記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を、自由に旅する。太宰治が、ソウルフレンド。

【日刊 太宰治全小説】#186「惜別」三

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【冒頭】
その日、私は周さんと一緒に松島の海浜の旅館に泊った。いま考えると、当時の私の無警戒は、不思議なような気もするが、しかし、正しい人というものは、何か安心感を与えてくれるもののようである。

【結句】
もう今では自分の進路は、一言で言える。支那杉田玄白になる事だ。それだけだ。支那杉田玄白になって、支那の維新の狼煙のろしを挙げるのだ。

 

惜別せきべつ」について

新潮文庫『惜別』所収。
・昭和20年2月20日頃に脱稿。
・昭和20年9月5日、『惜別』を朝日新聞社から刊行。


惜別 (新潮文庫)

 

全文掲載(「青空文庫」より)

 その日、私は周さんと一緒に松島の海浜の旅館に泊った。いま考えると、当時の私の無警戒は、不思議なような気もするが、しかし、正しい人というものは、何か安心感を与えてくれるもののようである。私はもう、その清国留学生に、すっかり安心してしまっていた。周さんは、宿のどてらに着換えたら、まるで商家の若旦那わかだんなの如く小粋こいきであった。言葉も、私より東京弁上手じょうずなくらいで、ただ宿の女中に向って使う言葉が、そうして頂戴ちょうだい、すこし寒いのよ、などとさながら女性の言葉づかいなのが、私に落ちつかぬ感じを与えた。たまりかねて私は、それだけはやめてくれ、と口をとがらして抗議したら、周さんはけげんな面持ちで、だって日本では、子供に向っては、子供の言葉で、おてて、だの、あんよだの、そうでチュか、そうでチュか、と言うでしょう、それゆえ女性に対した時にも女性の言葉で言うのが正しいのでしょう、と答えた。私は、でも、それはキザで、聞いて居られません、と言ったら、周さんは、その「キザ」という言葉に、ひどく感心して、日本の美学は実にきびしい、キザという戒律は、世界のどこにもないであろう、いまの清国の文明は、たいへんキザです、と言った。その夜、私たちは宿で少し酒を飲み、深更しんこうまで談笑し、月下の松島を眺める事を忘れてしまったほどであったのである。周さんもあとで私に、日本へ来てあんなにおしゃべりした夜は無いと言っていた。周さんはその夜、自分の生立おいたちやら、希望やら、清国の現状やらを、あきれるくらいの熱情をもって語った。東洋当面の問題は、科学だと何度も繰りかえして言っていた。日本の飛躍も、一群の蘭医にって口火を切られたのだと言っていた。一日も早く西洋の科学を消化して列国に拮抗きっこうしなければ、支那もまた、いたずらに老大国の自讃に酔いながら、みるみるお隣りの印度インドの運命を追うばかりであろう。東洋は古来、精神界においては、西洋と較べものにならぬほど深く見事に完成せられていて、西洋の最もすぐれた哲学者たちが時たま、それをわずかに覬覦きゆしては仰天しているという事も聞いているが、西洋はそんな精神界の貧困を、科学によって補強しようとした。科学の応用は、人間の現実生活の享楽に直接役立つので、この世の生命に対する執着力の旺盛おうせいな紅毛人たちの間に於いて異常の進歩をとげ、東洋の精神界にまで浸透して来た。日本はいち早く科学の暴力を察して、進んでこれを学び取り、以て自国を防衛し、国風を混乱せしめる事なく、之の消化に成功し、東洋における最も聡明な独立国家としての面目を発揮する事が出来た。科学は必ずしも人間最高の徳ではないが、しかし片手に幽玄の思想の玉を載せ、片手に溌剌はつらつたる科学の剣を握っていたならば、列国も之には一指もふれる事が出来ず、世界に冠絶した理想国家となるに違いない。清国政府は、この科学の猛威に対して何のなすところも無く、列国の侵略を受けながらも、大川は細流に汚されずとでもいうような自信を装って敗北を糊塗ことし、ひたすら老大国の表面の体裁のみを弥縫びほうするに急がしく、西洋文明の本質たる科学を正視し究明する勇気無く、学生には相も変らず八股文はっこぶんなど所謂いわゆる繁文縟礼はんぶんじょくれいの学問を奨励して、列国には沐猴而冠もっこうにしてかんす滑稽こっけいなる自尊の国とひそかに冷笑される状態に到らしめた。自分は支那を誰にも負けぬくらいに愛している。愛しているから、不満も大きい。いまの清国は、一言で言えば、怠惰だ。わけのわからぬ自負心に酔っている。古い文明の歴史は、何も支那だけが持っているとは限らない。印度はどうだ、埃及エジプトはどうだ。そうしてその国の現状はどうだ。支那慄然りつぜんとすべきである。このままでいいという自負心は、支那を必ず自壊に導く。支那には、いま余裕も何も有るはずはないのだ。自惚うぬぼれを捨てて、まず西洋の科学の暴力と戦わなければならぬ。これと戦うには、彼の虎穴に敢然と飛び込んで、一日も早くその粋を学び取るより他は無い。日本の徳川幕府鎖国政策に向って最初に警鐘を乱打したのは、蘭学という西洋科学であったという話を聞いている。自分は支那杉田玄白になりたい。科学の中でも自分は、西洋医学に最も心をひかれている。なぜ西洋科学の中で、自分がこのように特に医学に注目するようになったか、その原因の一つは、自分の幼少のころの悲しい経験の中にもひそんでいる。自分の家には昔から多少の田地も有り、まあ相当の家庭と人にも言われていたのだが、自分が十三の時、祖父が或るややこしい問題に首を突込んで獄につながれ、一家はそのため、にわかに親戚しんせき、近隣の迫害を受けるようになり、その上、父が重病で寝込んでしまったので、自分たちの家族はたちまち暮しに窮し、自分は弟と共に親戚の家に預けられた。