記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日刊 太宰治全小説】#4「思い出」三章(『晩年』)

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【冒頭】
四年生になってから、私の部屋へは毎日のようにふたりの生徒が遊びに来た。私は葡萄酒(ぶどうしゅ)(するめ)をふるまった。そうして彼等に多くの出鱈目(でたらめ)を教えたのである。

【結句】
私たちは、お互いの頭をよせつつ、なお鳥渡(ちょっと)の間その写真に眼をそそいだ。私は、こころの中でとっくに弟と和解をしていたのだし、みよのあのことも、ぐずぐずして弟にはまだ知らせてなかったし、わりにおちつきを装うてその写真を眺めることが出来たのである。みよは、動いたらしく顔から胸にかけての輪郭がぼっとしていた。叔母は両手を帯の上に組んでまぶしそうにしていた。私は、似ていると思った。

 

(おも)() 三章(さんしょう)」について

新潮文庫『晩年』所収。
・昭和7年秋頃初稿脱稿、昭和8年5月頃発表稿脱稿。
・昭和8年7月1日、同人雑誌『海豹』七月号に掲載。


晩年 (新潮文庫)

 

 全文掲載(「青空文庫」)

三章


 四年生になつてから、私の部屋へは毎日のやうにふたりの生徒が遊びに來た。私は葡萄酒と鯣をふるまつた。さうして彼等に多くの出鱈目を教へたのである。すみのおこしかたに就いて一册の書物が出てゐるとか、「けだものの機械」といふ或る新進作家の著書に私がべたべたと機械油を塗つて置いて、かうして發賣されてゐるのだが、珍らしい裝幀でないかとか、「美貌の友」といふ飜譯本のところどころカツトされて、そのブランクになつてゐる箇所へ、私のこしらへたひどい文章を、知つてゐる印刷屋へ祕密にたのんで刷りいれてもらつて、これは奇書だとか、そんなことを言つて友人たちを驚かせたものであつた。
 みよの思ひ出も次第にうすれてゐたし、そのうへに私は、ひとつうちに居る者どうしが思つたり思はれたりすることを變にうしろめたく感じてゐたし、ふだんから女の惡口ばかり言つて來てゐる手前もあつたし、みよに就いて譬へほのかにでも心を亂したのが腹立しく思はれるときさへあつたほどで、弟にはもちろん、これらの友人たちにもみよの事だけは言はずに置いたのである。
 ところが、そのあたり私は、ある露西亞の作家の名だかい長編小説を讀んで、また考へ直して了つた。それは、ひとりの女囚人の經歴から書き出されてゐたが、その女のいけなくなる第一歩は、彼女の主人の甥にあたる貴族の大學生に誘惑されたことからはじまつてゐた。私はその小説のもつと大きなあぢはひを忘れて、そのふたりが咲き亂れたライラツクの花の下で最初の接吻を交したペエジに私の枯葉の枝折をはさんでおいたのだ。私もまた、すぐれた小説をよそごとのやうにして讀むことができなかつたのである。私には、そのふたりがみよと私とに似てゐるやうな氣分がしてならなかつた。私がいま少しすべてにあつかましかつたら、いよいよ此の貴族とそつくりになれるのだ、と思つた。さう思ふと私の臆病さがはかなく感じられもするのである。こんな氣のせせこましさが私の過去をあまりに平坦にしてしまつたのだと考へた。私自身で人生のかがやかしい受難者になりたく思はれたのである。
 私は此のことをまづ弟へ打ち明けた。晩に寢てから打ち明けた。私は巖肅な態度で話すつもりであつたが、さう意識してこしらへた姿勢が逆に邪魔をして來て、結局うはついた。私は、頸筋をさすつたり兩手をもみ合せたりして、氣品のない話かたをした。さうしなければかなはぬ私の習性を私は悲しく思つた。弟は、うすい下唇をちろちろ舐めながら、寢がへりもせず聞いてゐたが、けつこんするのか、と言ひにくさうにして尋ねた。私はなぜだかぎよつとした。できるかどうか、とわざとしをれて答へた。弟は、恐らくできないのではないかといふ意味のことを案外なおとなびた口調でまはりくどく言つた。それを聞いて、私は自分のほんたうの態度をはつきり見つけた。私はむつとして、たけりたけつたのである。蒲團から半身を出して、だからたたかふのだ、たたかふのだ、と聲をひそめて強く言ひ張つた。弟は更紗染めの蒲團の下でからだをくねくねさせて何か言はうとしてゐるらしかつたが、私の方を盜むやうにして見て、そつと微笑んだ。私も笑ひ出した。そして、門出だから、と言ひつつ弟の方へ手を差し出した。弟も恥しさうに蒲團から右手を出した。私は低く聲を立てて笑ひながら、二三度弟の力ない指をゆすぶつた。
