記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日刊 太宰治全小説】#193「浦島さん」(『お伽草紙』)

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【冒頭】

浦島太郎という人は、丹後の水江とかいうところに実在していたようである。丹後といえば、いまの京都府の北部である。あの北海岸の某寒村に、いまもなお、太郎をまつった神社があるとかいう話を聞いた事がある。私はその辺に行ってみた事が無いけれども、人の話に依ると、何だかひどく荒涼たる海浜らしい。そこにわが浦島太郎が住んでいた。

【結句】

浦島は、それから十年、幸福な老人として生きたという。 

 

「浦島さん」(『お伽草紙』)について

新潮文庫お伽草紙』所収。
・昭和19年6月末に脱稿。
・昭和20年10月25日、筑摩書房から刊行の『お伽草紙』に収載。

お伽草紙 (新潮文庫)

 

全文掲載(「青空文庫」より) 

 

浦島さん


 浦島太郎といふ人は、丹後の水江みづのえとかいふところに實在してゐたやうである。丹後といへば、いまの京都府の北部である。あの北海岸の某寒村に、いまもなほ、太郎をまつつた神社があるとかいふ話を聞いた事がある。私はその邊に行つてみた事が無いけれども、人の話に依ると、何だかひどく荒涼たる海濱らしい。そこにわが浦島太郎が住んでゐた。もちろん、ひとり暮しをしてゐたわけではない。父も母もある。弟も妹もある。また、おほぜいの召使ひもゐる。つまり、この海岸で有名な、舊家の長男であつたわけである。舊家の長男といふものには、昔も今も一貫した或る特徴があるやうだ。趣味性、すなはち、之である。善く言へば、風流。惡く言へば、道樂。しかし、道樂とは言つても、女狂ひや酒びたりの所謂、放蕩とは大いに趣きを異にしてゐる。下品にがぶがぶ大酒を飮んで素性の惡い女にひつかかり、親兄弟の顏に泥を塗るといふやうなすさんだ放蕩者は、次男、三男に多く見掛けられるやうである。長男にはそんな野蠻性が無い。先祖傳來の所謂恆産があるものだから、おのづから恆心も生じて、なかなか禮儀正しいものである。つまり、長男の道樂は、次男三男の酒亂の如くムキなものではなく、ほんの片手間の遊びである。さうして、その遊びに依つて、舊家の長男にふさはしいゆかしさを人に認めてもらひ、みづからもその生活の品位にうつとりする事が出來たら、それでもうすべて滿足なのである。
「兄さんには冐險心が無いから、駄目ね。」とことし十六のお轉婆の妹が言ふ。「ケチだわ。」
「いや、さうぢやない。」と十八の亂暴者の弟が反對して、「男振りがよすぎるんだよ。」
 この弟は、色が黒くて、ぶをとこである。
 浦島太郎は、弟妹たちのそんな無遠慮な批評を聞いても、別に怒りもせず、ただ苦笑して、
「好奇心を爆發させるのも冐險、また、好奇心を抑制するのも、やつぱり冐險、どちらも危險さ。人には、宿命といふものがあるんだよ。」と何の事やら、わけのわからんやうな事を悟り澄ましたみたいな口調で言ひ、兩腕をうしろに組み、ひとり家を出て、あちらこちら海岸を逍遙し、