けれども自分はその家の者たちから、乞食と言われて憤然、自分の生家に帰ったが、それから三年間、自分は毎日のように、質屋と薬屋に通わなければならなかった。父の病気がいっこうにくならなかったのだ。薬屋の店台は自分と同じくらいの高さで、質屋の店台はさらにその倍くらいの高さであった。自分は質屋の高い台の上に、着物や首飾を差し上げ、なんだこんなガラクタ、と質屋の番頭に嘲弄ちょうろうされながら、わずかの銭を受けとり、すぐその足で薬屋に走るのだ。家に帰ると、また別の事でいそがしかった。父のかかりつけの医者は、その地方で名医と言われている人であったが、その処方は、はなはだ奇怪なもので、あしの根だの、三年霜に打たれた甘蔗かんしょだのを必要とした。自分は毎朝、河原へ蘆の根を掘りに行き、また、三年霜に打たれた甘蔗を捜しまわらなければいけなかった。この医者には二年かかったが、父の病気はいよいよ重くなるばかりであった。それから医者をかえて、さらに有名な大先生にかかったが、こんどは、蘆の根や、三年霜に打たれた甘蔗のかわりに、蟋蟀しっしゅつ一つがい、平地木十株、敗鼓皮丸はいこひがんなどという不思議なものが必要だった。蟋蟀一対には註が附いていて、「原配、すなわち、生涯同棲どうせいしていたものに限る」とあった。昆虫こんちゅう貞節でなければものの役には立たぬと見えて、後妻をめとったり再嫁したやつは、薬になる資格さえ無いというわけである。けれども、それを捜すのに、自分はそんなに骨を折らなくてすんだ。自分の家の裏庭は百草園と呼ばれて、雑草の生い繁った非常に広大な庭で、自分の幼少の頃の楽園であったが、そこへ行けば、蟋蟀の穴がいくつでも見つかり、自分は同じ穴に二匹んでいる蟋蟀を勝手に所謂「原配」ときめて、二匹一緒に糸でしばって、生きているのをそのまま薬鑵やかんの熱湯に投げ込めばそれでよかった。しかし「平地木十株」というのには、ひどくまごついた。それがどんなものだか、誰も知らなかったのだ。薬店に聞いても、お百姓に聞いても、薬草取りに聞いても、年寄りに聞いても、読書人に聞いても、大工に聞いても、みな一様に頭を振るだけであった。最後に、祖父の弟で昔から植木の好きな老人のことを思い出し、そこへ行って尋ねてみたら、さすがに彼だけは知っていた。それは、山中の樹の下に生える一種のひょろひょろした樹で小さな珊瑚珠さんごじゅみたいなあかい実がなる、普通みな「老弗大」と呼んでいるものだ、と教えてくれた。こうして「平地木十株」のほうも、どうやら解決できたが、もう一つ、敗鼓皮丸という難物があった。この丸薬は、大先生の自慢の処方で、特に父のような水腫すいしゅのある病人に卓効を奏するということであった。この神薬を売っている店は、この地方にたった一軒あるきりで、そうして、その店は自分の家と五里もはなれていた。それに、その神薬は破れた古太鼓の皮で作ったものだという。水腫は一に鼓脹こちょうともいうところから、破れた太鼓の皮を服用すればたちどころにその病気を克服できるという理窟りくつらしい。自分は子供心にも、破れた古太鼓の皮などのを信じる事が出来ず、その丸薬を求めに五里の路を往復するのが、ひとしお苦痛であった。自分のそのような努力は、やっぱり全部むだな事であった。父の病気は日一日と重くなるばかりで、ほとんど虫の息になったが、かの大先生は泰然たいぜんたるもので、瀕死ひんしの父の枕元で、これは前世の何かのごうです、医はく病をいやすも、命を癒すあたわず、と古人の言にもあります、しかし、手段はまだ一つ残っています、それは家伝の秘法になっているのですが、一種の霊丹を病者の舌に載せるのです、舌は心の霊苗なり、と古人の言にあります、この霊丹は、いまはなかなか得難いものですが、お望みとあらばお譲りしてあげてもよい、値段も特別に安くしてあげます、一箱わずか二元という事にしましょう、いかがです、と自分に尋ねた。自分は思い惑って即答しかねていると、病床の父が自分の顔を見てかすかに頭を振って見せた。父もやはり自分と同様に、この大先生の処方に絶望している様子であった。自分は途方に暮れて、ただ父の枕元に坐って、父の死を待っていなければならなくなった。父の容態がいよいよだめと思われた朝、近所のえんという世話好きの奥さんがやって来て、父の様子を一目見て驚き、あなたはまあ、何をぼんやりしているのです、お父さんの魂は鬼界に飛んで行こうとしているではありませんか、早く呼び戻しなさい、大声で、お父さんお父さん、と呼びなさい、呼ばないとお父さんは死んでしまいます、と真顔で自分をしかったのである。自分は、そんなおまじないの如きものを信じなかったが、しかしいまは、おぼれる者のわらをつかむ気持で、お父さん! と叫んだ。衍奥さんは、もっと大きい声で呼ばなければだめです、と言う。自分はさらに大きい声で、お父さん! お父さん! と連呼した。もっと、もっと、と傍で衍奥さんがせき立てる。自分は、のどから血が出そうになるまで叫びつづけた。しかし、父の霊魂を引きとめる事が出来なかったと見えて、父は自分に呼びつづけられながら、冷たくなった。父は三十七歳、自分は十六歳の初秋の事である。自分は今でもあの時の自分の声を記憶している。忘れる事が出来ない。あの時の自分の声を思い出すと、自分は抑え切れない激怒を感ずる。自分の少年の頃の無智に対する腹立たしさでもあり、また支那の現状に対する大きい忿懣ふんまんでもある。三年霜にうたれた甘蔗、原配の蟋蟀、敗鼓皮丸、そんなものはなんだ。悪辣あくらつなる詐欺さぎと言ってよかろう。また、瀕死の病人の魂を大声で呼びとめるというのも、恥かしいみじめな思想だ。