記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日刊 太宰治全小説】#197「パンドラの匣」二

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【冒頭】

きょうはお約束どおり、僕のいまいるこの健康道場の様子をお知らせしましょう。

【結句】

まずは当道場の概説くだんの如しというところだ。失敬。
 九月三日 

 

パンドラの匣」について

新潮文庫パンドラの匣』所収。
・昭和20年11月9日頃に脱稿。
・昭和20年10月22日付「河北新報」と「東奥日報」に連載開始。「東奥日報」は10月29日付「パンドラの匣」第八回で連載中断。「河北新報」は翌21年1月7日付まで、64回連載、完結。


パンドラの匣 (新潮文庫)

 

全文掲載(「青空文庫」より)  

 
 

健康道場




 きょうはお約束どおり、僕のいまいるこの健康道場の様子をお知らせしましょう。E市からバスに乗って約一時間、小梅橋というところで降りて、そこから他のバスに乗りかえるのだが、でも、その小梅橋からはもう道場までいくらも無いんだ。乗りかえのバスを待っているより、歩いたほうが早い。ほんの十丁くらいのものなのだ。道場へ来る人は、たいていそこからもう歩いてしまう。つまり、小梅橋から、山々を右手に見ながらアスファルトの県道を南へ約十丁ほど行くと、山裾やますそに石の小さい門があって、そこから松並木が山腹までつづき、その松並木の尽きるあたりに、二むねの建物の屋根が見える。それがいま、僕の世話になっている「健康道場」と称するまことに風変りな結核療養所なのだ。新館と旧館と二棟にわかれている。旧館のほうはそれほどでもないが、新館はとても瀟洒しょうしゃな明るい建物だ。旧館で相当の鍛錬を積んだ人が、この新館のほうにつぎつぎと移されて来る事になっているのだ。けれども僕は、元気がよいので特別に、はじめから新館にいれられた。僕の部屋は、道場の表玄関から入ってすぐ右手の「桜の間」だ。「新緑の間」だの「白鳥の間」だの「向日葵ひまわりの間」だの、へんに恥ずかしいくらい綺麗きれいな名前がそれぞれの病室に附せられてあるのだ。
「桜の間」は、十畳間くらいの、そうしてやや長方形の洋室である。木製の頑丈がんじょうなベッドが南枕みなみまくらで四つ並んでいて、僕のベッドは部屋の一ばん奥にあって、枕元の大きい硝子窓ガラスまどの下には、十坪くらいの「乙女ヶ池」とかいう(この名は、あまり感心しないが)いつも涼しく澄んでいる池があって、ふなや金魚が泳いでいるのもはっきり見えて、まあ、僕のベッドの位置に就いては不服は無い。一番いい位置かも知れない。ベッドは木製でひどく大きく、ちゃちなスプリングなど附いていないのが、かえってたのもしく、両側には引出しやらたなやらがたくさん附いていて、身のまわりのもの一切をそれにしまい込んでも、まだ余分の引出しが残っているくらいだ。
 同室の先輩たちを紹介しよう。僕のとなりは、大月松右衛門おおつきまつえもん殿だ。その名のごとく人品こつがらいやしからぬ中年のおっさんだ。東京の新聞記者だとかいう話だ。早く細君に死なれて、いまは年頃の娘さんと二人だけの家庭の様子で、その娘さんも一緒に東京からこの健康道場ちかくの山家やまが疎開そかいして来ていて、時々このさびしき父を見舞いに来る。父はたいていむっつりしている。しかし、ふだんは寡言家かげんかでも、突如として恐るべき果断家に変ずる事もある。人格は、だいたい高潔らしい。仙骨せんこつを帯びているようなところもあるが、どうもまだ、はっきりはわからない。まっくろい口髭くちひげは立派だが、ひどい近眼らしく、眼鏡の奥の小さい赤い眼は、しょぼしょぼしている。丸い鼻の頭には、絶えず汗の粒がいて出るらしく、しきりにタオルで鼻の頭を強くこすって、そのために鼻の頭は、いまにも血のしたたり落ちるくらいに赤い。けれども、眼をつぶって何かを考えている時には、威厳がある。案外、偉いひとなのかも知れない。綽名あだな越後獅子えちごじし。その由来は、僕にはわからないが、ぴったりしているような感じもする。松右衛門殿も、この綽名をそんなにいやがってもいないようだ。ご自分からこの綽名を申出たのだという説もあるが、はっきりは、わからない。