苅薦かりごも
亂れ出づ
見ゆ
海人あまの釣船

 などと、れいの風流めいた詩句の斷片を口ずさみ、
「人は、なぜお互ひ批評し合はなければ、生きて行けないのだらう。」といふ素朴の疑問に就いて鷹揚に首を振つて考へ、「砂濱の萩の花も、這ひ寄る小蟹も、入江に休む鴈も、何もこの私を批評しない。人間も、須くかくあるべきだ。人おのおの、生きる流儀を持つてゐる。その流儀を、お互ひ尊敬し合つて行く事が出來ぬものか。誰にも迷惑をかけないやうに努めて上品な暮しをしてゐるのに、それでも人は、何のかのと言ふ。うるさいものだ。」と幽かな溜息をつく。
「もし、もし、浦島さん。」とその時、足許で小さい聲。
 これが、れいの問題の龜である。別段、物識り振るわけではないが、龜にもいろいろの種類がある。淡水に住むものと、鹹水に住むものとは、おのづからその形状も異つてゐるやうだ。辨天樣の池畔などで、ぐつたり寢そべつて甲羅を干してゐるのは、あれは、いしがめとでもいふのであらうか、繪本には時々、浦島さんが、あの石龜の脊に乘つて小手をかざし、はるか龍宮を眺めてゐる繪があるやうだが、あんな龜は、海へ這入つたとたんに鹹水にむせて頓死するだらう。しかし、お祝言の時などの島臺の、れいの蓬莱山、尉姥の身邊に鶴と一緒に侍つて、鶴は千年、龜は萬年とか言はれて目出度がられてゐるのは、どうやらこの石龜のやうで、すつぽん、たいまいなどのゐる島臺はあまり見かけられない。それゆゑ、繪本の畫伯もつい、(蓬莱も龍宮も、同じ樣な場所なんだから)浦島さんの案内役も、この石龜に違ひないと思ひ込むのも無理のない事である。しかしどうも、あの爪の生えたぶざいくな手で水を掻き、海底深くもぐつて行くのは、不自然のやうに思はれる。ここはどうしても、たいまいの手のやうな廣い鰭状の手で悠々と水を掻きわけてもらはなくてはならぬところだ。しかしまた、いや決して物識り振るわけではないが、ここにもう一つ困つた問題がある。たいまいの産地は、本邦では、小笠原、琉球、臺灣などの南の諸地方だといふ話を聞いてゐる。丹後の北海岸、すなはち日本海のあの邊の濱には、たいまいは、遺憾ながら這ひ上つて來さうも無い。それでは、いつそ浦島さんを小笠原か、琉球のひとにしようかとも思つたが、しかし、浦島さんは昔から丹後の水江の人ときまつてゐるらしく、その上、丹後の北海岸には浦島神社が現存してゐるやうだから、いかにお伽噺は繪空事ゑそらごとときまつてゐるとは言へ、日本の歴史を尊重するといふ理由からでも、そんなあまりの輕々しい出鱈目は許されない。どうしても、これは、小笠原か琉球のたいまいに、日本海までおいでになつてもらはなければならぬ。しかしまた、それは困る、と生物學者のはうから抗議が出て、とかく文學者といふものには科學精神が缺如してゐる、などと輕蔑せられるのも不本意である。そこで、私は考へた。たいまいの他に、掌の鰭状を爲してゐる鹹水産の龜は、無いものか。赤海龜、とかいふものが無かつたか。十年ほど前、(私も、としをとつたものだ)沼津の海濱の宿で一夏を送つた事があつたけれども、あの時、あの濱に、甲羅の直徑五尺ちかい海龜があがつたといつて、漁師たちが騷いで、私もたしかにこの眼で見た。赤海龜、といふ名前だつたと記憶する。あれだ。あれにしよう。沼津の濱にあがつたのならば、まあ、ぐるりと日本海のはうにまはつて、丹後の濱においでになつてもらつても、そんなに生物學界の大騷ぎにはなるまいだらうと思はれる。それでも潮流がどうのかうのとか言つて騷ぐのだつたら、もう、私は知らぬ。その、おいでになるわけのない場所に出現したのが、不思議さ、ただの海龜ではあるまい、と言つて澄ます事にしよう。科學精神とかいふものも、あんまり、あてになるものぢやないんだ。定理、公理も假説ぢやないか。威張つちやいけねえ。ところで、その赤海龜は、(赤海龜といふ名は、ながつたらしくて舌にもつれるから、以下、單に龜と呼稱する)頸を伸ばして浦島さんを見上げ、
「もし、もし。」と呼び、「無理もねえよ。わかるさ。」と言つた。浦島は驚き、
「なんだ、お前。こなひだ助けてやつた龜ではないか。まだ、こんなところに、うろついてゐたのか。」
 これがつまり、子供のなぶる龜を見て、浦島さんは可哀想にと言つて買ひとり海へ放してやつたといふ、あの龜なのである。
「うろついてゐたのか、とは情無い。恨むぜ、若旦那。私は、かう見えても、あなたに御恩がへしをしたくて、あれから毎日毎晩、この濱へ來て若旦那のおいでを待つてゐたのだ。」
「それは、淺慮といふものだ。或いは、無謀とも言へるかも知れない。また子供たちに見つかつたら、どうする。こんどは、生きては歸られまい。」
「氣取つてゐやがる。また捕まへられたら、また若旦那に買つてもらふつもりさ。淺慮で惡うござんしたね。私は、どうしたつて若旦那に、もう一度お目にかかりたかつたんだから仕樣がねえ。この仕樣がねえ、といふところが惚れた弱味よ。心意氣を買つてくんな。」
 浦島は苦笑して、
「身勝手な奴だ。」と呟く。龜は聞きとがめて、
「なあんだ、若旦那。自家撞着してゐますぜ。さつきご自分で批評がきらひだなんておつしやつてた癖に、ご自分では、私の事を淺慮だの無謀だの、こんどは身勝手だの、さかんに批評してやがるぢやないか。若旦那こそ身勝手だ。私には私の生きる流儀があるんですからね。ちつとは、みとめて下さいよ。」と見事に逆襲した。
 浦島は赤面し、
「私のは批評ではない、これは、訓戒といふものだ。諷諫、といつてもよからう。諷諫、耳に逆ふもその行を利す、といふわけのものだ。」ともつともらしい事を言つてごまかした。
「氣取らなけれあ、いい人なんだが。」と龜は小聲で言ひ、「いや、もう私は、何も言はん。私のこの甲羅の上に腰かけて下さい。」
 浦島は呆れ、
「お前は、まあ、何を言ひ出すのです。私はそんな野蠻な事はきらひです。龜の甲羅に腰かけるなどは、それは狂態と言つてよからう。決して風流の仕草ではない。」
「どうだつていいぢやないか、そんな事は。こつちは、先日のお禮として、これから龍宮城へ御案内しようとしてゐるだけだ。さあ早く私の甲羅に乘つて下さい。」
「何、龍宮?」と言つて噴き出し、「おふざけでない。お前はお酒でも飮んで醉つてゐるのだらう。とんでもない事を言ひ出す。龍宮といふのは昔から、歌に詠まれ、また神仙譚として傳へられてゐますが、あれはこの世には無いもの、ね、わかりますか? あれは、古來、私たち風流人の美しい夢、あこがれ、と言つてもいいでせう。」上品すぎて、少しきざな口調になつた。
 こんどは龜のはうで噴き出して、
「たまらねえ。風流の講釋は、あとでゆつくり伺ひますから、まあ、私の言ふ事を信じてとにかく私の甲羅に乘つて下さい。あなたはどうも冐險の味を知らないからいけない。」
「おや、お前もやつぱり、うちの妹と同じ樣な失禮な事を言ふね。いかにも私は、冐險といふものはあまり好きでない。たとへば、あれは、曲藝のやうなものだ。派手なやうでも、やはり下品げぼんだ。邪道、と言つていいかも知れない。宿命に對する諦觀が無い。傳統に就いての教養が無い。めくら蛇におぢず、とでもいふやうな形だ。私ども正統の風流の士のいたく顰蹙するところのものだ。輕蔑してゐる、と言つていいかも知れない。私は先人のおだやかな道を、まつすぐに歩いて行きたい。」
「ぷ!」と龜はまた噴き出し、「その先人の道こそ、冐險の道ぢやありませんか。いや、冐險なんて下手な言葉を使ふから何か血なまぐさくて不衞生な無頼漢みたいな感じがして來るけれども、信じる力とでも言ひ直したらどうでせう。あの谷の向う側にたしかに美しい花が咲いてゐると信じ得た人だけが、何の躊躇もなく藤蔓にすがつて向う側に渡つて行きます。それを人は曲藝かと思つて、或ひは喝采し、或ひは何の人氣取りめがと顰蹙します。しかし、それは絶對に曲藝師の綱渡りとは違つてゐるのです。藤蔓にすがつて谷を渡つてゐる人は、ただ向う側の花を見たいだけなのです。自分がいま冐險をしてゐるなんて、そんな卑俗な見榮みたいなものは持つてやしないんです。なんの冐險が自慢になるものですか。ばかばかしい。信じてゐるのです。花のある事を信じ切つてゐるのです。そんな姿を、まあ、假に冐險と呼んでゐるだけです。あなたに冐險心が無いといふのは、あなたには信じる能力が無いといふ事です。信じる事は、下品げぼんですか。信じる事は、邪道ですか。どうも、あなたがた紳士は、信じない事を誇りにして生きてゐるのだから、しまつが惡いや。それはね、頭のよさぢやないんですよ。もつと卑しいものなのですよ。吝嗇といふものです。損をしたくないといふ事ばかり考へてゐる證據ですよ。御安心なさい。誰も、あなたに、ものをねだりやしませんよ。人の深切をさへ、あなたたちは素直に受取る事を知らないんだからなあ。あとのお返しが大變だ、なんてね。いや、どうも、風流の士なんてのは、ケチなもんだ。」
