた自転車やら、炭俵のようなものがころがっていて、その一隅いちぐうに、粗末なテーブルがひとつ、椅子いすが二、三脚置かれている。そうして、そのテーブルのそばの壁には大きい鏡がかけられ、へんに気味悪く白く光っているのが印象深かった。この家は商売をよしても、やはり馴染なじみの人たちには、お茶ぐらい出す様子で、道場の助手さんたちが外出した時には、油を売る場所になっているのでもあろう、マア坊は平気で奥の方へ行き、番茶の土瓶どびんとお茶碗ちゃわんを持って来た。僕たちは鏡の下のテーブルに向い合って席をとり、二人で生ぬるい番茶を飲んだ。ほっと深い溜息ためいきをついて、少し気持も楽になり、
「竹さんが結婚するんだって?」と軽い口調で言う事が出来た。
「そうよ。」マア坊もこのごろ、なぜだかさびしそうだ。寒そうに肩を小さくすぼめて、僕の顔をまっすぐに見ながら、「ご存じじゃ、なかったの?」
「知らなかった。」不意に眼が熱くなって、困って、うつむいてしまった。
「わかるわ。竹さんだって泣いてたわ。」
「何を言っていやがる。」マア坊の、しんみりした口調が、いやらしくて、いやらしくて、むかむか腹が立って来た。「いい加減な事を言っちゃ、いけない。」
「いい加減じゃないわ。」マア坊も涙ぐんでいる。「だから、あたしが言ったじゃないの。竹さんと仲よくしちゃいけないって。」
「仲よくなんか、しやしないよ。そんなに何でも心得ているような事を言うな。いやらしくって仕様がない。竹さんが結婚するのは、いい事だ。めでたいじゃないか。」
「だめよ。あたしは、知っているんですから。ごまかしたって、だめよ。」大きい眼から涙があふれて、まつげにたまって、それからぽろぽろほおを伝って流れはじめた。「知ってるのよ。知ってるのよ。」


「よせよ。意味が無いじゃないか。」こんなところを、ひとに見られたら困ると思った。「なんの意味もありゃしないじゃないか。」繰返して言ったその僕の言葉も、あまり意味のあるもののようには思えなかった。
「ひばりは、全く、のんきな人ねえ。」と指先で頬の涙を拭きながら、マア坊は少し笑って言った。「いままで、場長さんと竹さんとの事をご存じじゃなかったなんて。」
「そんな下品な事は知らん。」急に、ひどく不愉快になって来た。みんなをぽかぽか殴ってやりたくなって来た。
「何が、下品なの? 結婚って、下品なものなの?」
「いや、そんな事はないが、」僕は口ごもって、「前から、何か、――」
「あらいやだ。そんな事は無いのよ。場長さんは、まじめなお方だわ。竹さんには何も言わないで、竹さんのお父さんのところにお願いにあがったのよ。竹さんのお父さんはいまこっちへ疎開そかいして来ているんだって。そうして竹さんのお父さんから、こないだ竹さんに話があって、竹さんは二晩も三晩も泣いてたわ。お嫁に行くのは、いやだって。」
「そんならいい。」僕は、せいせいした。
「どうしていいの? 泣いたからいいの? いやねえ、ひばりは。」と笑いながら言って、顔を横に傾けて、眼の光りが妙にきして来て、右腕をすっと前に出し、卓の上の僕の手を固く握った。「竹さんはね、ひばりが恋しくって泣いたのよ、本当よ。」と言って、更に強く握りしめた。僕も、わけがわからず握りかえした。意味のない握手だった。僕はすぐに馬鹿らしくなって来て、手をひっこめて、
「お茶を、ついであげようか。」とてれかくしに言ってみた。
「いいえ。」とマア坊は眼を伏せて気弱そうに、しかも、きっぱりと、不思議な断り方で断った。
「それじゃ出ようか。」
「ええ。」
 小さく首肯うなずいて、顔を挙げた。その顔が、よかった。断然、よかった。完全の無表情で鼻の両側に疲れたようなかすかな細いしわが出来ていて、受け口が少しあいて、大きい眼は冷く深く澄んで、こころもちあおざめた顔には、すごい位の気品があった。この気品は、何もかも綺麗きれいにあきらめて捨てた人に特有のものである。マア坊も苦しみ抜いて、はじめて、すきとおるほど無慾な、あたらしい美しさを顕現できるような女になったのだ。これも、僕たちの仲間だ。新造の大きな船に身をゆだねて、無心に軽く天の潮路のままに進むのだ。幽かな「希望」の風が、頬をでる。僕はその時、マア坊の顔の美しさに驚き「永遠の処女」という言葉を思い出したが、ふだん気障きざだと思っていたその言葉も、その時には、ちっとも気障ではなく、実に新鮮な言葉のように感ぜられた。
「永遠の処女」なんてハイカラな言葉を野暮な僕が使うと、或いは君に笑われるかも知れないが、本当に僕は、あの時、あのマア坊の気高い顔で救われたのだ。
 竹さんの結婚も、遠い昔の事のように思われて、すっとからだが軽くなった。あきらめるとか何とか、そんな意志的なものではなくて、眼前の風景がみるみる遠のいて望遠鏡をさかさにのぞいたみたいに小さくなってしまった感じであった。胸中に何のこだわるところもなくなった。これでもう僕も、完成せられたという爽快そうかいな満足感だけが残った。