 しかし、友人たちに私の決意を承認させるときには、こんな苦心をしなくてよかつた。友人たちは私の話を聞きながら、あれこれと思案をめぐらしてゐるやうな恰好をして見せたが、それは、私の話がすんでからそれへの同意に效果を添へようためのものでしかないのを、私は知つてゐた。じじつその通りだつたのである。
 四年生のときの夏やすみには、私はこの友人たちふたりをつれて故郷へ歸つた。うはべは、三人で高等學校への受驗勉強を始めるためであつたが、みよを見せたい心も私にあつて、むりやりに友をつれて來たのである。私は、私の友がうちの人たちに不評判でないやうに祈つた。私の兄たちの友人は、みんな地方でも名のある家庭の青年ばかりだつたから、私の友のやうに金釦のふたつしかない上着などを着てはゐなかつたのである。
 裏の空屋敷には、そのじぶん大きな鷄舍が建てられてゐて、私たちはその傍の番小屋で午前中だけ勉強した。番小屋の外側は白と緑のペンキでいろどられて、なかは二坪ほどの板の間で、まだ新しいワニス塗の卓子や椅子がきちんとならべられてゐた。ひろい扉が東側と北側に二つもついてゐたし、南側にも洋ふうの開窓があつて、それを皆いつぱいに明け放すと、風がどんどんはひつて來て書物のペエジがいつもぱらぱらとそよいでゐるのだ。まはりには雜草がむかしのままに生えしげつてゐて、黄いろい雛が何十羽となくその草の間に見えかくれしつつ遊んでゐた。
 私たち三人はひるめしどきを樂しみにしてゐた。その番小屋へ、どの女中が、めしを知らせに來るかが問題であつたのである。みよでない女中が來れば、私たちは卓をぱたぱた叩いたり舌打したりして大騷ぎをした。みよが來ると、みんなしんとなつた。そして、みよが立ち去るといつせいに吹き出したものであつた。或る晴れた日、弟も私たちと一緒にそこで勉強をしてゐたが、ひるになつて、けふは誰が來るだらう、といつものやうに皆で語り合つた。弟だけは話からはづれて、窓ぎはをぶらぶら歩きながら英語の單語を暗記してゐた。私たちは色んな冗談を言つて、書物を投げつけ合つたり足踏して床を鳴らしてゐたが、そのうちに私は少しふざけ過ぎて了つた。私は弟をも仲間にいれたく思つて、お前はさつきから默つてゐるが、さては、と唇を輕くかんで弟をにらんでやつたのである。すると弟は、いや、と短く叫んで右手を大きく振つた。持つてゐた單語のカアドが二三枚ぱつと飛び散つた。私はびつくりして視線をかへた。そのとつさの間に私は氣まづい斷定を下した。みよの事はけふ限りよさうと思つた。それからすぐ、なにごともなかつたやうに笑ひ崩れた。
 その日めしを知らせに來たのは、仕合せと、みよでなかつた。母屋へ通る豆畑のあひだの狹い道を、てんてんと一列につらなつて歩いて行く皆のうしろへついて、私は陽氣にはしやぎながら豆の丸い葉を幾枚も幾枚もむしりとつた。
 犧牲などといふことは始めから考へてなかつた。ただいやだつたのだ。ライラツクの白い茂みが泥を浴びせられた。殊にその惡戲者が肉親であるのがいつそういやであつた。
 それからの二三日は、さまざまに思ひなやんだ。みよだつて庭を歩くことがあるでないか。彼は私の握手にほとんど當惑した。要するに私はめでたいのではないだらうか。私にとつて、めでたいといふ事ほどひどい恥辱はなかつたのである。