「ひどい事を言ふ。妹や弟にさんざん言はれて、濱へ出ると、こんどは助けてやつた龜にまで同じ樣な失敬な批評を加へられる。どうも、われとわが身に傳統の誇りを自覺してゐない奴は、好き勝手な事を言ふものだ。一種のヤケと言つてよからう。私には何でもよくわかつてゐるのだ。私の口から言ふべき事では無いが、お前たちの宿命と私の宿命には、たいへんな階級の差がある。生れた時から、もう違つてゐるのだ。私のせゐではない。それは天から與へられたものだ。しかし、お前たちには、それがよつぽど口惜くやしいらしい。何のかのと言つて、私の宿命をお前たちの宿命にまで引下げようとしてゐるが、しかし、天の配劑、人事の及ばざるところさ。お前は私を龍宮へ連れて行くなどと大法螺を吹いて、私と對等の附合ひをしようとたくらんでゐるらしいが、もういい、私には何もかもよくわかつてゐるのだから、あまり惡あがきしないでさつさと海の底のお前の住居へ歸れ。なんだ、せつかく私が助けてやつたのに、また子供たちに捕まつたら何にもならぬ。お前たちこそ、人の深切を素直に受け取る法を知らぬ。」
「えへへ、」と龜は不敵に笑ひ、「せつかく助けてやつたは恐れいる。紳士は、これだから、いやさ。自分がひとに深切を施すのは、たいへんの美徳で、さうして内心いささか報恩などを期待してゐるくせに、ひとの深切には、いやもうひどい警戒で、あいつと對等の附合ひになつてはかなはぬなどと考へてゐるんだから、げつそりしますよ。それぢや私だつて言ひますが、あなたが私を助けてくれたのは、私が龜で、さうして、いぢめてゐる相手は子供だつたからでせう。龜と子供ぢやあ、その間にはひつて仲裁しても、あとくされがありませんからね。それに、子供たちには、五文のお金でも大金ですからね。しかし、まあ、五文とは値切つたものだ。私は、も少し出すかと思つた。あなたのケチには、呆れましたよ。私のからだの値段が、たつた五文かと思つたら、私は情け無かつたね。それにしてもあの時、相手が龜と子供だつたから、あなたは五文でも出して仲裁したんだ。まあ、氣まぐれだね。しかし、あの時の相手が龜と子供でなく、まあ、たとへば荒くれた漁師が病氣の乞食をいぢめてゐたのだつたら、あなたは五文はおろか、一文だつて出さず、いや、ただ顏をしかめて急ぎ足で通り過ぎたに違ひないんだ。あなたたちは、人生の切實の姿を見せつけられるのを、とても、いやがるからね。それこそ御自身の高級な宿命に、糞尿を浴びせられたやうな氣がするらしい。あなたたちの深切は、遊びだ。享樂だ。龜だから助けたんだ。子供だからお金をやつたんだ。荒くれた漁師と病氣の乞食の場合は、まつぴらなんだ。實生活の生臭い風にお顏を撫でられるのが、とてもとても、いやなんだ。お手を、よごすのがいやなのさ。なんてね、こんなのを、聞いたふうの事、と言ふんですよ、浦島さん。あなたは怒りやしませんね。だつて、私はあなたを好きなんだもの。いや、怒るかな? あなたのやうに上流の宿命を持つてゐるお方たちは、私たち下賤のものに好かれる事をさへ不名譽だと思つてゐるらしいのだから始末がわるい。殊に私は龜なんだからな。龜に好かれたんぢやあ氣味がわるいか、しかし、まあ勘辨して下さいよ、好き嫌ひは理窟ぢや無いんだ。あなたに助けられたから好きといふわけでも無いし、あなたが風流人だから好きといふのでも無い。ただ、ふつと好きなんだ。好きだから、あなたの惡口を言つて、あなたをからかつてみたくなるんだ。これがつまり私たち爬蟲類の愛情の表現の仕方なのさ。どうもね、爬蟲類だからね、蛇の親類なんだからね、信用のないのも無理がねえよ。しかし私は、エデンの園の蛇ぢやない、はばかりながら日本の龜だ。あなたに龍宮行きをそそのかして墮落させようなんて、たくらんでゐるんぢやねえのだ。心意氣を買つてくんな。私はただ、あなたと一緒に遊びたいのだ。龍宮へ行つて遊びたいのだ。あの國には、うるさい批評なんか無いのだ。みんな、のんびり暮してゐるよ。だから、遊ぶにはもつて來いのところなんだ。私は陸にもかうして上つて來れるし、また海の底へも、もぐつて行けるから、兩方の暮しを比較して眺める事が出來るのだが、どうも、陸上の生活は騷がしい。お互ひ批評が多すぎるよ。陸上生活の會話の全部が、人の惡口か、でなければ自分の廣告だ。うんざりするよ。私もちよいちよいかうして陸に上つて來たお蔭で、陸上生活に少しかぶれて、それこそ聞いたふうの批評なんかを口にするやうになつて、どうもこれはとんでもない惡影響を受けたものだと思ひながらも、この批評癖にも、やめられぬ味がありまして、批評の無い龍宮城の暮しにもちよつと退屈を感ずるやうになつたのです。どうも、惡い癖を覺えたものです。文明病の一種ですかね。いまでは私は、自分が海の魚だか陸の蟲だか、わからなくなりましたよ。たとへばあの、鳥だか獸だかわからぬ蝙蝠のやうなものですね。悲しきさがになりました。まあ海底の異端者とでもいつたやうなところですかね。だんだん故郷の龍宮城にも居にくくなりましてね。しかし、あそこは遊ぶには、いいところだ、それだけは保證します。信じて下さい。歌と舞ひと、美食と酒の國です。あなたたち風流人には、もつて來いの國です。あなたは、さつき批評はいやだとつくづく慨歎してゐたではありませんか、龍宮には批評はありませんよ。」
 浦島は龜の驚くべき饒舌に閉口し切つてゐたが、しかし、その最後の一言に、ふと心をひかれた。
「本當になあ、そんな國があつたらなあ。」
「あれ、まだ疑つてゐやがる。私は嘘をついてゐるのぢやありません。なぜ私を信じないんです。怒りますよ。實行しないで、ただ、あこがれて溜息をついてゐるのが風流人ですか。いやらしいものだ。」
 性温厚の浦島も、そんなにまでひどく罵倒されては、このまま引下るわけにも行かなくなつた。
「それぢやまあ仕方が無い。」と苦笑しながら、「仰せに隨つて、お前の甲羅に腰かけてみるか。」
「言ふ事すべて氣にいらん。」と龜は本氣にふくれて、「腰かけてみるか、とは何事です。腰かけてみるのも、腰かけるのも、結果に於いては同じぢやないか。疑ひながら、ためしに右へ曲るのも、信じて斷乎として右へ曲るのも、その運命は同じ事です。どつちにしたつて引返すことは出來ないんだ。試みたとたんに、あなたの運命がちやんときめられてしまふのだ。人生には試みなんて、存在しないんだ。やつてみるのは、やつたのと同じだ。實にあなたたちは、往生際が惡い。引返す事が出來るものだと思つてゐる。」
「わかつたよ、わかつたよ。それでは信じて乘せてもらはう!」
「よし來た。」
 龜の甲羅に浦島が腰をおろしたとみるみる龜の脊中はひろがつて疊二枚くらゐ敷けるくらゐの大きさになり、ゆらりと動いて海にはひる。汀から一丁ほど泳いで、それから龜は、
「ちよつと眼をつぶつて。」ときびしい口調で命令し、浦島は素直に眼をつぶると夕立ちの如き音がして、身邊ほのあたたかく、春風に似て春風よりも少し重たい風が耳朶をなぶる。
「水深千尋。」と龜が言ふ。
 浦島は船醉ひに似た胸苦しさを覺えた。
「吐いてもいいか。」と眼をつぶつたまま龜に尋ねる。
「なんだ、へどを吐くのか。」と龜は以前の剽輕な口調にかへつて、「きたねえ船客だな。おや、馬鹿正直に、まだ眼をつぶつてゐやがる。これだから私は、太郎さんが好きさ。もう眼をあいてもよござんすよ。眼をあいて、よもの景色をごらんになつたら、胸の惡いのなんかすぐになほつてしまひます。」
 眼をひらけば冥茫模糊、薄みどり色の奇妙な明るさで、さうしてどこにも影がなく、ただ茫々たるものである。
「龍宮か。」と浦島は寢呆けてゐるやうな間伸びた口調で言つた。
「何を言つてるんだ。まだやつと水深千尋ぢやないか。龍宮は海底一萬尋だ。」
「へええ。」浦島は妙な聲を出した。「海つてものは、廣いもんだねえ。」
「濱育ちのくせに、山奧の猿みたいな事を言ふなよ。あなたの家の泉水よりは少し廣いさ。」
 前後左右どちらを見ても、ただ杳々茫々、脚下を覗いてもやはり際限なく薄みどり色のほの明るさが續いてゐるばかりで、上を仰いでも、これまた蒼穹に非ざる洸洋たる大洞、ふたりの話聲の他には、物音一つ無く、春風に似て春風よりも少しねばつこいやうな風が浦島の耳朶をくすぐつてゐるだけである。
 浦島はやがて遙か右上方に幽かな、一握りの灰を撒いたくらゐの汚點を認めて、
「あれは何だ。雲かね?」と龜に尋ねる。
「冗談言つちやいけねえ。海の中に雲なんか流れてゐやしねえ。」
「それぢや何だ。墨汁一滴を落したやうな感じだ。單なる塵芥かね。」
「間拔けだね、あなたは。見たらわかりさうなものだ。あれは、鯛の大群ぢやないか。」
「へえ? 微々たるものだね。あれでも二、三百匹はゐるんだらうね。」
「馬鹿だな。」と龜はせせら笑ひ、「本氣で云つてゐるのか?」
「それぢやあ、二、三千か。」