 晩秋の澄んだ青空をアメリカの飛行機が旋回している。僕たちは、その三好野ふうの家の前に立ってそれを見上げて、
「つまらなそうに飛んでいるねえ。」
「ええ。」とマア坊は微笑ほほえむ。
「しかし、飛行機というものの形には、新しい美しさがある。むだな飾りが一つも無いからだろうか。」
「そうねえ。」とマア坊は小声で言って、子供のように無心に空の飛行機を見送っている。
「むだな飾りの無い姿って、いいものなんだねえ。」
 それは、飛行機だけでなく、マア坊の放心状態みたいな素直な姿態に就いてのひそかな感懐でもあったのだ。
 二人だまって歩いて、僕は、みちう女のひとの顔をいちいち注意して見て、程度の差はあるが、いまの女のひとの顔には皆一様に、マア坊みたいな無慾な、透明の美しさがあらわれているように思われた。女が、女らしくなったのだ。しかしそれは、大戦以前の女にかえったというわけでは無い。戦争の苦悩を通過した新しい「女らしさ」だ。何といったらいいのか、うぐいす笹鳴ささなきみたいな美しさだ、とでもいったら君はわかってくれるであろうか。つまり、「かるみ」さ。
 お昼すこし前に道場へ帰って来たが、往復半里以上も歩いたから、さすがに疲れて、寝巻に着換えるのもめんどうくさくて、羽織も脱がずにベッドに寝ころがって、そのまま、うとうと眠った。
「ひばり、ごはんや。」
 眼を薄くあけて見ると、竹さんがおぜんを持って笑って立っている。
 ああ、場長夫人!
 すぐに、はね起き、
「や、すみません。」と言って、思わず軽く頭を下げた。
「寝ぼけているな。寝ぼすけさん。」とひとりごとのように言って、お膳を枕元まくらもとに置き、「着物、着たまま寝ている人があるかいな。いま風邪ひいたら一大事や。早うお寝巻に着換えたらええ。」まゆをひそめて不機嫌ふきげんそうに言いながら、ベッドの引出しから寝巻を取り出し、「世話の焼けるぼんぼんや。おいで、着換えさしてあげる。」
 僕はベッドから降りて兵古帯へこおびをほどいた。いつものとおりの竹さんだ。場長と結婚するなんて、うそみたいに思われて来た。なあんだ、僕はいまうとうと眠って夢を見たのだ。お母さんが来たのも夢、マア坊があの三好野みたいな家で泣いたのも夢、と一瞬そんな気がしてうれしかったが、しかし、そうではなかった。
「いい久留米絣くるめがすりやな。」竹さんは僕に着物を脱がせて、「ひばりには、とてもよく似合うわよ。マア坊は果報やなあ。帰りに一緒にオバさんとこでお茶を飲んだってな。」
 やはり、夢ではなかった。
「竹さん、おめでとう。」と僕が言った。
 竹さんは返辞をしなかった。黙って、うしろから寝巻をかけてくれて、それから、寝巻の袖口そでぐちから手を入れて、僕の腕のけ根のところを、ぎゅっとかなり強くつねった。僕は歯を食いしばって痛さをこらえた。