 おなじころ、よくないことが續いて起つた。ある日の晝食の際に、私は弟や友人たちといつしよに食卓へ向つてゐたが、その傍でみよが、紅い猿の面の繪團扇でぱさぱさと私たちをあふぎながら給仕してゐた。私はその團扇の風の量で、みよの心をこつそり計つてゐたものだ。みよは、私よりも弟の方を多くあふいだ。私は絶望して、カツレツの皿へぱちつとフオクを置いた。
 みんなして私をいぢめるのだ、と思ひ込んだ。友人たちだつてまへから知つてゐたに違ひない、と無闇に人を疑つた。もう、みよを忘れてやるからいい、と私はひとりできめてゐた。
 また二三日たつて、ある朝のこと、私は、前夜ふかした煙草がまだ五六ぽん箱にはひつて殘つてゐるのを枕元へ置き忘れたままで番小屋へ出掛け、あとで氣がついてうろたへて部屋へ引返して見たが、部屋は綺麗に片づけられ箱がなかつたのである。私は觀念した。みよを呼んで、煙草はどうした、見つけられたらう、と叱るやうにして聞いた。みよは眞面目な顏をして首を振つた。そしてすぐ、部屋のなげしの裏へ脊のびして手をつつこんだ。金色の二つの蝙蝠が飛んである緑いろの小さな紙箱はそこから出た。
 私はこのことから勇氣を百倍にもして取りもどし、まへからの決意にふたたび眼ざめたのである。しかし、弟のことを思ふとやはり氣がふさがつて、みよのわけで友人たちと騷ぐことをも避けたし、そのほか弟には、なにかにつけていやしい遠慮をした。自分から進んでみよを誘惑することもひかへた。私はみよから打ち明けられるのを待つことにした。私はいくらでもその機會をみよに與へることができたのだ。私は屡々みよを部屋へ呼んで要らない用事を言ひつけた。そして、みよが私の部屋へはひつて來るときには、私はどこかしら油斷のあるくつろいだ恰好をして見せたのである。みよの心を動かすために、私は顏にも氣をくばつた。その頃になつて私の顏の吹出物もどうやら直つてゐたが、それでも惰性で、私はなにかと顏をこしらへてゐた。私はその蓋のおもてに蔦のやうな長くくねつた蔓草がいつぱい彫り込まれてある美しい銀のコンパクトを持つてゐた。それでもつて私のきめを時折うめてゐたのだけれど、それを尚すこし心をいれてしたのである。
 これからはもう、みよの決心しだいであると思つた。しかし、機會はなかなか來なかつたのである。番小屋で勉強してゐる間も、ときどきそこから脱け出て、みよを見に母屋へ歸つた。殆どあらつぽい程ばたんばたんとはき掃除してゐるみよの姿を、そつと眺めては唇をかんだ。
 そのうちにたうとう夏やすみも終りになつて、私は弟や友人たちとともに故郷を立ち去らなければいけなくなつた。せめて此のつぎの休暇まで私を忘れさせないで置くやうな何か鳥渡した思ひ出だけでも、みよの心に植ゑつけたいと念じたが、それも駄目であつた。
 出發の日が來て、私たちはうちの黒い箱馬車へ乘り込んだ。うちの人たちと並んで玄關先へ、みよも見送りに立つてゐた。みよは、私の方も弟の方も、見なかつた。はづした萌黄のたすきを珠數のやうに兩手でつまぐりながら下ばかりを向いてゐた。いよいよ馬車が動き出してもさうしてゐた。私はおほきい心殘りを感じて故郷を離れたのである。
 秋になつて、私はその都會から汽車で三十分ぐらゐかかつて行ける海岸の温泉地へ、弟をつれて出掛けた。そこには、私の母と病後の末の姉とが家を借りて湯治してゐたのだ。私はずつとそこへ寢泊りして、受驗勉強をつづけた。私は秀才といふぬきさしならぬ名譽のために、どうしても、中學四年から高等學校へはひつて見せなければならなかつたのである。私の學校ぎらひはその頃になつて、いつそうひどかつたのであるが、何かに追はれてゐる私は、それでも一途に勉強してゐた。私はそこから汽車で學校へかよつた。日曜毎に友人たちが遊びに來るのだ。私たちは、もう、みよの事を忘れたやうにしてゐた。私は友人たちと必ずピクニツクにでかけた。海岸のひらたい岩の上で、肉鍋をこさへ、葡萄酒をのんだ。弟は聲もよくて多くのあたらしい歌を知つてゐたから、私たちはそれらを弟に教へてもらつて、聲をそろへて歌つた。遊びつかれてその岩の上で眠つて、眼がさめると潮が滿ちて陸つづきだつた筈のその岩が、いつか離れ島になつてゐるので、私たちはまだ夢から醒めないでゐるやうな氣がするのである。