「しつかりしてくれ。まづ、ざつと五、六百萬。」
「五、六百萬? おどかしちやいけない。」
 龜はにやにや笑つて、
「あれは、鯛ぢやないんだ。海の火事だ。ひどい煙だ。あれだけの煙だと、さうさね、日本の國を二十ほど寄せ集めたくらゐの廣大な場所が燃えてゐる。」
「嘘をつけ。海の中で火が燃えるもんか。」
「淺慮、淺慮。水の中だつて酸素があるんですからね。火の燃えないわけはない。」
「ごまかすな。それは無智な詭辯だ。冗談はさて置いて、いつたいあの、ゴミのやうなものは何だ。やつぱり、鯛かね? まさか、火事ぢやあるまい。」
「いや、火事だ。いつたい、あなた、陸の世界の無數の河川が晝夜をわかたず、海にそそぎ込んでも、それでも海の水が増しもせず減りもせず、いつも同じ量をちやんと保つて居られるのは、どういふわけか、考へてみた事がありますか。海のはうだつて困りますよ。あんなにじやんじやん水を注ぎ込まれちや、處置に窮しますよ。それでまあ時々、あんな工合ひにして不用な水を燒き捨てるのですな。やあ、燃える、燃える、大火事だ。」
「なに、ちつとも煙が廣がりやしない。いつたい、あれは、何さ。さつきから、少しも動かないところを見ると、さかなの大群でもなささうだ。意地わるな冗談なんか言はないで、教へておくれ。」
「それぢや教へてあげませう。あれはね、月の影法師です。」
「また、かつぐんぢやないのか?」
「いいえ、海の底には、陸の影法師は何も寫りませんが、天體の影法師は、やはり眞上から落ちて來ますから寫るのです。月の影法師だけでなく、星辰の影法師も皆、寫ります。だから、龍宮では、その影法師をたよりに暦を作り、四季を定めます。あの月の影法師は、まんまるより少し缺けてゐますから、けふは十三夜かな?」
 眞面目な口調でさういふので、浦島も、或ひはさうかも知れぬと思つたが、しかし、何だかへんだとも思つた。でもまた、見渡す限り、ただ薄みどり色の茫洋乎たる大空洞の片隅に、幽かな黒一點をとどめてゐるものが、たとひそれは嘘にしても月の影法師だと云はれて見ると、鯛の大群や火事だと思つて眺めるよりは、風流人の浦島にとつて、はるかに趣きがあり、郷愁をそそるに足るものがあつた。
 そのうちに、あたりは異樣に暗くなり、ごうといふ凄じい音と共に烈風の如きものが押し寄せて來て、浦島はもう少しで龜の脊中からころげ落ちるところであつた。
「ちよつとまた眼をつぶつて。」と龜は嚴肅な口調で言ひ、「ここはちやうど、龍宮の入口になつてゐるのです。人間が海の底を探險しても、たいていここが海底のどんづまりだと見極めて引上げて行くのです。ここを越えて行くのは、人間では、あなたが最初で、また最後かも知れません。」
 くるりと龜はひつくりかへつたやうに、浦島には思はれた。ひつくりかへつたまま、つまり、腹を上にしたまま泳いで、さうして浦島は龜の甲羅にくつついて、宙返りを半分しかけたやうな形で、けれどもこぼれ落ちる事もなく、さかさにすつと龜と共に上の方へ進行するやうな、まことに妙な錯覺を感じたのである。
「眼をあいてごらん。」と龜に言はれた時には、しかし、もうそんな、さかさの感じは無く、當り前に龜の甲羅の上に坐つて、さうして、龜は下へ下へと泳いでゐる。
 あたりは、あけぼのの如き薄明で、脚下にぼんやり白いものが見える。どうも、何だか、山のやうだ。塔が連立してゐるやうにも見えるが、塔にしては洪大すぎる。
「あれは何だ。山か。」
「さうです。」
「龍宮の山か。」興奮のため聲が嗄れてゐた。
「さうです。」龜は、せつせと泳ぐ。
「まつ白ぢやないか。雪が降つてゐるのかしら。」
「どうも、高級な宿命を持つてゐる人は、考へる事も違ひますね。立派なものだ。海の底にも雪が降ると思つてゐるんだからね。」
「しかし、海の底にも火事があるさうだし、」と浦島は、さつきの仕返しをするつもりで、「雪だつて降るだらうさ。何せ、酸素があるんだから。」
「雪と酸素ぢや縁が遠いや。縁があつても、まづ、風と桶屋くらゐの關係ぢやないか。ばかばかしい。そんな事で私をおさへようたつて駄目さ。どうも、お上品なお方たちは、洒落が下手だ。雪はよいよい歸りはこはいつてのはどんなもんだい。あんまり、うまくもねえか。それでも酸素よりはいいだらう。さんそネツと來るか。はくそみたいだ。酸素はどうも、助からねえ。」やはり、口では龜にかなはない。
 浦島は苦笑しながら、
「ところで、あの山は、」と云ひかけると、龜はまたあざ笑ひ、
「ところで、とは大きく出たぢやないか。ところであの山は、雪が降つてゐるのではないのです。あれは眞珠の山です。」
「眞珠?」と浦島は驚き、「いや、嘘だらう。たとひ眞珠を十萬粒二十萬粒積み重ねたつて、あれくらゐの高い山にはなるまい。」
「十萬粒、二十萬粒とは、ケチな勘定の仕方だ。龍宮では眞珠を一粒二粒なんて、そんなこまかい算へ方はしませんよ。一山ひとやま二山ふたやま、とやるね。一山は約三百億粒だとかいふ話だが、誰もそれをいちいち算へた事も無い。それを約百萬山くらゐ積み重ねると、まづざつとあれくらゐの峯が出來る。眞珠の捨場には困つてゐるんだ。もとをただせば、さかなの糞だからね。」
 とかくして龍宮の正門に着く。案外に小さい。眞珠の山の裾に螢光を發してちよこんと立つてゐる。浦島は龜の甲羅から降りて、龜に案内をせられ、小腰をかがめてその正門をくぐる。あたりは薄明である。さうして森閑としてゐる。
「靜かだね。おそろしいくらゐだ。地獄ぢやあるまいね。」
「しつかりしてくれ、若旦那。」と龜は鰭でもつて浦島の脊中を叩き、「王宮といふものは皆このやうに靜かなものだよ。丹後の濱の大漁踊りみたいな馬鹿騷ぎを年中やつてゐるのが龍宮だなんて陳腐な空想をしてゐたんぢやねえのか。あはれなものだ。簡素幽邃といふのが、あなたたちの風流の極致だらうぢやないか。地獄とは、あさましい。馴れてくると、この薄暗いのが、何とも言へずやはらかく心を休めてくれる。足許に氣をつけて下さいよ。滑つてころんだりしては醜態だ。あれ、あなたはまだ草履をはいてゐるね。脱ぎなさいよ、失禮な。」
 浦島は赤面して草履を脱いだ。はだしで歩くと、足の裏がいやにぬらぬらする。
「何だこの道は。氣持が惡い。」
「道ぢやない。ここは廊下ですよ。あなたは、もう龍宮城へはひつてゐるのです。」
「さうかね。」と驚いてあたりを見廻したが、壁も柱も何も無い。薄闇が、ただ漾々と身邊に動いてゐる。
「龍宮には雨も降らなければ、雪も降りません。」と龜はへんに慈愛深げな口調で教へる。「だから、陸上の家のやうにあんな窮屈な屋根や壁を作る必要は無いのです。」
「でも、門には屋根があつたぢやないか。」
「あれは、目じるしです。門だけではなく、乙姫のお部屋にも、屋根や壁はあります。しかし、それもまた乙姫の尊嚴を維持するために作られたもので、雨露を防ぐためのものではありません。」
「そんなものかね。」と浦島はなほもけげんな顏つきで、「その乙姫の部屋といふのは、どこにあるの? 見渡したところ冥途もかくや、蕭寂たる幽境、一木一草も見當らんぢやないか。」
「どうも田舍者には困るね。でつかい建物たてものや、ごてごてした裝飾には口をあけておつたまげても、こんな幽邃の美には一向に感心しない。浦島さん、あなたの上品じやうぼんもあてにならんね。もつとも丹後の荒磯の風流人ぢや無理もないがね。傳統の教養とやらも、聞いて冷汗が出るよ。正統の風流人とはよくも言つた。かうして實地に臨んでみると、田舍者まる出しなんだから恐れいる。人眞似こまねの風流ごつこは、まあ、これからは、やめるんだね。」
 龜の毒舌は龍宮に着いたら、何だかまた一段と凄くなつて來た。
 浦島は心細さ限り無く、
「だつて、何も見えやしないんだもの。」とほとんど泣き聲で言つた。
「だから、足許に氣をつけなさいつて、言つてるぢやありませんか。この廊下は、ただの廊下ぢやないんですよ。魚の掛橋ですよ。よく氣をつけてごらんなさい。幾億といふ魚がひしとかたまつて、廊下のゆかみたいな工合ひになつてゐるのですよ。」
 浦島はぎよつとして爪先き立つた。だうりで、さつきから足の裏がぬらぬらすると思つてゐた。見ると、なるほど、大小無數の魚どもがすきまもなく脊中を並べて、身動きもせず凝つとしてゐる。
「これは、ひどい。」と浦島は、にはかにおつかなびつくりの歩調になつて、「惡い趣味だ。これがすなはち簡素幽邃の美かね。さかなの脊中を踏んづけて歩くなんて、野蠻きはまる事ぢやないか。だいいちこのさかなたちに氣の毒だ。こんな奇妙な風流は、私のやうな田舍者にはわかりませんねえ。」とさつき田舍者と言はれた鬱憤をここに於いてはらして、ちよつと溜飮がさがつた。
「いいえ、」とその時、足許で細い聲がして、「私たちはここに毎日集つて、乙姫さまの琴のに聞き惚れてゐるのです。魚の掛橋は風流のために作つてゐるのではありません。かまはず、どうかお通り下さい。」