 そのお隣りは、木下清七殿。左官屋さんだ。未だ独身の、二十八歳。健康道場第一等の美男におわします。色あくまでも白く、鼻がつんと高くて、眼許めもとすずしく、いかにもいい男だ。けれども少し爪先つまさき立っておしりを軽く振って歩く、あの歩き方だけは、やめたほうがよい。どうしてあんな歩き方をするのだろう。音楽的だとでも思っているのかしら。不可解だ。いろんな流行歌も知っているらしいが、それよりも都々逸どどいつというものが一ばんお得意のようである。僕は既に、五つ六つ聞かされた。松右衛門殿は眼をつぶって黙って聞いているが、僕は落ちつかない気持である。富士の山ほどお金をためて毎日五十銭ずつ使うつもりだとか、馬鹿々々ばかばかしい、なんの意味もないようなうたばかりなので、全く閉口のほかは無い。なおその上、文句入りの都々逸というのがあって、これがまた、ひどいんだ。唄の中に、芝居の台詞せりふのようなものがはいるのだ。あら、兄さん、とか何とか、どうにも聞いて居られないのだ。けれども一度に続けて二つ以上は歌わない。いくつでも続けて歌いたいらしいのだが、それ以上は松右衛門殿がゆるさない。二つ歌い終ると、越後獅子は眼をひらいて、もうよかろう、と言う。からだにさわる、と言い添える事もある。歌い手のからだにさわるという意味か、聞き手のからだにさわるという意味か、はっきりしない。でも、この清七殿だって決して悪い人じゃないんだ。俳句が好きなんだそうで、夜、寝る前に松右衛門殿にさまざまの近作を披露ひろうして、その感想を求めたけれども、越後は、うんともすんとも答えぬので、清七殿ひどくしょげかえって、さっさと寝てしまったが、あの時は可哀想かわいそうだった。清七殿は越後獅子をかなり尊敬しているらしい。このいきな男の名は、かっぽれ。
 そのお隣りに陣取っている人は、西脇一夫にしわきかずお殿。郵便局長だか何だかしていた人だそうだ。三十五歳。僕はこの人が一ばん好きだ。おとなしそうな小柄こがらの細君が時々、見舞いに来る。そうして二人で、ひそひそ何か話をしている。しんみりした風景だ。かっぽれも、越後も、遠慮してそれを見ないように努めているようである。それもまたいい心掛けだと思う。西脇殿の綽名は、つくし。ひょろ長いからであろうか。美男子ではないけれども、上品だ。学生のような感じがどこかにある。はにかむような微笑は魅力的だ。この人が、僕のお隣りだったら、よかったのにと僕はときどき思う。けれども、深夜、奇妙な声を出してうなる事があるので、やっぱりお隣りでなくてよかったとも思う。これでだいたい僕の同室の先輩たちの紹介もすんだ事になるのだが、つづいて当道場の特殊な療養生活に就いて少し御報告申しましょう。まず、毎日の日課の時間割を書いてみると、
六時            起床
七時            朝食
八時ヨリ八時半マデ     屈伸鍛錬
八時半ヨリ九時半マデ    摩擦
九時半ヨリ十時マデ     屈伸鍛錬
十時            場長巡回(日曜ハ指導員ノミノ巡回)
十時半ヨリ十一時半マデ   摩擦
十二時           昼食
一時ヨリ二時マデ      講話(日曜ハ慰安放送)
二時ヨリ二時半マデ     屈伸鍛錬
二時半ヨリ三時半マデ    摩擦
三時半ヨリ四時マデ     屈伸鍛錬
四時ヨリ四時半マデ     自然
四時半ヨリ五時半マデ    摩擦
六時            夕食
七時ヨリ七時半マデ     屈伸鍛錬
七時半ヨリ八時半マデ    摩擦
八時半           報告
九時            就寝