さらにまた、医は能く病いを癒すも、命を癒す能わず、とは何という暴論だ。恐るべき鉄面皮の遁辞とんじに過ぎないではないか。舌は心の霊苗なり、とはどんな聖人君子の言葉か知らないが、何の事やらわけがわからぬ。完全な死語である。見るべし、支那の君子の言葉もいまは、詐欺師の韜晦とうかいの利器として使用されているではないか。自分たちは幼少の頃から、ただもう聖賢の言葉ばかりを暗誦あんしょうさせられて育って来たが、この東洋の誇りの所謂いわゆる「古人の言」は、既に社交の詭辞きじに堕し、憎むべき偽善と愚かな迷信とのみを※(「酉+榲のつくり」、第3水準1-92-88)うんじょうさせて、その思想の発生当初の面目をいつのまにやら全く喪失してしまっているのだ。どんな偉大な思想でも、それが客間の歓談の装飾に利用されるようになった時には、その命が死滅する。それはもう、思想でない。言葉の遊戯だ。西洋のそれと比較にならぬほど卓越していた筈の、東洋の精神界も、永年の怠惰な自讃に酔って、その本来の豊穣ほうじょうもほとんど枯渇こかつしかかっている。このままでは、だめだ。自分は父に死なれて以来、いよいよ周囲の生活に懐疑と反感を抱き、懊悩おうのう焦慮の揚句あげく、ついに家郷を捨て、南京ナンキンに出た。何でもかまわぬ、新しい学問をしたかったのである。母は泣いて別れを惜しみ、八元の金を工面くめんして自分に手渡した。自分はその八元の金を持って異路に走り、異地にのがれ、別種の人生を探し、求めようとしたのである。南京に出て、どのような学校にはいるか。第一の条件は、学費の要らない学校でなければいけなかった。江南水師学堂は、その条件にだけは、かなっていた。自分はまずそこへ入学した。そこは海軍の学校で、自分はさっそく帆柱に登る練習などさせられたが、しかし新しい学問はあまり教えてくれなかった。わずかに It is a cat, Is it a rat ? など初歩の英語の手ほどきを受けただけであった。ちょうどその頃だ。かの康有為こうゆういが、日本の維新にのっとり、旧弊を打破し大いに世界の新知識を採り、もって国力回復の策を立てよと叫び、所謂「変法自強の説」を帝にすすめ、いれられて国政の大改革に着手したが、アイテルカイトの Dame ならびにその周囲の旧勢力の権変にい、新政は百日にして破れ、帝は幽閉され、康有為は同志の梁啓超りょうけいちょうらと共に危く殺害からのがれて、日本に亡命した。この戊戌ぼじゅつ政変の悲劇をよそにして、It is a cat を大声で読み上げているのは、甚だ落ちつかない気持であった。自分も既に十八歳である。ぐずぐずしては居られぬ。早く新知識の中核に触れてみたい。自分は転校を決意した。つぎに選んだのは、南京の礦路学堂である。ここも学費は要らなかった。鉱山の学校であって、地学、金石学のほかに、物理、化学、博物学など、新鮮な洋学の課目があったので、どうやら少し落ちつく事が出来た。語学も、It is a cat, ではなくて、der Man, die Frau, das Kind, という事になった。自分には独逸ドイツ語のほうが、英語よりも洋学の中核に近いように漠然と感じられていたので、それもまたうれしい事の一つであった。校長も一個の新党で、梁啓超主筆の雑誌「時務報」などの愛読者だったらしく、「変法自強の説」にもひそかに肯定を与えていたようで、漢文の試験にも他の儒者先生のように古聖賢の言を用いず、「華盛頓ワシントン論」というハイカラな問題を出したりして、儒者先生たちはその問題を見て、かえって自分たち生徒に、華盛頓って、どんな事だい、とこっそり尋ねる始末であった。生徒たちの間でも、新書を読む気風が流行して、中でも厳復の漢訳した「天演論」が圧倒的な人気を得ていた。博物学者 Thomas Huxley の Evolution and Ethics を漢文に訳したもので、自分も或る日曜日に城南へ買いに出かけた。厚い一冊の石印の白紙本で、値段はちょうど五百文だった。自分は之を一気に読了した。いまでも、その冒頭の数ペエジの文章をそっくりそのまま暗記している。いろいろの訳本が、続々と出版せられていた。自分たちの語学の力が、未だ原書を読みこなすまでに到ってはいなかったので、いきおい漢訳の新本にたよらざるを得なかった。「物競」も出た。「天択」も出た。蘇格拉第ソクラテスを知った。柏拉図プラトーを知った。斯多※(「口+臈のつくり」、第3水準1-15-20)ストイックを知った。自分たちは手当り次第に何でも読んだ。当時、このような新書を手にする事は、霊魂を毛唐に売り渡す破廉恥はれんち至極の所業であるとされて、社会のはげしい侮蔑ぶべつと排斥を受けなければならなかったが、自分たちは、てんで気にせず、平然とその悪魔の洞穴どうけつ探検を続けた。学校では、生理の課目は無かったが、木版刷の「全体新論」や「化学衛生論」を読んでみて、支那の医術は、意識的もしくは無意識的なかたりに過ぎない、という事をいよいよ明確に知らされた。このように、自分の心に嵐が起っているのと同様に、支那の知識層にも維新救国の思想が颱風たいふうの如く巻き起っていた。その頃すでに、独逸の膠州湾こうしゅうわん租借そしゃくを始めとして、露西亜ロシアは関東州、英吉利イギリスはその対岸の威海衛、仏蘭西フランスは南方の広州湾を各々租借し、次第にまたこれらの諸国は、支那に於いて鉄道、鉱山などに関する多くの利権を得て、亜米利加アメリも、かねて東洋に進み出る時機をうかがっていたが、遂にその頃、布哇ハワイを得て、さらに長駆東洋侵略の歩をすすめて西班牙イスパニヤと戦い比律賓フィリッピンを取り、そこを足がかりにしてそろそろ支那に対して無気味な干渉を開始していた。