「さうですか。」と浦島はひそかに苦笑して、「私はまた、これも龍宮の裝飾の一つかと思つて。」
「それだけぢやあるまい。」龜はすかさず口をはさんで、「ひよつとしたら、この掛橋も浦島の若旦那を歡迎のために、乙姫さまが特にさかなたちに命じて、」
「あ、これ、」と浦島は狼狽し、赤面し、「まさか、それほど私は自惚れてはゐません。でも、ね、お前はこれを廊下のゆかのかはりだなんていい加減を言ふものだから、私も、つい、その、さかなたちが踏まれて痛いかと思つてね。」
「さかなの世界には、ゆかなんてものは必要がありません。これがまあ、陸上の家にたとへたならば、廊下のゆかにでも當るかと思つて私はあんな説明をしてあげたので、決していい加減を言つたんぢやない。なに、さかなたちは痛いなんて思ふもんですか。海の底では、あなたのからだだつて紙一枚の重さくらゐしか無いのですよ。何だか、ご自分のからだが、ふはふは浮くやうな氣がするでせう?」
 さう言はれてみると、ふはふはするやうな感じがしないでもない。浦島は、重ね重ね、龜から無用の嘲弄を受けてゐるやうな氣がして、いまいましくてならぬ。
「私はもう何も信じる氣がしなくなつた。これだから私は、冐險といふものはいやなんだ。だまされたつて、それを看破する法が無いんだからね。ただもう、道案内者の言ふ事に從つてゐなければいけない。これはこんなものだと言はれたら、それつきりなんだからね。實に、冐險は人を欺く。琴のも何も、ちつとも聞えやしないぢやないか。」とつひに八つ當りの論法に變じた。
 龜は落ちついて、
「あなたはどうも陸上の平面の生活ばかりしてゐるから、目標は東西南北のいづれかにあるとばかり思つていらつしやる。しかし、海にはもう二元の方向がある。すなはち、上と下です。あなたはさつきから、乙姫の居所を前方にばかり求めていらつしやる。ここにあなたの重大なる誤謬が存在してゐたわけだ。なぜ、あなたは頭上を見ないのです。また、脚下を見ないのです。海の世界は浮いて漂つてゐるものです。さつきの正門も、また、あの眞珠の山だつて、みんな少し浮いて動いてゐるのです。あなた自身がまた上下左右にゆられてゐるので、他の物の動いてゐるのが、わからないだけなのです。あなたは、さつきからずゐぶん前方にお進みになつたやうに思つていらつしやるかも知れないけれど、まあ、同じ位置ですね。かへつて後退してゐるかも知れない。いまは潮の關係で、ずんずんうしろに流されてゐます。さうして、さつきから見ると、百尋くらゐみんな一緒に上方に浮きました。まあ、とにかくこの魚の掛橋をもう少し渡つてみませう。ほうら、魚の脊中もだんだんまばらになつて來たでせう。足を踏みはづさないやうに氣をつけて下さいよ。なに、踏みはづしたつて、すとんと落下する氣づかひはありませんがね、何せ、あなたも紙一枚の重さなんだから。つまり、この橋は斷橋なのです。この廊下を渡つても前方には何も無い。しかし、脚下を見よです。おい、さかなども、少しどけ、若旦那が乙姫さまに逢ひに行くのだ。こいつらは、かうして龍宮城の本丸の天蓋をなしてゐるやうなものです。海月くらげなす漂へる天蓋、とでも言つたら、あなたたち風流人は喜びますかね。」
 さかなたちは、靜かに無言で左右に散る。かすかに、琴の音が脚下に聞える。日本の琴の音によく似てゐるが、しかしあれほど強くはなく、もつと柔かで、はかなく、さうしてへんに嫋々たる餘韻がある。菊の露。薄ごろも。夕空。きぬた。浮寢。きぎす。どれでもない。風流人の浦島にも、何だか見當のつかぬ可憐な、たよりない、けれども陸上では聞く事の出來ぬ氣高いさびしさが、その底に流れてゐる。
「不思議な曲ですね。あれは、何といふ曲ですか。」
 龜もちよつと耳をすまして聞いて、
「聖諦。」と一言、答へた。
「せいてい?」
「神聖の聖の字に、あきらめ。」
「ああ、さう、聖諦。」と呟いて浦島は、はじめて海の底の龍宮の生活に、自分たちの趣味と段違ひの崇高なものを感得した。いかにも自分の上品じやうぼんなどは、あてにならぬ。傳統の教養だの、正統の風流だのと自分が云ふのを聞いて龜が冷汗をかくのも無理がない。自分の風流は人眞似こまねだ。田舍の山猿にちがひない。
「これからは、お前の言ふ事は何でも信じるよ。聖諦。なるほどなあ。」浦島は呆然とつつ立つたまま、なほもその不思議な聖諦の曲に耳を傾けた。
「さあ、ここから飛び降りますよ。あぶない事はありません。かうして兩腕をひろげて一歩足を踏み出すと、ゆらゆらと氣持よく落下します。この魚の掛橋の盡きたところから眞つすぐに降りて行くと、ちやうど龍宮の正殿の階段の前に着くのです。さあ、何をぼんやりしてゐるのです。飛び降りますよ、いいですか。」
 龜はゆらゆら沈下する。浦島も氣をとり直して、兩腕をひろげ、魚の掛橋の外に一歩、足を踏み出すと、すつと下に氣持よく吸ひ込まれ、頬が微風に吹かれてゐるやうに涼しく、やがてあたりが、緑の樹蔭のやうな色合ひになり、琴の音もいよいよ近くに聞えて來たと思ふうちに、龜と並んで正殿の階段の前に立つてゐた。階段とは言つても、段々が一つづつ分明になつてゐるわけではなく、灰色の鈍く光る小さい珠の敷きつめられたゆるい傾斜の坂のやうなものである。
「これも眞珠かね。」と浦島は小聲で尋ねる。
 龜は、あはれむやうな眼で浦島の顏を見て、
「珠を見れば、何でも眞珠だ。眞珠は、捨てられて、あんなに高い山になつてゐるぢやありませんか。まあ、ちよつとその珠を手で掬つてごらんなさい。」
 浦島は言はれたとほりに兩手で珠を掬はうとすると、ひやりと冷たい。
「あ、あられだ!」
「冗談ぢやない。ついでにそれを口の中に入れてごらん。」
 浦島は素直に、その氷のやうに冷たい珠を、五つ六つ頬張つた。
「うまい。」
「さうでせう? これは、海の櫻桃です。これを食べると三百年間、老いる事が無いのです。」
「さうか、いくつ食べても同じ事か。」と風流人の浦島も、ついたしなみを忘れて、もつと掬つて食べようといふ氣勢を示した。「私はどうも、老醜といふものがきらひでね。死ぬのは、そんなにこはくもないけれど、どうも老醜だけは私の趣味に合はない。もつと、食べて見ようかしら。」
「笑つてゐますよ。上をごらんなさい。乙姫さまがお迎へに出てゐます。やあ、けふはまた一段とお綺麗。」
 櫻桃の坂の盡きるところに、青い薄布を身にまとつた小柄の女性が幽かに笑ひながら立つてゐる。薄布をとほして眞白い肌が見える。浦島はあわてて眼をそらし、
「乙姫か。」と龜に囁く。浦島の顏は眞赤である。
「きまつてゐるぢやありませんか。何をへどもどしてゐるのです。さあ、早く御挨拶をなさい。」
 浦島はいよいよまごつき、
「でも、何と言つたらいいんだい。私のやうなものが名乘りを擧げてみたつて、どうにもならんし、どだいどうも、私たちの訪問は唐突だよ。意味が無いよ。歸らうよ。」と上級の宿命の筈の浦島も、乙姫の前では、すつかり卑屈になつて逃支度をはじめた。
「乙姫さまは、あなたの事なんか、もうとうにご存じですよ。階前萬里といふぢやありませんか。觀念して、ただていねいにお辭儀しておけばいいのです。また、たとひ乙姫さまが、あなたの事を何もご存じ無くつたつて、乙姫さまは警戒なんてケチくさい事はてんで知らないお方ですから、何も斟酌には及びません。遊びに來ましたよ、と言へばいい。」
「まさか、そんな失禮な。ああ、笑つていらつしやる。とにかく、お辭儀をしよう。」
 浦島は、兩手が自分の足の爪先にとどくほどのていねいなお辭儀をした。
 龜は、はらはらして、
「ていねいすぎる。いやになるね。あなたは私の恩人ぢやないか。も少し威嚴のある態度を示して下さいよ。へたへたと最敬禮なんかして、上品じやうぼんもくそもあつたものぢやない。それ、乙姫さまのお招きだ。行きませう。さあ、ちやんと胸を張つて、おれは日本一の好男子で、さうして、最上級の風流人だといふやうな顏をして威張つて歩くのですよ。あなたは私たちに對してはひどく高慢な乙な構へ方をするけれども、女には、からきし意氣地が無いんですね。」
「いやいや、高貴なお方には、それ相當の禮を盡さなければ。」と緊張のあまり聲がしやがれて、足がもつれ、よろよろと千鳥足で階段を昇り、見渡すと、そこは萬疊敷とでも云つていいくらゐの廣い座敷になつてゐる。いや、座敷といふよりは、庭園と言つた方が適切かも知れない。どこから射して來るのか樹蔭のやうな緑色の光線を受けて、模糊と霞んでゐるその萬疊敷とでも言ふべき廣場には、やはり霰のやうな小粒の珠が敷きつめられ、ところどころに黒い岩が秩序無くころがつてゐて、さうしてそれつきりである。屋根はもちろん、柱一本も無く、見渡す限り廢墟と言つていいくらゐの荒涼たる大廣場である。氣をつけて見ると、それでも小粒の珠のすきまから、ちよいちよい紫色の小さい花が顏を出してゐるのが見えて、それがまた、かへつて淋しさを添へ、これが幽邃の極といふのかも知れないが、しかし、よくもまあ、こんな心細いやうな場所で生活が出來るものだ、と感歎の溜息に似たものがふうと出て、さらにまた思ひをあらたにして乙姫の顏をそつと盜み見た。