 こないだも、ちょっと申上げて置いたように、戦争中に焼かれた病院も多いだろうし、また罹災りさいしないまでも、物資不足やら手不足やらで閉鎖した病院も少くなかったようで、長期の入院を必要とするたくさんの結核患者、特に僕たちのようにあまり裕福でない患者たちは、行きどころを失ったような有様になったので、この辺には、さいわい敵機の襲撃もほとんど無いし、地方有力の篤志家が二、三打ち寄り、当局の賛助をも得て、もとからこの山腹にあった県の療養所を増築し、いまの田島博士を招聘しょうへいして、ここに、物資にたよらぬ独自の結核療養所が出来たというわけなのだ。まず、ざっとこの日課の時間割をごらんになっただけでも、普通の療養所の生活と随分ちがうのがおわかりだろうと思う。病院、あるいは患者などという観念を捨てさせるように仕組まれている。
 院長の事を場長と呼び、副院長以下のお医者は指導員、そうして看護婦さんたちは助手、僕たち入院患者は塾生じゅくせいと呼ばれる事になっている。すべてここの田島場長の創案らしい。田島先生がこの療養所へ招聘されて来てからは、内部の機構が一新せられ、患者に対しても独得の療法を施し、非常な好成績で、医学界の注目の的となっているのだそうだ。頭がすっかり禿げているので、五十歳くらいにも見えるが、あれでまだ三十歳代の独身者だとかいう事だ。せて長身の、ちょっと前こごみの、そうして、なかなか笑わない人だ。頭の禿げている人は、たいてい端正な顔をしているものだが、田島先生も、卵に目鼻というような典雅な容貌ようぼうの持主である。そうして、これも頭の禿げた人に特有の、れいのねこみたいな陰性の気むずかしさを持っている人のようである。ちょっと、こわい。毎日、午前十時にこの場長は、指導員、助手を引き連れて場内を巡回するのだが、その時には、道場全体が、しんとなる。塾生たちも、この場長の前では、おそろしく神妙にしている。けれども、陰ではこっそり綽名で呼んでいる。清盛きよもりというのだ。
 さて、それでは当道場の日課について、も少しくわしく説明しましょうか。屈伸鍛錬というのは、一口に言えば、手足と、腹筋の運動だ。こまかく書くと君は退屈するだろうから、ごく大ざっぱに要点だけ言うと、まあ、ベッドの上に仰向に大の字に寝たまま、手の指、手首、腕と順次に運動をはじめて、次に腹をへこましたり、ふくらましたり、ここはなかなかむずかしく練習を要するところで、また屈伸鍛錬の一ばん大事なところでもあるらしく、その次には足の運動、脚の筋肉をいろいろに伸ばしたり、ゆるめたりして、そうして大体、一とおり鍛錬を終る。そうして、一度終れば、また手の運動から繰り返し、三十分間、時間のある限りつづけていなければならぬ。これを前に記した時間割のとおり午前二回、午後三回、毎日やるんだから、楽じゃない。これまでの医学の常識から言えば、結核患者がこんな運動をするのは、とんでもない危険な事とされていたらしいが、これもまた、戦時の物資不足から生まれた新療法の一つであろう。当道場では、たしかに、この運動を熱心にやる人ほど、恢復かいふくが早いそうだ。
 次に摩擦の事を少し書こう。これも当道場独得のものらしい。そうしてこれは、ここの陽気な助手さんたちの役目なのだ。


 摩擦に用いるブラシは、散髪の時に用いる硬い毛のブラシの、あの毛を、ほんの少しやわらかくしたようなものである。だから、はじめのうちは、これでこすられると相当に痛く、皮膚のところどころに摩擦負けのブツブツの生ずるような事さえある。けれども、たいていは一週間ほどで慣れてしまう。
 摩擦の時間が来ると、れいの陽気な助手さんたちが、おのおの手わけして、順々に全部の塾生たちに摩擦してまわるのである。小さい金盥かなだらいに、タオルを畳んでいれて、それを水にひたして、ブラシをそのタオルに押しつけては水をつけ、それでもって、シャッシャッと摩擦するのである。摩擦は原則として、ほとんど全身にほどこす。入場後の一週間ほどは手足だけであるが、それからのちは、全身になる。横向きに寝て、まず手、それから足、胸、腹と摩擦して、次に寝がえりを打って反対側の手、足、胸、腹、背中、背中、腰と移って行くのである。慣れると、なかなか気持のよいものである。ことに、背中をこすってもらう時の気持は、何とも言えない。うまい助手さんもあるが、へたくその助手さんもある。
 けれども、この助手さんたちの事に就いては、後でまた書く事にしよう。
 道場の生活は、この屈伸鍛錬と摩擦の二つで明け暮れしていると思ってよい。戦争がすんでも、物資の不足は変らないのだから、まあ当分はこんな事で闘病の心意気を示すのも悪くないじゃないか。このほかには午後一時からの講話、四時の自然、八時半からの報告などがあるけれども、講話というのは、場長、指導員、または道場へ視察にやって来る各方面の名士など、かわるがわるマイクを通じて話かけて、それが部屋の外の廊下の要所々々に設備されてある拡声機から僕たちの部屋へ流れてはいり、僕たちはベッドの上にすわって黙って聞いているのだ。
 これは、戦争中に拡声機が電力の不足でだめになったので、一時休止していたのだそうだが、戦争がすんで電力の使用が少し緩和されると同時に、またすぐはじめられたのだ。場長は、このごろ、日本の科学の発展史、とでもいうようなテーマの講義を続けている。頭のいい講義とでもいうのであろうか、淡々たる口調で、僕たちの祖先の苦労を実に平明に解説してくれる。きのうは、杉田玄白すぎたげんぱくの「蘭学事始らんがくことはじめ」に就いてお話して下さった。玄白たちが、はじめて洋書をひらいて見たが、どのようにしてどう飜訳ほんやくしてよいのか、「まことに艫舵ろだなき船の大海に乗出せしが如く、茫洋ぼうようとして寄るべなく、ただあきれにあきれて居たるまでなり」というところなど実によかった。玄白たちの苦心に就いては、僕も中学校の時にあの歴史の木山ガンモ先生から教えられたが、しかし、あれとは丸っきり違う感じを受けた。
 ガンモは、玄白はひどいアバタで見られた顔ではなかった、などつまらぬ事ばかり言っていたっけね。とにかく、この場長の毎日の講話は、僕にはとても楽しみだ。日曜には、講話のかわりにレコオドを放送する。僕はあんまり音楽は好きでないけれども、でも一週間に一度くらい聞くのは、わるくないものだ。レコオドのあいまに、助手さんの肉声の歌が放送される事もあるが、これは聞いていて楽しい、というよりは、ハラハラして落ちかない気持になるものだ。でも、他の塾生たちには、これが一ばん歓迎されているようだ。清七殿など、眼を細くして聞いている。思うに、かれ自身も都々逸の文句入りというところなど、放送したくてたまらないのだろう。