もう、支那の独立性も、風前の燈火のように見えて来た。救国の叫びが、国内に充満するのも当然の事のように思われた。しかし、支那にとって不吉の事件が相ついで起った。戊戌ぼじゅつの政変がその一つであり、さらに、その二年後に起った北清事変は、いよいよ支那の無能を全世界に暴露した致命的な乱であった。自分は翌年の十二月、礦路学堂を卒業したが、鉱山技師として金銀銅鉄の鉱脈を捜し出せる自信は無かった。自分がこの学校に入学したのは、鉱山技師になりたいからでは無かったのだ。現在の支那を少しでもよくしたいために、何か新しい学問をきわめてみたかったのだ。そうしてこの三年間、自分はこの学校において、鉱山の勉強よりも、西洋科学の本質を知ろうとして、そのほうの勉強ばかりして来たのだ。だからその時の自分には、卒業とは名ばかりで、実際は、鉱山技師の資格など全く無かったのである。自分も既に二十一歳になっていた。早く人生の進路を決定しなければならぬ。義和団ぎわだんの乱に依って清朝の無力が、列国だけでなく、支那の民衆にも看破せられ、支那の独立性を保持するには打清興漢の大革命こそ喫緊きっきんなれとの思想が澎湃ほうはいとして起り、さきに海外に亡命していた孫文そんぶんは、すでにその政治綱領「三民主義」を完成し、これ支那革命の旗幟きしとして国内の同志を指導し、自分たち洋学派の学生も大半はその「三民主義」の熱烈な信奉者となって、老憊ろうぱいの清国政府を打倒し漢民族の新国家を創造し、もって列国の侵略に抗してその独立性を保全すべしと叫んで学業を放擲ほうてきし、直接革命運動に身を投ずる者も少くなかった。自分も、その風潮に刺戟せられて、支那の危急を救うためには、必ず或る種の革命が断行せられなければならぬと察照するに到ってはいたが、しかし、それには、列国の文明の本質をさらにもっと深く究明するのが何よりも緊急の事のように思われた。自分の知識は未だ幼稚である。ほとんど何も知らないと言ってよい。学業を捨て、いますぐ政治運動に身を投ずる者の憂国の至情もわかるが、しかし、究極の目標は同じであっても、自分の目下の情熱は、政治の実際運動よりも、列国の富強の原動力に対する探究に在った。それが科学であるとは、その頃、はっきり断定するに到ってはいなかったが、しかし、西洋文明の粋は、独逸国に行けば、最も確実に把握はあく出来るのではあるまいかという、おぼろげな見当をつけて、自分の生涯の方針も、独逸に留学する事に依って解決されるのかも知れないと考えた。しかし、自分は貧乏である。故郷を捨て、南京に出て来た事さえ精一ぱいであった自分が、さらに万里を踏破とうはして独逸国に留学するにはどうしたらよいか、まるで雲上の楼閣を望見するが如き思いであった。独逸国へ留学する事が絶望だとしたら、あますところは、もう一つの道しか無かった。日本へ行く事だ。その頃、政府が費用を出して、年々すこしずつの清国留学生を日本に送りはじめていたのである。その二、三年前に張之洞ちょうしどうの著した有名な勧学篇などにも、大いに日本留学の必要が力説されていて、日本は小国のみ、しかるに何ぞおこるのにわかなるや、伊藤、山県やまがた榎本えのもと陸奥むつの諸人は、みな二十年前、出洋の学生なり、その国、西洋のためにおびやかさるるを憤り、その徒百余人をひきい、わかれて独逸、仏蘭西、英吉利にいたり、あるいは政治工商を学び、あるいは水陸兵法を学び、学成りて帰り、もって将相となり、政事一変し、東方に雄視す、などという論調でもって日本を讃美し、そうして結論は、「遊学の国にいたりては、西洋は日本にかず」という事になっているが、しかし、その理由としては、

一、みち近くして費をはぶき、多くの学生を派遣し得べし。
一、日本文は漢文に近くして、通暁し易し。
一、西学は甚だ繁、およそ西学の切要ならざるものは、日本人すでに刪節さんせつして之を酌改す。
一、日支の情勢、風俗相近く、したがい易し。事なかばにして功倍する事、之にすぐるものなし。

 という工合のものであって、決して日本固有の国風を慕っているのでは無く、やはり学ぶべきは西洋の文明ではあるが、日本はすでに西洋の文明の粋を刪節して用いるのに成功しているのであるから、わざわざ遠い西洋まで行かずともすぐ近くの日本国で学んだほうが安直に西洋の文明を吸収できるという一時の便宜主義から日本留学を勧奨していた、といっても過言では無かろうと思う。当時、日本に留学する学生が年々増加していたが、ほとんどその全部が、この勧学篇に依ってあらわされている思想と大同小異の、へんに曲折された意図を以て、日本留学に出かけて行くような状態であって、自分もまた、その例にもれず、独逸行きを不可能と見て、その代りに日本留学を志望するに到ったという事実を告白しなければならぬ。自分は政府の留学生の試験に応じて、パスした。日本は、どんなところか。自分には、それにいての予備知識は何も無かった。かつて日本を遊歴した事のある礦路学堂の先輩のもとをおとずれて、日本遊学の心得を尋ねた。その先輩の言うには、日本へ行って最も困るのは足袋たびだ、日本の足袋は、てんで穿けやしないから、支那しなの足袋を思い切ってたくさん持って行くがいい、それから紙幣は不自由な時があるから、全部、日本の現銀に換えて持って行った方がいい、まあ、そんなものだ、ということだったので、自分は早速さっそく支那の足袋を十足買って、それから所持金を全部、日本の一円銀貨に換え、ひどく重くなった財布さいふを気にしながら、上海シャンハイで船に乗って横浜に向った。しかしその先輩の遊学心得は少し古すぎたようである。日本では、学生は制服を着て、靴と靴下を穿かなければいけなかった。足袋の必要は全然なかった。