 乙姫は無言で、くるりとうしろを向き、そろそろと歩き出す。その時はじめて氣がついたのであるが、乙姫の背後には、めだかよりも、もつと小さい金色の魚が無數にかたまつてぴらぴら泳いで、乙姫が歩けばそのとほりに從つて移動し、そのさまは金色の雨がたえず乙姫の身邊に降り注いでゐるやうにも見えて、さすがにこの世のものならぬ貴い氣配が感ぜられた。
 乙姫は身にまとつてゐる薄布をなびかせ裸足で歩いてゐるが、よく見ると、その青白い小さい足は、下の小粒の珠を踏んではゐない。足の裏と珠との間がほんのわづかいてゐる。あの足の裏は、いまだいちども、ものを踏んだ事が無いのかも知れぬ。生れたばかりの赤ん坊の足の裏と同じやうにやはらかくて綺麗なのに違ひない、と思へば、これといふ目立つた粉飾一つも施してゐない乙姫のからだが、いよいよ眞の氣品を有してゐるものの如く、奧ゆかしく思はれて來た。龍宮に來てみてよかつた、と次第にこのたびの冐險に感謝したいやうな氣持が起つて來て、うつとり乙姫のあとについて歩いてゐると、
「どうです、惡くないでせう。」と龜は、低く浦島の耳元に囁き、鰭でもつて浦島の横腹をちよこちよことくすぐつた。
「ああ、なに、」と浦島は狼狽して、「この花は、この紫の花は綺麗だね。」と別の事を言つた。
「これですか。」と龜はつまらなささうに、「これは海の櫻桃の花です。ちよつと菫に似てゐますね。この花びらを食べると、それは氣持よく醉ひますよ。龍宮のお酒です。それから、あの岩のやうなもの、あれは藻です。何萬年も經つてゐるので、こんな岩みたいにかたまつてゐますが、でも、羊羹よりも柔いくらゐのものです。あれは、陸上のどんなごちそうよりもおいしいですよ。岩によつて一つづつみんな味はひが違ひます。龍宮ではこの藻を食べて、花びらで醉ひ、のどが乾けば櫻桃を含み、乙姫さまの琴の音に聞き惚れ、生きてゐる花吹雪のやうな小魚たちの舞ひを眺めて暮してゐるのです。どうですか、龍宮は歌と舞ひと、美食と酒の國だと私はお誘ひする時にあなたに申し上げた筈ですが、どうですか、御想像と違ひましたか?」
 浦島は答へず、深刻な苦笑をした。
「わかつてゐますよ。あなたの御想像は、まあドンヂヤンドンヂヤンの大騷ぎで、大きなお皿に鯛のさしみやら鮪のさしみ、赤い着物を着た娘つ子の手踊り、さうしてやたらに金銀珊瑚綾錦のたぐひが、――」
「まさか、」と浦島もさすがに少し不愉快さうな顏になり、「私はそれほど卑俗な男ではありません。しかし、私は自分を孤獨な男だと思つてゐた事などありましたが、ここへ來て眞に孤獨なお方にお目にかかり、私のいままでの氣取つた生活が恥かしくてならないのです。」
「あのかたの事ですか?」と龜は小聲で言つて無作法に乙姫のはうを顎でしやくり、「あのかたは、何も孤獨ぢやありませんよ。平氣なものです。野心があるから、孤獨なんて事を氣に病むので、他の世界の事なんかてんで問題にしてなかつたら、百年千年ひとりでゐたつて樂なものです。それこそ、れいの批評が氣にならない者にとつてはね。ところで、あなたは、どこへ行かうてんですか?」
「いや、なに、べつに、」と浦島は、意外の問に驚き、「だつて、お前、あのお方が、――」
「乙姫はべつにあなたを、どこかへ案内しようとしてゐるわけぢやありません。あのかたは、もう、あなたの事なんか忘れてゐますよ。あのかたは、これからご自分のお部屋に歸るのでせう。しつかりして下さい。ここが龍宮なんです、この場所が。ほかにどこも、ご案内したいやうなところもありません。まあ、ここで、お好きなやうにして遊んでゐるのですね。これだけぢや、不足なんですか。」
「いぢめないでくれよ。私は、いつたいどうしたらいいんだ。」と浦島はべそをかいて、「だつて、あのお方がお迎へに出て下さつてゐたので、べつに私は自惚れたわけぢやないけど、あのお方のあとについて行くのが禮儀だと思つたんだよ。べつに不足だなんて考へてやしないよ。それだのに私に何か、別ないやらしい下心でもあるみたいなへんな言ひ方をするんだもの。お前は、じつさい意地が惡いよ。ひどいぢやないか。私は生れてから、こんなに體裁ていさいの惡い思ひをした事は無いよ。本當にひどいよ。」
「そんなに氣にしちやいけない。乙姫は、おつとりしたものです。そりや、陸上からはるばるたづねて來た珍客ですもの、それにあなたは、私の恩人ですからね、お出迎へするのは當り前ですよ。さらにまた、あなたは、氣持はさつぱりしてゐるし、男つぷりは佳し、と來てゐるから、いや、これは冗談ですよ、へんにまた自惚れられちやかなはない。とにかく、乙姫はご自分の家へやつて來た珍客を階段まで出迎へて、さうして安心して、あとはあなたのお氣の向くままに勝手に幾日でもここで遊んでいらつしやるやうにと、素知らぬ振りしてああしてご自分のお部屋に引上げて行くといふわけのものぢやないんですかね。實は私たちにも、乙姫の考へてゐる事はあまりよく判らないのです。何せ、どうにも、おつとりしてゐますから。」
「いや、さう言はれてみると、私には、少し判りさうな氣がして來たよ。お前の推察も、だいたいに於いて間違ひはなささうだ。つまり、こんなのが、眞の貴人の接待法なのかも知れない。客を迎へて客を忘れる。しかも客の身邊には美酒珍味が全く無雜作に並べ置かれてある。歌舞音曲も別段客をもてなさうといふ露骨な意圖でもつて行はれるのではない。乙姫は誰に聞かせようといふ心も無くて琴をひく。魚どもは誰に見せようといふ衒ひも無く自由に嬉々として舞ひ遊ぶ。客の讚辭をあてにしない。客もまた、それにことさらに留意して感服したやうな顏つきをする必要も無い。寢ころんで知らん振りしてゐたつて構はないわけです。主人はもう客の事なんか忘れてゐるのだ。しかも、自由に振舞つてよいといふ許可は與へられてゐるのだ。食ひたければ食ふし、食ひたくなければ食はなくていいんだ。醉つて夢うつつに琴の音を聞いてゐたつて、敢へて失禮には當らぬわけだ。ああ、客を接待するには、すべからくこのやうにありたい。何のかのと、ろくでも無い料理をうるさくすすめて、くだらないお世辭を交換し、をかしくもないのに、矢鱈におほほと笑ひ、まあ! なんて珍らしくもない話に大仰に驚いて見せたり、一から十まで嘘ばかりの社交を行ひ、天晴れ上流の客あしらひをしてゐるつもりのケチくさい小利口の大馬鹿野郎どもに、この龍宮の鷹揚なもてなし振りを見せてやりたい。あいつらはただ、自分の品位を落しやしないか、それだけを氣にしてわくわくして、さうして妙に客を警戒して、ひとりでからまはりして、實意なんてものは爪の垢ほども持つてやしないんだ。なんだい、ありや。お酒一ぱいにも、飮ませてやつたぞ、いただきましたぞ、といふやうな證文を取かはしてゐたんぢや、かなはない。」
「さう、その調子。」と龜は大喜びで、「しかし、あまりそんなに興奮して心臟麻痺なんか起されても困る。ま、この藻の岩に腰をおろして、櫻桃の酒でも飮むさ。櫻桃の花びらだけでは、はじめての人には少し匂ひが強すぎるかも知れないから、櫻桃五、六粒と一緒に舌の上に載せると、しゆつと溶けて適當に爽涼のお酒になります。まぜ合せの仕方一つで、いろんな味に變化しますからまあ、ご自分で工夫して、お好きなやうなお酒を作つてお飮みなさい。」
 浦島はいま、ちよつと強いお酒を飮みたかつた。花びら三枚に、櫻桃二粒を添へて舌端に載せるとたちまち口の中一ぱいの美酒、含んでゐるだけでも、うつとりする。輕快に喉をくすぐりながら通過して、體内にぽつとあかりがともつたやうな嬉しい氣持になる。
「これはいい。まさに、憂ひの玉帚だ。」
「憂ひ?」と龜はさつそく聞きとがめ、「何か憂鬱な事でもあるのですか?」
「いや、べつに、そんなわけではないが、あははは、」とてれ隱しに無理に笑ひ、それから、ほつと小さな溜息をつき、ちらと乙姫のうしろ姿を眺める。
 乙姫は、ひとりで默つて歩いてゐる。薄みどり色の光線を浴び、すきとほるやうなかぐはしい海草のやうにも見え、ゆらゆら搖蕩しながらたつたひとりで歩いてゐる。
「どこへ行くんだらう。」と思はず呟く。
「お部屋でせう。」龜は、きまりきつてゐるといふやうな顏つきで、澄まして答へる。
「さつきから、お前はお部屋お部屋と言つてゐるが、そのお部屋はいつたい、どこにあるの? 何も、どこにも、見えやしないぢやないか。」
 見渡すかぎり平坦の、曠野と言つていいくらゐの鈍く光る大廣間で、御殿ごてんらしいものの影は、どこにも無い。
「ずつと向う、乙姫の歩いて行く方角の、ずつと向うに、何か見えませんか。」と龜に言はれて、浦島は、眉をひそめてその方向を凝視し、