 何事も無かったように寝巻に着換えて、僕は食事に取りかかり、竹さんはそばで僕の絣の着物を畳んでいる。お互いに一ことも、ものを言わなかった。しばらくして竹さんが、極めて小さい声で、
「かんにんね。」とささやいた。
 その一言に、竹さんの、いっさいの思いがこめられてあるような気がした。
「ひどいやつや。」と僕は、食事をしながら竹さんの言葉のなまりを真似まねてそっとつぶやいた。
 そうしてこの一言にも、僕のいっさいの思いがこもっているような気がした。
 竹さんはくすくす笑い出して、
「おおきに。」と言った。
 和解が出来たのである。僕は竹さんの幸福を、しんから祈りたい気持になった。
「いつまでここにいるの?」
「今月一ぱい。」
「送別会でもしようか。」
「おお、いやらし!」
 竹さんは大袈裟に身震いして、畳んだ着物をさっさと引出しにしまい込み、澄まして部屋から出て行った。どうして僕の周囲の人たちは、皆こんなにさっぱりした、いい人ばかりなのだろう。いま僕はこの手紙を、午後一時の講話を聞きながら書いているのだが、きょうの講話は、どなたが放送していらっしゃるか、わかりますか? およろこび下さい。大月花宵先生です。大月先生の当道場に於けるこのごろの人気はたいへんなものですよ。もう越後獅子えちごじしなんて失礼な綽名あだなでは呼べなくなった。君が発見して、それから、二、三日は僕も我慢して誰にも言わずにいたが、とうとうマア坊にこっそり教えて、たちまちうわさがぱっとひろがり、何せ「オルレアンの少女」の作者だという事で無条件に尊敬せられ、場長も巡回の時に、花宵先生に向って、いままで知らずに失礼しました、という意味のおわびを言ったくらいだ。
 新館はもちろん、旧館の塾生じゅくせいたちからも、詩、和歌、俳句の添削依頼が殺到している有様だ。けれども花宵先生は、急に威張り返るとか何とか、そんな浅墓あさはかな素振りは微塵みじんも示さず、やっぱり寡言家かげんか越後獅子であって、塾生たちの詩歌の添削は、たいていかっぽれに一任しているのだ。かっぽれ、このところ大得意だ。花宵先生の一番弟子のつもりで、もっともらしい顔をして、よそのひとの苦心の作品を勝手にどんどん直している。きょうは事務所からの依頼で花宵先生がはじめて講話をする事になって、「献身」と題するお話であるが、こうして拡声機を通して流れ出る声を聞いていると、非常に貴い人から教えさとされているような厳粛な気持になって来る。実に落ちついた、威厳のある声である。花宵先生は、僕が考えているよりも、もっとはるかに偉い人なのかも知れない。お話の内容も、さすがにいい。すこしも古くないのである。
 献身とは、ただ、やたらに絶望的な感傷でわが身を殺す事では決してない。大違いである。献身とは、わが身を、最も華やかに永遠に生かす事である。人間は、この純粋の献身に依ってのみ不滅である。しかし献身には、何の身支度も要らない。今日ただいま、このままの姿で、いっさいをささげたてまつるべきである。くわとる者は、鍬とった野良姿のらすがたのままで、献身すべきだ。自分の姿を、いつわってはいけない。献身には猶予ゆうよがゆるされない。人間の時々刻々が、献身でなければならぬ。いかにして見事に献身すべきやなどと、工夫をこらすのは、最も無意味な事である、と力強く、諄々じゅんじゅんと説いている。聞きながら僕は、何度も赤面した。僕は今まで、自分を新しい男だ新しい男だと、少し宣伝しすぎたようだ。献身の身支度に凝り過ぎた。お化粧にこだわっていたところが、あったように思われる。新しい男の看板は、この辺で、いさぎよく撤回しよう。僕の周囲は、もう、僕と同じくらいに明るくなっている。全くこれまで、僕たちの現れるところ、つねに、ひとりでに明るく華やかになって行ったじゃないか。あとはもう何も言わず、早くもなく、おそくもなく、極めてあたりまえの歩調でまっすぐに歩いて行こう。この道は、どこへつづいているのか。それは、伸びて行く植物のつるに聞いたほうがよい。蔓は答えるだろう。
「私はなんにも知りません。しかし、伸びて行く方向にが当るようです。」
 さようなら。
十二月九日

 

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