また、あの恥かしいくらい大きな一円銀貨は、日本でとうの昔に廃止されていて、それをまた日本の紙幣に換えてもらうのに、たいへんな苦労をした。それは後の話だが、自分がその明治三十五年、二十二歳の二月、無事横浜に上陸して、日本だ、これが日本だ、自分もいよいよこの先進国で、あたらしい学問に専念できるのだ、と思った時には、自分のそれまで一度もあじった事の無かった言うに言われぬほのぼのしたよろこびが胸に込み上げて来て、独逸行きの志望も何も綺麗きれいに霧散してしまったほどで、本当に、あのような不思議な解放のよろこびは、これからの自分の生涯において、支那の再建が成就した日ならともかく、その他にはおそらく再び経験することが出来ないのではなかろうかと思われる。自分はそれから新橋行きの汽車に乗ったが、窓外の風景をひとめ見て、日本は世界のどこにも無い独自の清潔感を持っていることを直感した。田畑は、おそらく無意識にであろう、美しくきちんと整理されている。それに続く工場街は、黒煙濛々もうもうと空をおおいながら、その一つ一つの工場の間をさわやかな風が吹き抜けている感じで、その新鮮な秩序と緊張の気配は、支那において全く見かけられなかったもので、自分はその後、東京のまちを朝早く散歩する度毎に、どの家でも女の人が真新しい手拭てぬぐいを頭にかぶって、たすきをかけて、いそがしげに障子しょうじにはたきをかける姿を見て、その朝日を浴びて可憐かれんに緊張している姿こそ、日本の象徴のように思われて神の国の本質をちらと理解できたような気さえしたものだが、それに似たけなげな清潔感を、自分の最初の横浜新橋間の瞥見べっけんに依っても容易に看取し得たのである。要するに、過剰が無いのである。倦怠けんたいの影が、どこにもよどんでいないのである。日本に来てよかった、と胸が高鳴り、興奮のため坐っていられず、充分に座席があったのに横浜から新橋まで一時間、自分はほとんど立ったままであった。東京に着いて、先輩の留学生の世話で下宿がきまって、それから上野公園、浅草公園芝公園隅田堤すみだづつみ飛鳥山あすかやま公園、帝室博物館、東京教育博物館、動物園、帝国大学植物園、帝国図書館、まるでもう無我夢中で、それこそあなたがさっきお話したような、あなたが仙台をはじめて見た時の興奮と同様の、いや、おそらくはそれの十倍くらいの有頂天で、ただ、やたらに東京の市中を歩きまわったものだが、しかし、やがて牛込の弘文学院に入学して勉強するに及んで、この甘い陶酔から次第に醒めて、ややもするとまた昔の懐疑と憂鬱ゆううつに襲われる事が多くなった。自分が東京に来たこの明治三十五年前後から、清国留学生の数も急激に増加し、わずか二、三年のうちに、もう支那からの留学生が二千人以上も東京に集って来て、これを迎えて、まず日本語を教え、また地理、歴史、数学などの大体の基本知識を与える学校も東京に続々と出来て、中には怪しげな速成教育を施して、ひともうけをたくらむ悪質の学校さえ出現した様子で、しかし、そのたくさんの学校の中で、自分たちの入学した弘文学院は、留日学生の、まあ、総本山とでもいうような格らしく、学校の規模も大きく設備もととのい、教師も学生もまじめなほうであったが、それでも、自分は日一日と浮かぬ気持になって行くのを、どうする事も出来なかった。一つには、あなたがさっき言ったように、おなじ羽色のからすが数百羽集ると猥雑わいざつに見えて来るので同類たがいに顰蹙ひんしゅくし合うに到る、という可笑おかしい心理に依るのかも知れないが、自分もやはり清国留学生、いわば支那から特に選ばれて派遣されて来た秀才というような誇りを持っていたいと努力してみるものの、どうも、その、選ばれた秀才が多すぎて、東京中いたるところに徘徊はいかいしているので、拍子抜けのする気分にならざるを得ないのである。春になれば、上野公園の桜が万朶ばんだの花をひらいて、確かにくれないの軽雲の如く見えたが、しかし花の下には、きまってその選ばれた秀才たちの一団が寝そべって談笑しているので、自分はその桜花爛漫らんまんを落ちついた気持で鑑賞することが出来なくなってしまうのである。その秀才たちは、辮髪べんぱつを頭のてっぺんにぐるぐる巻にして、その上に制帽をかぶっているので、制帽が異様にもりあがって富士山の如き形になっていて、甚だ滑稽こっけいと申し上げるより他は無かった。中にちょっとお洒落しゃれなのもいて、制帽のいただきがとがらないように辮髪を後頭部の方に平たく巻いて油でぴったり押えつけるという新工夫を案出して、その御苦心は察するにあまりあったが、帽子を脱ぐと、男だか女だかわからない奇怪な感じで、うしろ姿などいやになまめかしくて、思わずぞっとする体のものであった。そうしてかえって、自分のように辮髪を切り落している者を、へんに軽蔑の眼で見るのだからたまらない。また、その選ばれた秀才の一団が、市街鉄道などにどやどや乗り込んだ時には、礼譲の国から来た人間の面目を発揮するのはここだとでもいうつもりか、互いに座席の譲り合いで大騒ぎをはじめる。甲が乙に掛けろと言えば乙は辞退して丙に掛けろと言う。丙は固辞して丁にすすめる。丁はさらに鞠躬如きっきゅうじょとして甲にお掛けなさいと言う。日本の老若男女の乗客があっけにとられて見ている中で、大声でわめいて互いに揖譲ゆうじょうして終らぬうちに、がたんと車体が動くと同時に、その一団は折りかさなって倒れる。自分は片隅かたすみでかくれるようにしてそれを眺めて、恥かしいとも何とも言いようない気持になったものだ。しかし、それはまだ深くとがむべきではなかった。そのような同胞の無邪気な努力を情なく思う自分の気取った心に罪があるのかも知れない。自分の憂鬱の原因は他にもう一つあった。それは学生たちの不勉強であった。