 私はこの友人たちと一日でも逢はなかつたら淋しいのだ。そのころの事であるが、或る野分のあらい日に、私は學校で教師につよく兩頬をなぐられた。それが偶然にも私の仁侠的な行爲からそんな處罰を受けたのだから、私の友人たちは怒つた。その日の放課後、四年生全部が博物教室へ集つて、その教師の追放について協議したのである。ストライキストライキ、と聲高くさけぶ生徒もあつた。私は狼狽した。もし私一個人のためを思つてストライキをするのだつたら、よして呉れ、私はあの教師を憎んでゐない、事件は簡單なのだ、簡單なのだ、と生徒たちに頼みまはつた。友人たちは私を卑怯だとか勝手だとか言つた。私は息苦しくなつて、その教室から出て了つた。温泉場の家へ歸つて、私はすぐ湯にはひつた。野分にたたかれて破れつくした二三枚の芭蕉の葉が、その庭の隅から湯槽のなかへ青い影を落してゐた。私は湯槽のふちに腰かけながら生きた氣もせず思ひに沈んだ。
 恥しい思ひ出に襲はれるときにはそれを振りはらふために、ひとりして、さて、と呟く癖が私にあつた。簡單なのだ、簡單なのだ、と囁いて、あちこちをうろうろしてゐた自身の姿を想像して私は、湯を掌で掬つてはこぼし掬つてはこぼししながら、さて、さて、と何囘も言つた。
 あくる日、その教師が私たちにあやまつて、結局ストライキは起らなかつたし、友人たちともわけなく仲直り出來たけれど、この災難は私を暗くした。みよのことなどしきりに思ひ出された。つひには、みよと逢はねば自分がこのまま墮落してしまひさうにも、考へられたのである。
 ちやうど母も姉も湯治からかへることになつて、その出立の日が、あたかも土曜日であつたから、私は母たちを送つて行くといふ名目で、故郷へ戻ることが出來た。友人たちには祕密にしてこつそり出掛けたのである。弟にも歸郷のほんとのわけは言はずに置いた。言はなくても判つてゐるのだと思つてゐた。
 みんなでその温泉場を引きあげ、私たちの世話になつてゐる呉服商へひとまづ落ちつき、それから母と姉と三人で故郷へ向つた。列車がプラツトフオムを離れるとき、見送りに來てゐた弟が、列車の窓から青い富士額を覗かせて、がんばれ、とひとこと言つた。私はそれをうつかり素直に受けいれて、よしよし、と氣嫌よくうなづいた。
 馬車が隣村を過ぎて、次第にうちへ近づいて來ると、私はまつたく落ちつかなかつた。日が暮れて、空も山もまつくらだつた。稻田が秋風に吹かれてさらさらと動く聲に、耳傾けては胸を轟かせた。絶えまなく窓のそとの闇に眼をくばつて、道ばたのすすきのむれが白くぽつかり鼻先に浮ぶと、のけぞるくらゐびつくりした。
 玄關のほの暗い軒燈の下でうちの人たちがうようよ出迎へてゐた。馬車がとまつたとき、みよもばたばた走つて玄關から出て來た。寒さうに肩を丸くすぼめてゐた。
 その夜、二階の一間に寢てから、私は非常に淋しいことを考へた。凡俗といふ觀念に苦しめられたのである。みよのことが起つてからは、私もたうとう莫迦になつて了つたのではないか。女を思ふなど、誰にでもできることである。しかし、私のはちがふ、ひとくちには言へぬがちがふ。私の場合は、あらゆる意味で下等でない。しかし、女を思ふほどの者は誰でもさう考へてゐるのではないか。しかし、と私は自身のたばこの煙にむせびながら強情を張つた。私の場合には思想がある!
 私はその夜、みよと結婚するに就いて、必ずさけられないうちの人たちとの論爭を思ひ、寒いほどの勇氣を得た。私のすべての行爲は凡俗でない、やはり私はこの世のかなりな單位にちがひないのだ、と確信した。それでもひどく淋しかつた。淋しさが、どこから來るのか判らなかつた。どうしても寢つかれないので、あのあんまをした。みよの事をすつかり頭から拔いてした。みよをよごす氣にはなれなかつたのである。