 午後四時の自然というのは、まあ、安静の時間だ。この時刻には、僕たちの体温が一ばん上昇していて、からだが、だるくて、気分がいらいらして、けわしくなり、どうにも苦しいので、まあ諸君の気のむくように勝手な事をして過していたまえ、という意味で自由の三十分間を与えられているような具合いのものらしいが、でも、塾生の大部分は、この時間には、ただ静かにベッドに横臥おうがしている。ついでながら、この道場では、夜の睡眠の時以外は、ベッドに掛蒲団かけぶとんを用いる事を絶対に許さない。昼は、毛布も何も一切掛けずに、ただ寝巻を着たままでベッドの上にごろ寝をしているのだが、慣れると清潔な感じがして来て、かえって気持がいい。午後八時半の報告というのは、その日その日の世界情勢に就いての報道だ。やっぱり廊下の拡声機から、当直の事務員のおそろしく緊張した口調のニュウスが、いろいろと報告せられるのだ。この道場では、本を読む事はもちろん、新聞を読む事さえ禁ぜられている。耽読たんどくは、からだに悪い事かも知れない。まあ、ここにいる間だけでも、うるさい思念の洪水こうずいからのがれて、ただ新しい船出という一事をのみ確信して素朴そぼくに生きて遊んでいるのも、わるくないと思っている。
 ただ、君への手紙を書く時間が少くて、これには弱っている。たいてい食事後に、いそいで便箋びんせんを出して書いているが、書きたい事はたくさんあるのだし、この手紙も二日がかりで書いたのだ。でも、だんだん道場の生活に慣れるにしたがって、短い時間を利用する事も上手になって来るだろう。僕はもう何事につけても、ひどく楽天居士こじになっているようでもある。心配の種なんか、一つも無い。みんな忘れてしまった。ついでに、もうひとつ御紹介すると、僕のこの当道場にける綽名は、「ひばり」というのだ。実に、つまらない名前だ。小柴利助こしばりすけという僕の姓名が、小雲雀こひばりという具合いにも聞えるので、そんな綽名をもらう事になったものらしい。あまり名誉な事ではない。はじめは、どうにもいやらしく、てれくさくて、かなわなかったが、でもこのごろの僕は、何事に対しても寛大になっているので、ひばりと人に呼ばれても気軽に返事を与える事にしているのだ。わかったかい? 僕はもう昔の小柴じゃないんだよ。いまはもう、この健康道場に於ける一羽の雲雀なんだ。ピイチクピイチクやかましさえずって騒いでいるのさ。だから、君もどうかそのつもりで、これからの僕の手紙を読んでおくれ。何という軽薄なやつだ、なんて顔をしかめたりなんかしないでおくれ。
「ひばり。」と今も窓の外から、ここの助手さんのひとりが僕を鋭く呼ぶ。
「なんだい。」と僕は平然と答える。
「やっとるか。」
「やっとるぞ。」
「がんばれよ。」
「よし来た。」
 この問答は何だかわかるか。これはこの道場の、挨拶あいさつである。助手さんと塾生が、廊下ですれちがった時など、必ずこの挨拶を交す事にきまっているようだ。いつごろからはじまった事か、それはわからぬけれども、まさかここの場長がとりきめたものではなかろう。助手さんたちの案出したものに違いない。ひどく快活で、そうしてちょっと男の子みたいな手剛てごわさが、ここの看護婦さんたちに通有の気風らしい。場長や指導員、塾生、事務員、全部のひとに片端から辛辣しんらつな綽名を呈上するのも、すなわち、この助手さんたちのようである。油断のならぬところがあるのだ。この助手さんたちに就いては、更によく観察し、次便でまたくわしく報告する事にしよう。
 まずは当道場の概説くだんの如しというところだ。失敬。
九月三日

 

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