「ああ、さう云はれて見ると、何かあるやうだね。」
 ほとんど一里も先と思はれるほどの遠方、幽潭の底を覗いた時のやうな何やら朦朧と烟つてたゆたうてゐるあたりに、小さな純白の水中花みたいなものが見える。
「あれか。小さいものだね。」
「乙姫がひとりおやすみになるのに、大きい御殿なんか要らないぢやありませんか。」
「さう言へば、まあ、さうだが、」と浦島はさらに櫻桃の酒を調合して飮み、「あのお方は、何かね、いつもあんなに無口なのかね。」
「ええ、さうです。言葉といふものは、生きてゐる事の不安から、芽ばえて來たものぢやないですかね。腐つた土から赤い毒きのこが生えて出るやうに、生命の不安が言葉を醗酵させてゐるのぢやないのですか。よろこびの言葉もあるにはありますが、それにさへなほ、いやらしい工夫がほどこされてゐるぢやありませんか。人間は、よろこびの中にさへ、不安を感じてゐるのでせうかね。人間の言葉はみんな工夫です。氣取つたものです。不安の無いところには、何もそんな、いやらしい工夫など必要ないでせう。私は乙姫が、ものを言つたのを聞いた事が無い。しかし、また、默つてゐる人によくありがちの、皮裏の陽秋といふんですか、そんな胸中ひそかに辛辣の觀察を行ふなんて事も、乙姫は決してなさらない。何も考へてやしないんです。ただああして幽かに笑つて琴をかき鳴らしたり、またこの廣間をふらふら歩きまはつて、櫻桃の花びらを口に含んだりして遊んでゐます。實に、のんびりしたものです。」
「さうかね。あのお方も、やつぱりこの櫻桃の酒を飮むかね。まつたく、これは、いいからなあ。これさへあれば、何も要らない。もつといただいてもいいかしら。」
「ええ、どうぞ。ここへ來て遠慮なんかするのは馬鹿げてゐます。あなたは無限に許されてゐるのです。ついでに何か食べてみたらどうです。目に見える岩すべて珍味です。油つこいのがいいですか。輕くちよつと酸つぱいやうなのがいいですか。どんな味のものでもありますよ。」
「ああ、琴の音が聞える。寢ころんで聞いてもいいんだらうね。」無限に許されてゐるといふ思想は、實のところ生れてはじめてのものであつた。浦島は、風流の身だしなみも何も忘れて、仰向にながながと寢そべり、「ああ、あ、醉つて寢ころぶのは、いい氣持だ。ついでに何か、食べてみようかな。雉の燒肉みたいな味の藻があるかね。」
「あります。」
「それと、それから、桑の實のやうな味の藻は?」
「あるでせう。しかし、あなたも、妙に野蠻なものを食べるのですね。」
「本性暴露さ。私は田舍者だよ。」と言葉つきさへ、どこやら變つて來て、「これが風流の極致だつてさ。」
 眼を擧げて見ると、はるか上方に、魚の天蓋がのどかに浮び漂つてゐるのが、青く霞んで見える。とたちまち、その天蓋から一群の魚がむらむらとわかれて、おのおの銀鱗を光らせて滿天に雪の降り亂れるやうに舞ひ遊ぶ。
 龍宮には夜も晝も無い。いつも五月の朝の如く爽やかで、樹蔭のやうな緑の光線で一ぱいで、浦島は幾日をここで過したか、見當もつかぬ。その間、浦島は、それこそ無限に許されてゐた。浦島は、乙姫のお部屋にも、はひつた。乙姫は何の嫌惡も示さなかつた。ただ、幽かに笑つてゐる。
 さうして、浦島は、やがて飽きた。許される事に飽きたのかも知れない。陸上の貧しい生活が戀しくなつた。お互ひ他人の批評を氣にして、泣いたり怒つたり、ケチにこそこそ暮してゐる陸上の人たちが、たまらなく可憐で、さうして、何だか美しいもののやうにさへ思はれて來た。
 浦島は乙姫に向つて、さやうなら、と言つた。この突然の暇乞ひもまた、無言の微笑でもつて許された。つまり、何でも許された。始めから終りまで、許された。乙姫は、龍宮の階段まで見送りに出て、默つて小さい貝殼を差し出す。まばゆい五彩の光を放つてゐるきつちり合つた二枚貝である。これが所謂、龍宮のお土産の玉手箱であつた。
 行きはよいよい歸りはこはい。また龜の脊に乘つて、浦島はぼんやり龍宮から離れた。へんな憂愁が浦島の胸中に湧いて出る。ああ、お禮を言ふのを忘れた。あんないいところは、他に無いのだ。ああ、いつまでも、あそこにゐたはうがよかつた。しかし、私は陸上の人間だ。どんなに安樂な暮しをしてゐても、自分の家が、自分の里が、自分の頭の片隅にこびりついて離れぬ。美酒に醉つて眠つても、夢は、故郷の夢なんだからなあ。げつそりするよ。私には、あんないいところで遊ぶ資格は無かつた。
「わあ、どうも、いかん。淋しいわい。」と浦島はやけくそに似た大きい聲で叫んだ。「なんのわけだかわからないが、どうも、いかん。おい、龜。何とか、また景氣のいい惡口でも言つてくれ。お前は、さつきから、何も一ことも、ものを言はんぢやないか。」
 龜は先刻から、ただ默々と鰭を動かしてゐるばかり。
「怒つてゐるのかね。私が龍宮から食ひ逃げ同樣で歸るのを、お前は、怒つてゐるのかね。」
「ひがんぢやいけねえ。陸上の人はこれだからいやさ。歸りたくなつたら歸るさ。どうでも、あなたの氣の向いたやうに、とはじめから何度も言つてるぢやないか。」
「でも、何だかお前、元氣が無いぢやないか。」
「さう言ふあなたこそ、妙にしよんぼりしてゐるぜ。私や、どうも、お迎へはいいけれど、このお見送りつてやつは苦手だ。」
「行きはよいよい、かね。」
「洒落どころぢやありません。どうも、このお見送りつてやつは、氣のはずまねえものだ。溜息ばかり出て、何を言つてもしらじらしく、いつそもう、この邊でお別れしてしまひたいやうなものだ。」
「やつぱり、お前も淋しいのかね。」浦島は、ほろりとして、「こんどはずゐぶん、お前のお世話にもなつたね。お禮を言ひます。」
 龜は返事をせず、なんだそんなこと、と言はぬばかりにちよつと甲羅をゆすつて、さうしてただ、せつせと泳ぐ。
「あのお方は、やつぱりあそこで、たつたひとりで遊んでゐるのだらうね。」浦島は、いかにもやるせないやうな溜息をついて、「私にこんな綺麗な貝をくれたが、これはまさか、食べるものぢやないだらうな。」
 龜はくすくす笑ひ出し、
「ちよつと龍宮にゐるうちに、あなたも、ばかに食ひ意地が張つて來ましたね。それだけは、食べるものでは無いやうです。私にもよくわかりませんが、その貝の中に何かはひつてゐるのぢやないんですか?」と龜は、ここに於いて、かのエデンの園の蛇の如く、何やら人の好奇心をそそるやうな妙な事を、ふいと言つた。やはりこれも、爬蟲類共通の宿命なのであらうか。いやいや、さうきめてしまふのは、この善良の龜に對して氣の毒だ。龜自身も以前、浦島に向つて、「しかし、私は、エデンの園の蛇ではない、はばかりながら日本の龜だ。」と豪語してゐる。信じてやらなけりや可哀想だ。それにまた、この龜のこれまでの浦島に對する態度から判斷しても、決してかのエデンの園の蛇の如く、佞奸邪智にして、恐ろしい破滅の誘惑を囁くやうな性質のものでは無いやうに思はれる。それどころか、所謂さつきの鯉の吹流しの、愛すべき多辯家に過ぎないのではないかと思はれる。つまり、何の惡氣も無かつたのだ。私は、そのやうに解したい。龜は、さらにまた言葉をつづけて、「でも、その貝は、あけて見ないはうがいいかも知れません。きつとその中には龍宮の精氣みたいなものがこもつてゐるのでせうから。それを陸上であけたら、奇怪な蜃氣樓が立ち昇り、あなたを發狂させたり何かするかも知れないし、或ひはまた、海の潮が噴出して大洪水を起す事なども無いとは限らないし、とにかく海底の酸素を陸上に放散させては、どうせ、ろくな事が起らないやうな氣がしますよ。」と眞面目に言ふ。
 浦島は龜の深切を信じた。
「さうかも知れないね。あんな高貴な龍宮の雰圍氣が、もしこの貝の中にひめられてあるとしたら、陸上の俗惡な空氣にふれた時には、戸惑ひして、大爆發でも起すかも知れない。まあ、これはかうして、いつまでも大事に、家の寶として保存して置くことにしよう。」
 既に海上に浮ぶ。太陽の光がまぶしい。ふるさとの濱が見える。浦島はいまは一刻も早く、わが家に駈け込み、父母弟妹、また大勢の使用人たちを集めて、つぶさに龍宮の模樣を物語り、冐險とは信じる力だ、この世の風流なんてものはケチくさい猿眞似だ、正統といふのは、あれは通俗の別稱さ、わかるかね、眞の上品じやうぼんといふのは聖諦の境地さ、ただのあきらめぢや無いぜ、わかるかね、批評なんてうるさいものは無いんだ、無限に許されてゐるんだ、さうしてただ微笑があるだけだ、わかるかね、客を忘れてゐるのだ、わかるまい、などとそれこそ、たつたいま聞いて來たふうの新知識を、めちや苦茶に振りまはして、さうしてあの現實主義の弟のやつが、もし少しでも疑ふやうな顏つきを見せた時には、すなはちこの龍宮の美しいお土産をあいつの鼻先につきつけて、ぎやふんと參らせてやらう、と意氣込み、龜に別離の挨拶するのも忘れて汀に飛び降り、あたふたと生家に向つて急けば、