 朝、眼をさますと、秋空がたかく澄んでゐた。私は早くから起きて、むかひの畑へ葡萄を取りに出かけた。みよに大きい竹籠を持たせてついて來させた。私はできるだけ氣輕なふうでみよにさう言ひつけたのだから、誰にも怪しまれなかつたのである。葡萄棚は畑の東南の隅にあつて、十坪ぐらゐの大きさにひろがつてゐた。葡萄の熟すころになると、よしずで四方をきちんと圍つた。私たちは片すみの小さい潛戸をあけて、かこひの中へはひつた。なかは、ほつかりと暖かつた。二三匹の黄色いあしながばちが、ぶんぶん言つて飛んでゐた。朝日が、屋根の葡萄の葉と、まはりのよしずを透して明るくさしてゐて、みよの姿もうすみどりいろに見えた。ここへ來る途中には、私もあれこれと計畫して、惡黨らしく口まげて微笑んだりしたのであつたが、かうしてたつた二人きりになつて見ると、あまりの氣づまりから殆ど不氣嫌になつて了つた。私はその板の潛戸をさへわざとあけたままにしてゐたものだ。
 私は脊が高かつたから、踏臺なしに、ぱちんぱちんと植木鋏で葡萄のふさを摘んだ。そして、いちいちそれをみよへ手渡した。みよはその一房一房の朝露を白いエプロンで手早く拭きとつて、下の籠にいれた。私たちはひとことも語らなかつた。永い時間のやうに思はれた。そのうちに私はだんだん怒りつぽくなつた。葡萄がやつと籠いつぱいにならうとするころ、みよは、私の渡す一房へ差し伸べて寄こした片手を、ぴくつとひつこめた。私は、葡萄をみよの方へおしつけ、おい、と呼んで舌打した。
 みよは、右手の附根を左手できゆつと握つていきんでゐた。刺されたべ、と聞くと、ああ、とまぶしさうに眼を細めた。ばか、と私は叱つて了つた。みよは默つて、笑つてゐた。これ以上私はそこにゐたたまらなかつた。くすりつけてやる、と言つてそのかこひから飛び出した。すぐ母屋へつれて歸つて、私はアンモニアの瓶を帳場の藥棚から搜してやつた。その紫の硝子瓶を、出來るだけ亂暴にみよへ手渡したきりで、自分で塗つてやらうとはしなかつた。
 その日の午後に、私は、近ごろまちから新しく通ひ出した灰色の幌のかかつてあるそまつな乘合自動車にゆすぶられながら、故郷を去つた。うちの人たちは馬車で行け、と言つたのだが、定紋のついて黒くてかてか光つたうちの箱馬車は、殿樣くさくて私にはいやだつたのである。私は、みよとふたりして摘みとつた一籠の葡萄を膝の上にのせて、落葉のしきつめた田舍道を意味ふかく眺めた。私は滿足してゐた。あれだけの思ひ出でもみよに植ゑつけてやつたのは私として精いつぱいのことである、と思つた。みよはもう私のものにきまつた、と安心した。
 そのとしの冬やすみは、中學生としての最後の休暇であつたのである。歸郷の日のちかくなるにつれて、私と弟とは幾分の氣まづさをお互ひに感じてゐた。
 いよいよ共にふるさとの家へ歸つて來て、私たちは先づ臺所の石の爐ばたに向ひあつてあぐらをかいて、それからきよろきよろとうちの中を見わたしたのである。みよがゐないのだ。私たちは二度も三度も不安な瞳をぶつつけ合つた。その日、夕飯をすませてから、私たちは次兄に誘はれて彼の部屋へ行き、三人して火燵にはひりながらトランプをして遊んだ。私にはトランプのどの札もただまつくろに見えてゐた。話の何かいいついでがあつたから、思ひ切つて次兄に尋ねた。女中がひとり足りなくなつたやうだが、と手に持つてゐる五六枚のトランプで顏を被ふやうにしつつ、餘念なささうな口調で言つた。もし次兄が突つこんで來たら、さいはひ弟も居合せてゐることだし、はつきり言つてしまはうと心をきめてゐた。
 次兄は、自分の手の札を首かしげかしげしてあれこれと出し迷ひながら、みよか、みよは婆樣と喧嘩して里さ戻つた、あれは意地つぱりだぜえ、と呟いて、ひらつと一枚捨てた。私も一枚投げた。弟も默つて一枚捨てた。
 それから四五日して、私は鷄舍の番小屋を訪れ、そこの番人である小説の好きな青年から、もつとくはしい話を聞いた。みよは、ある下男にたつたいちどよごされたのを、ほかの女中たちに知られて、私のうちにゐたたまらなくなつたのだ。男は、他にもいろいろ惡いことをしたので、そのときは既に私のうちから出されてゐた。それにしても、青年はすこし言ひ過ぎた。みよは、やめせ、やめせ、とあとで囁いた、とその男の手柄話まで添へて。