支那の革命運動の現状に就いて、自分はまだはっきりした事はわからぬが、三合会、哥老会、興中会などの革命党の秘密結社は、孫文を盟主として、もうとっくに大同団結をげている様子で、さきに日本に亡命して来た康有為一派の改善主義は、孫文一派の民族革命の思想と相容あいいれず、康有為はひそかに日本を去って欧洲に旅立ったらしく、いまは孫文所謂いわゆる三民五憲の説が圧倒的に優勢になって、その確立せられた主義綱領に基づいて、いよいよ活溌な実際行動の季節に突入した状態のように見受けられ孫文ご自身も、東京にあらわれて日本の志士の応援を得て種々画策し、このごろでは東京が支那革命運動の本拠になっているような工合らしいので、留日学生の興奮もすさまじく、寄るとさわると打清興漢の気勢を挙げ、学業も何も投げ棄ててしまっている有様である。しかし、それも憂国の至情の発するところ、無理もないと思われるのであるが、中にはこのどさくさにまぎれて自身の出世を計画している者もあり、ひどいのは、れいの速成教育で石鹸せっけん製造法など学び、わずか一箇月の留学であやしげな卒業証書を得て、これからすぐ帰国して石鹸を製造し、大もうけをするのだ、と大威張りで吹聴ふいちょうして歩いている風変りの学生さえあったほどで、自分が時たま、神田駿河するがだいの清国留学生会館に用事があって出かけて行くと、その度毎に二階で、どしんどしんと物凄ものすごい大乱闘でも行われているような音が聞えて、そのために階下の部屋の天井板が振動し、天井のちりが落ちて階下はいつも濛々もうもうとしていた。その変異が、あまり度重なるので、或る日、自分は事務所の人に二階ではどのような騒動が演じられているのかと尋ねたらその事務所の日本人のじいさんは苦笑しながら、あれは学生さんたちがダンスの稽古けいこをしていらっしゃるのですと教えてくれた。もう自分には、このような秀才たちと一緒にいるのがとても堪え切れなくなって来た。いまは支那にとって、新しい学問が絶対に必要な時なのだ。列国の猛威に対抗するためには、打清興漢の政治運動も勿論もちろん急務に違いないが、しかし、新しい学問に依って、列国の威力の本質を追求する事も自分たち学生に負わされた職業ではなかろうか。もとより自分は孫先生を尊敬し、その三民五憲の説に共感している事においてもあえて人後に落ちぬつもりであるが、しかし、その三民主義の民族、民権、民生の説の中で、自分には民生の箇条が最も理解が容易であった。いつも自分の目先にちらついているものは、少年の頃、三春秋、父の病気をなおそうとして質屋の店台と薬屋の店台の間を毎日のように往復し、名医と称せられる詐欺師の言を信じて、平地木やら原配の蟋蟀しっしゅつやらをうろうろ捜し廻っている自分の悲惨な姿であった。また眠られぬ夜など、自分の耳にひそひそ入って来る声は、おろかな迷信にたより、父の霊魂を引きとめようとして瀕死ひんしの父の枕元まくらもとのども破れよと父の名を呼んだ、あのあさましい自分のわめき声である。あれが支那の民衆の姿だ。いまだって、少しも変ってはいないのだ。聖賢の言は、生活の虚飾として用いられ、いたずらに神仙の迷信のみ流行し、病人は高価な敗鼓皮丸はいこひがんを押し売りされて、日増ひましに衰弱するばかりなのだ。この支那の民衆の現状をどうする。この惨めな現状に対する忿懣ふんまんから、自分は魂を毛唐に一時ゆだねて進んで洋学に志したのだ。母にそむいて故郷を捨てたのだ。自分の念願は一つしか無い。いわく、同胞の新生である。民衆の教化なくして、何の改革ぞや、維新ぞや。しかも、この民衆の教化は、自分たち学生の手に依らずして、誰がよくし得るところか。勉強しなければならぬ。もっと、もっと、勉強しなければならぬ。自分はその折、漢訳の明治維新史を読んでみた。そうして日本の維新の思想が、日本の一群の蘭学者に依って、絶大の刺戟を受けたという事実を知った。これだと思った。これだからこそ日本の維新も、あのように輝かしい成功を収めることが出来たのだと思った。何よりもまず、科学の威力に依って民衆を覚醒かくせいさせ、これを導いて維新の信仰にまで高めるのでなければ、いかなる手段の革命も困難を極めるに違いない。まず科学だ、と自分はその維新史を読んで、はじめて自分の生涯の方針をさぐり当てたような気がした。支那はいまこの科学の力に依って、大にしては列国の侵略と戦い、その独立性を保全し、小にしては民衆個々の日常生活をうるおし新生の希望と努力をうながすべきである。これは自分のあまい夢であろうか。夢でもよい。自分はその夢の実現のために、生涯を捧げ切る。自分のこれからの生涯はおそらく少しも派手なところの無い、ひどく地味なものになるだろう。しかし、自分は民衆のひとりひとりに新生の活力を与え、次第に革命の信仰にまで導いて行くのだ。愛国の至情の発現は、多種多様であるべきだ。必ずしもいますぐ政治の直接行動に身を投ずる必要は無い。自分は、いまもっと勉強しなければならぬ。まず科学の中の、医学を修めよう。自分に新しい学問の必要を教えてくれたのは、あの少年の頃の医者の欺瞞ぎまんだ。あの時の憤怒ふんぬが、自分に故郷を捨てさせたのだ。自分の新しい学問への志願は、初めから医術とつながっていたとも言える。瀕死の父の枕元で、父の名を絶叫したあの時の悲惨な声が、いつでも自分の耳朶じだを撃って、自分を奮激させて来たではないか。医者になろう。明治維新史に依ると、当時の蘭学者の大部分も医者であった。いや、西洋の医術を学び取るために、蘭語の勉強を始めた者も多かった。それほど、日本においても、更に進歩した医術が他のどんな科学よりもさきに、民衆に依って渇望されていたのだ。医学は、民衆の日常生活に最も近い結びつきを持っているものだ。