ドウシタンデセウ モトノサト
ドウシタンデセウ モトノイヘ
ミワタスカギリ アレノハラ
ヒトノカゲナク ミチモナク
マツフクカゼノ オトバカリ

 といふ段どりになるのである。浦島は、さんざん迷つた末に、たうとうかの龍宮のお土産の貝殼をあけて見るといふ事になるのであるが、これに就いて、あの龜が責任を負ふ必要はないやうに思はれる。「あけてはならぬ」と言はれると、なほ、あけて見たい誘惑を感ずると云ふ人間の弱點は、この浦島の物語に限らず、ギリシヤ神話のパンドラの箱の物語に於いても、それと同樣の心理が取りあつかはれてゐるやうだ。しかし、あのパンドラの箱の場合は、はじめから神々の復讐が企圖せられてゐたのである。「あけてはならぬ」といふ一言が、パンドラの好奇心を刺戟して、必ずや後日パンドラが、その箱をあけて見るにちがひないといふ意地惡い豫想のもとに「あけるな」といふ禁制を宣告したのである。それに引きかへ、われわれの善良な龜は、まつたくの深切から浦島にそれを言つたのだ。あの時の龜の、餘念なささうな言ひ方に依つても、それは信じていいと思ふ。あの龜は正直者だ。あの龜には責任が無い。それは私も確信をもつて證言できるのであるが、さて、もう一つ、ここに妙な腑に落ちない問題が殘つてゐる。浦島は、その龍宮のお土産をあけて見ると、中から白い煙が立ち昇り、たちまち彼は三百歳だかのお爺さんになつて、だから、あけなきやよかつたのに、つまらない事になつた、お氣の毒に、などといふところでおしまひになるのが、一般に傳へられてゐる「浦島さん」物語であるが、私はそれに就いて深い疑念にとらはれてゐる。するとこの龍宮のお土産も、あの人間のもろもろのわざはひの種の充滿したパンドラの箱の如く、乙姫の深刻な復讐、或ひは懲罰の意を祕めた贈り物であつたのか。あのやうに何も言はず、ただ微笑して無限に許してゐるやうな素振りを見せながらも、皮裏にひそかに峻酷の陽秋を藏してゐて、浦島のわがままを一つも許さず、嚴罰を課する意味であの貝殼を與へたのか。いや、それほど極端の悲觀論を稱へずとも、或ひは、貴人といふものは、しばしば、むごい嘲弄を平氣でするものであるから、乙姫もまつたく無邪氣の惡戲のつもりで、こんなひとのわるい冗談をやらかしたのか。いづれにしても、あの眞の上品じやうぼんの筈の乙姫が、こんな始末の惡いお土産を與へたとは、不可解きはまる事である。パンドラの箱の中には、疾病、恐怖、怨恨、哀愁、疑惑、嫉妬、憤怒、憎惡、呪咀、焦慮、後悔、卑屈、貪慾、虚僞、怠惰、暴行などのあらゆる不吉の妖魔がはひつてゐて、パンドラがその箱をそつとあけると同時に、羽蟻の大群の如く一齊に飛び出し、この世の隅から隅まで殘るくまなくはびこるに到つたといふ事になつてゐるが、しかし、呆然たるパンドラが、うなだれて、そのからつぽの箱の底を眺めた時、その底の闇に一點の星のやうに輝いてゐる小さな寶石を見つけたといふではないか。さうして、その寶石には、なんと、「希望」といふ字がしたためられてゐたといふ。これに依つて、パンドラの蒼白の頬にも、幽かに血の色がのぼつたといふ。それ以來、人間は、いかなる苦痛の妖魔に襲はれても、この「希望」に依つて、勇氣を得、困難に堪へ忍ぶ事が出來るやうになつたといふ。それに較べて、この龍宮のお土産は、愛嬌も何もない。ただ、煙だ。さうして、たちまち三百歳のお爺さんである。よしんば、その「希望」の星が貝殼の底に殘つてゐたとしたところで、浦島さんは既に三百歳である。三百歳のお爺さんに「希望」を與へたつて、それは惡ふざけに似てゐる。どだい、無理だ。それでは、ここで一つ、れいの「聖諦」を與へてみたらどうか。しかし、相手は三百歳である。いまさら、そんな氣取つたきざつたらしいものを與へなくたつて、人間三百歳にもなりや、いい加減、諦めてゐるよ。結局、何もかも駄目である。救濟の手の差伸べやうが無い。どうにも、これはひどいお土産をもらつて來たものだ。しかし、ここで匙を投げたら、或いは、日本のお伽噺はギリシヤ神話よりも殘酷である。などと外國人に言はれるかも知れない。それはいかにも無念な事だ。また、あのなつかしい龍宮の名譽にかけても、何とかして、この不可解のお土産に、貴い意義を發見したいものである。いかに龍宮の數日が陸上の數百年に當るとは言へ、何もその歳月を、ややこしいお土産などにして浦島に持たせてよこさなくてもよささうなものだ。浦島が龍宮から海の上に浮かび出たとたんに、白髮の三百歳に變化したといふのなら、まだ話がわかる。また、乙姫のお情で、浦島をいつまでも青年にして置くつもりだつたのならば、そんな危險な「あけてはならぬ」品物を、わざわざ浦島に持たせてよこす必要は無い。龍宮のどこかの隅に捨てて置いたつていいぢやないか。それとも、お前のたれた糞尿は、お前が持つて歸つたらいいだらう、といふ意味なのだらうか。それでは、何だかひどく下等な「面當つらあて」みたいだ。まさかあの聖諦の乙姫が、そんな長屋の夫婦喧譁みたいな事をたくらむとは考へられない。どうも、わからぬ。私は、それに就いて永い間、思案した。さうして、このごろに到つて、やうやく少しわかつて來たやうな氣がして來たのである。
 つまり、私たちは、浦島の三百歳が、浦島にとつて不幸であつたといふ先入感に依つて誤られて來たのである。繪本にも、浦島は三百歳になつて、それから、「實に、悲慘な身の上になつたものさ。氣の毒だ。」などといふやうな事は書かれてゐない。

タチマチ シラガノ オヂイサン

 それでおしまひである。氣の毒だ、馬鹿だ、などといふのは、私たち俗人の勝手な盲斷に過ぎない。三百歳になつたのは、浦島にとつて、決して不幸ではなかつたのだ。
 貝殼の底に、「希望」の星があつて、それで救はれたなんてのは、考へてみるとちよつと少女趣味で、こしらへものの感じが無くもないやうな氣もするが、浦島は、立ち昇る煙それ自體で救はれてゐるのである。貝殼の底には、何も殘つてゐなくたつていい。そんなものは問題でないのだ。曰く、

年月は、人間の救ひである。
忘卻は、人間の救ひである。

 龍宮の高貴なもてなしも、この素張らしいお土産に依つて、まさに最高潮に達した觀がある。思ひ出は、遠くへだたるほど美しいといふではないか。しかも、その三百年の招來をさへ、浦島自身の氣分にゆだねた。ここに到つても、浦島は、乙姫から無限の許可を得てゐたのである。淋しくなかつたら、浦島は、貝殼をあけて見るやうな事はしないだらう。どう仕樣も無く、この貝殼一つに救ひを求めた時には、あけるかも知れない。あけたら、たちまち三百年の年月と、忘却である。これ以上の説明はよさう。日本のお伽噺には、このやうな深い慈悲がある。
 浦島は、それから十年、幸福な老人として生きたといふ。

太宰の意思を尊重するという観点から、1945年10月に筑摩書房から刊行された初版本ではなく、翌1946年2月に筑摩書房から刊行された再版本を底本としました。判断の根拠については、下記事をご参照下さい。

 

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