 正月がすぎて、冬やすみも終りに近づいた頃、私は弟とふたりで、文庫藏へはひつてさまざまな藏書や軸物を見てあそんでゐた。高いあかり窓から雪の降つてゐるのがちらちら見えた。父の代から長兄の代にうつると、うちの部屋部屋の飾りつけから、かういふ藏書や軸物の類まで、ひたひたと變つて行くのを、私は歸郷の度毎に、興深く眺めてゐた。私は長兄がちかごろあたらしく求めたらしい一本の軸物をひろげて見てゐた。山吹が水に散つてゐる繪であつた。弟は私の傍へ、大きな寫眞箱を持ち出して來て、何百枚もの寫眞を、冷くなる指先へときどき白い息を吐きかけながら、せつせと見てゐた。しばらくして、弟は私の方へ、まだ臺紙の新しい手札型の寫眞をいちまいのべて寄こした。見ると、みよが最近私の母の供をして、叔母の家へでも行つたらしく、そのとき、叔母と三人してうつした寫眞のやうであつた。母がひとり低いソフアに坐つて、そのうしろに叔母とみよが同じ脊たけぐらゐで並んで立つてゐた。背景は薔薇の咲き亂れた花園であつた。私たちは、お互ひの頭をよせつつ、なほ鳥渡の間その寫眞に眼をそそいだ。私は、こころの中でとつくに弟と和解してゐたのだし、みよのあのことも、ぐづぐづして弟にはまだ知らせてなかつたし、わりにおちつきを裝うてその寫眞を眺めることが出來たのである。みよは、動いたらしく顏から胸にかけての輪廓がぼつとしてゐた。叔母は兩手を帶の上に組んでまぶしさうにしてゐた。私は、似てゐると思つた。

 

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