病いをなおしてやるというのは、民衆の教化の第一歩だ。自分はまず、日本に於いて医学を修め、帰国して自分の父のように医者にあざむかれてただ死を待つばかりのような病人を片端から全治させて、科学の威力を知らせ、愚な迷信から一日も早く覚醒させるよう民衆の教化に全力を尽し、そうして、もし支那が外国と干戈かんかを交えた時には軍医として出征し、新しい支那の建設のため骨身を惜しまず働こう、とここに自分の生涯の進路がはじめて具体的に確定せられたわけであったが、ひるがえって、自分の周囲を見渡すと、富士山の形にとがった制帽であり、市街鉄道の中の過度の礼譲の美徳であり、石鹸製造であり、大乱闘の如きダンスの練習である。そうしてことしの二月、日本は北方の強大国露西亜に対して堂々と戦を宣し、日本の青年たちは勇躍して戦場に赴き、議会は満場一致で尨大ぼうだいの戦費を可決し、国民はあらゆる犠牲を忍んで毎日の号外の鈴の音に湧き立っている。自分は、この戦争は大丈夫、日本が勝つと思う。このように国内が活気汪溢おういつしていて、負ける筈はない。それは自分の直感であるが、同時に、自分はこの戦争が勃発ぼっぱつして以来、非常に恥かしい気分に襲われた。この戦争は、人に依っていろいろの見方もあるであろうが、自分はこの戦争も支那の無力が基因であると考えている。支那に自国統治の実力さえあったなら、こんどの戦争も起らなくてすんだであろうに、これではまるで支那の独立保全のために日本に戦争してもらっているようにも見えて、考え様に依っては、支那にとってはまことに不面目な戦争ではあるまいか。日本の青年達が支那の国土で勇敢に戦い、貴重な血を流しているのに、まるで対岸の火事のように平然と傍観している同胞の心裡しんりは自分に解しかねるところであった。しかも同じ年配の支那の青年たちが、奮起するどころか、相も変らず清国留学生会館でダンスの稽古にふけっているのを見るに及んで、自分もようやく決意した。しばらく、この留学生の群と別れて生活しよう。自己嫌悪、とでもいうのであろうか、自分の同胞たちの、のほほん顔を見ると、恥かしくいまいましく、いたたまらなくなるのだ。ああ、支那の留学生がひとりもいない土地に行きたい。しばらく東京から遠く離れて、何事も忘れ、ひとりで医学の研究に出精したい。もはや躊躇ちゅうちょしている時では無い。自分は麹町こうじまち区永田町の清国公使館に行き、地方の医学校へ入学の志望を述べ、やがて、この仙台医専編入されることにきまった。東京よ、さらば。選ばれた秀才たちよ、さらば。いよいよお別れとなると、さすがにさびしかった。汽車で上野を出発して、日暮里にっぽりという駅を通過し、その「日暮里」という字が、自分のその時の憂愁にぴったり合って、もう少しで落涙しそうになった。それからしばらくして水戸という駅を通過し、これは明末の義臣朱舜水しゅしゅんすい先生の客死されたところ、Wandervogel の大先輩の悲壮の心事をしのび、少しく勇気を得て仙台に着いた。仙台は日本の東北で最も大きい都であると聞いていたが、来て見ると、東京の十分の一にも足りないくらいの狭い都会であった。まちの人の言葉も、まさか鴃舌げきぜつというほどではなかったが、東京の人の言葉にくらべて、へんに語勢が強く、わかりにくいところが多かった。まちの中心は流石さすがに繁華で、東京の神楽坂かぐらざかくらいの趣きはあったが、しかし、まち全体としては、どこか、軽い感じで、日本の東北地方の重鎮じゅうちんとしてのどっしりした実力は稀薄きはくのように思われた。かえってもっと北方の盛岡、秋田などというあたりに、この東北地方の豊潤な実勢力が鬱積うっせきされているのだが、仙台は所謂いわゆる文明開化の表面の威力でそれをおさえつけ、びくびくしながら君臨しているというような感じがした。ここは伊達政宗だてまさむねという大名の開いたまちだそうであるが、日本で、der Stutzer の気取屋のことを「伊達者」といっているのは、案外、仙台のこんな気風をからかったことから始ったのではないかしらと思われるほど、意味も無く都会風に気取っているまちであった。要するに、自信も何も無いくせに東北地方第一という沽券こけんにこだわり、つんと澄ましているだけの「伊達のまち」のように自分には思われたのだが、しかし、あなたがさっき話してくれたように北方の奥地からいきなりこの仙台に出て来た人にとっては、この土地の文明開化も豪華絢爛けんらんたるものに見えて、これに素直に驚歎し、順服するというのは自然の事で、これこそ仙台の開祖政宗公が東北地方全体を圧倒雄視するために用いた政策のねらいで、それが伝統的な気風になり、維新後三十七年を経過したいまでも、その内容空疎に多少おどおどしながらやっぱり田舎紳士いなかしんしの気取りを捨て切れないでいるのである。しかし、こんな悪口を言っても、自分はこの仙台のまちに特に敵意をいだいているというわけでは決してない。地方の、産業の乏しい都会は、たいていこんな悲しい気取りで生きているものだ。これから自分は一生涯の、おそらくは最も重大な時期を、仙台のまちにゆだねてしまうのだから、つい念入りにこのまちの性格に就いて考え、あれこれと不満を並べてみたくなっただけの事で、こんな気風のまちは、学問するにはかえって好適の土地なのかも知れない。事実、このまちへ来てから、自分の学習は順調である。多分、物はれなるを以てとうとしとするからであろう、自分は、この仙台のまちにとって、最初の、またただ一人の清国留学生だというので、非常に珍重がられ、それこそあなたの言うように、何の見どころのないからすでも、ただ一羽枯枝にとまっているとその姿もまんざらでなく、漆黒しっこくつばさも輝いて見えるらしく、学校の先生たちもまるで大事なお客様か何かのように自分を親切にあつかってくれるので、自分はかえってまごついているくらいである。自分にとって、こんなに皆から温情を示されるのは、生れてはじめてのことである。きっと枯枝の烏を、買いかぶっているのに違いない。有難く思うと同時に、また、あの人たちの好意を裏切ったら相すまぬという不安も自分は持っている。同級生たちも、おそらくは物珍らしさからであろう、朝、教室で顔を見合わせると、たいてい、向うから微笑ほほえみかけてくれるし、また、隣りの席に坐った生徒は、進んで自分にナイフや消ゴムを貸してくれて、中でも津田憲治とかいう東京の府立一中から来たのを少し自慢にしている背の高い生徒は最も熱烈な関心を持っているようで、何かと自分にこまかい指図さしずをしてくれて、カラアがよごれていますよ、クリイニングに出しなさい、とか、雨降りの時の長靴を一足買いなさい、とか、服装の事まで世話を焼き、とうとう自分の下宿まで出張して来て、これはいかん、すぐここから引越して僕の下宿へおいでなさい、と言う。自分の下宿は、こめヶ袋ぶくろ鍛冶屋前丁かじやまえちょうの宮城監獄署の前にあって、学校にも近いし食事も上等だし自分には大いに気にいっていたのだが、その津田さんの言によれば、この下宿屋は、監獄の囚人の食事の差入屋を兼ねているからいかん、という事であって、いやしくも清国留学生の秀才が、囚人と同じ鍋のめしを食っているというのは、君一個人の面目問題ばかりでなく、ひいては貴国の体面にも傷をつける事になるから早く引越さなければいけない、と幾度も幾度も忠告してくれて、自分は笑いながら、そんなことは自分はちっとも気にしていない、と言っても、いやいや君は遠慮してうそをついているのだろう、支那の人は何よりも体面ということを重んずるということだ、囚人と同じめしを食っても気にならんというのは嘘でしょう、早くこの不吉な宿を引上げて僕の下宿へ来たまえ、と執拗しつようにすすめる。ひどくまじめな顔をして、そんなことを言うのだが、あれで内心は自分をからかっているのかも知れない。どうだか、わかったものではないが、とにかく友の好意を無下むげにしりぞけて怒られてもつまらないから、自分は仕方なく、その津田さんの荒町の下宿に引越した。こんどは監獄からは遠くなったけれども、食事が以前のようにいいとは言えない。毎朝のおぜんに、なまの里芋をりつぶしてどろりとさせたものが出て、これにはどうにもはしをつけかねて非常に困惑したが、れいの津田さんは、或る朝、自分の部屋をのぞいて、それをなぜたべないのかと、すぐに見とがめて、それはなかなか養分の多いものだから必ずたべなければいけない、それを、おみおつけにまぜて充分にきまわすと、おいしいとろろ汁が出来上るから、そのとろろ汁をごはんにかけて食べるといい、と教えてくれて、それから自分は毎朝、おみおつけにまぜて掻きまわしてごはんにかけてたべなければならなくなった。あのひとも、決して悪い人間ではないらしいが、どうもあの過度の親切には、閉口している。しかしまあ、いまのところ、津田さんのこんなおせっかいが少し苦痛なだけで、あとは、自分には何の不服も無い。全部、順調である。幸福な身の上と言っていいのかも知れない。学校の講義はどれもこれも新鮮で、自分の永年の志望も、ここへ来て、やっとかなえてもらえたような気がしている。中でも、解剖学の藤野先生の講義は面白い。別に変ったところも無い講義だが、それでも、やはりあの先生の人格が反映されているのか、自分ばかりでなく、他の生徒もみな楽しそうに聴講している。前学年に及第できなくて原級にとどまった所謂古狸ふるだぬきの連中の話に拠れば、藤野先生は服装に無頓着むとんじゃくで、ネクタイをするのを忘れて学校へ出て来られる事がしばしばあり、また冬は、膝小僧ひざこぞうをかくす事が出来ないくらいの短い古外套ふるがいとうを着て、いつも寒そうにぶるぶる震えて、いつか汽車に乗られた時、車掌は先生を胡散うさんくさい者と見てとったらしく、だしぬけに車内の全乗客に向い、このごろ汽車の中に掏摸すりが出没していますから皆さま御用心なさい、と叫んだとか、その他、まだまだ面白い逸事があるらしく、お心も高潔のようだし、講義も熱心で含蓄が深いのに、一面に於いてそんな脱俗の風格をお持ちのせいか、クラスの所謂古狸連は、この先生にれ、くみし易しとしている様子で、この先生の講義の時には、何でも無い事にでもわっと笑声を挙げてはやすので教室がたいへんにぎやかになるのである。最初の授業の時も、この先生が、やや猫背になって大小さまざまの本を両わきにかかえて教室にあらわれ、そのたくさんの本を教壇の机の上に高く積み上げてから、ひどくゆっくりした語調で、わたくしは、藤野厳九郎と申すもので、と言いかけたら、れいの古狸たちが、どっと笑い出したので、自分は先生を何だか気の毒に思ったくらいである。しかし、この最初の講義は、日本における解剖学の発達の歴史であって、その時、持って来られた大小さまざまの本は、昔から現代に到るまでの日本人の解剖学に関する著作であった。杉田玄白の「解体新書」や「蘭学事始らんがくことはじめ」などもその中にあった。そうして、玄白たちが小塚原こづかっぱらの刑場で罪人のしかばね腑分ふわけする時の緊張などを、先生は特徴のあるゆっくりした語調で説いて聞かせたが、あの最初の講義は、自分の前途を暗示し激励してくれているようで、実に深い感銘を受けた。もう今では自分の進路は、一言で言える。支那杉田玄白になる事だ。それだけだ。支那杉田玄白になって、支那の維新の狼煙のろしを挙げるのだ。

 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